Lastseason6-1:引っ越し(viewpoint雅)
どれだけお酒を飲んでも酔えない。そのことに苛立つせいか、さらに酔えなくなっているような気もする。
私は普段、あまりお酒を飲まない。それはお酒に弱いからというわけではない。
以前は満月に対する子どもっぽいアピールでしかなかったし、それを止めてからもお酒を飲む必要性をあまり感じなかった。
お酒を飲む意義とは、酔って憂さを晴らすとか、嫌なことを忘れるとか、パーッと騒いでストレスを発散するとか、そういうところにあるのだと思う。
まったく酔うことができないということは、その意義が全く意味をなしていないということではないのだろうか。
元々そんなに酔う方ではなかったけれど、以前はもう少し酔えていたような気がする。最近、飲む回数が増えたせいで今まで以上にお酒に強くなってしまったのかもしれない。
手元のビールジョッキが空になったのに気付いて私は手を挙げて店員を呼んだ。
「んー、焼酎を……ロックで」
店員は何か言いたげな顔をしたけれど、「焼酎、ロックですね」と繰り返してオーダーを通した。
焼酎なら少しは酔えるかもしれない。
別に自暴自棄になっているわけではない。私は少し酔いたいだけなのだ。
少し待つと注文した焼酎が届いた。いっぱいに氷が入った背の低いグラスの六割くらいまで焼酎が入っている。
思わず「グラスぎりぎりまで注いで」と店員を呼び止めそうになったけれど、それを言ったら面倒な客だと思われそうだ。もしもこの店員が輝美だったなら、多分私は遠慮せずに言っていただろう。
私は仕方なく六割しか入っていない焼酎を一口飲む。喉を通る冷たさを追ってほんのり熱さが通り過ぎる。フゥと息を吐くと芋独特の甘いような香ばしいような香が鼻の奥に残った。
こうして飲むようになったのは二週間くらい前からだったと思う。日和と決別してから一週間が過ぎたころだ。
気持ちよく酔うことができれば、こうして飲み続ける日々も終えられる。それなのにただの一度も気持ちよく酔うことができない。それが腹立たしくて、さらにお酒をあおるのだけど、飲むほどに頭の奥が冴えていくような気がした。
飲んでいるのは日和と別れたことに悲しんだり後悔したりしているからではない。
日和と別れてからも、私は普段通りに朝起きて、会社に行き、そつなくなく仕事をこなしていた。それに新しい仕事も任されるようになった。何もかもがいつも通りで変わらない日々だった。
そして、そんなあまりにも変わらない日常に腹が立ったのだ。
一年以上付き合った恋人と別れた。しかもその原因は日和の浮気だ。許せるはずのない行為だけど私はそれを許そうと思ったのだ。それなのに日和は私を責めるような目を向けた。
そんなことがあったのなら、私はもっと動揺したり、苛立ったり、怒ったり、嘆いたり、苦しんだりするものではないのだろうか。
それなのに私の心は凪いでいた。
そしてきっと日和も同じではないかと思ったのだ。いつも通りに出勤して、いつも通りに笑みを浮かべ、いつも通りに仕事をする。
そんな日和の姿を思い浮かべたら腹が立った。
私たちが共に過ごした時間は結局そんなものだったのかと思うと、とても悔しかった。
日和と別れて一週間が過ぎ、揺らいでいない気持ちに揺らいだのだ。
そんな揺らぎさえ、お酒でも飲んで気持ちよく酔えさえすれば洗い流せると思った。
せっかくなら酒のつまみに輝美でもからかってやろうと、輝美がバイトをする居酒屋で飲むようになったのだけど、まったく酔うことができずに二週間が過ぎてしまった。
空になった焼酎のグラスを持ち上げて、おかわりを催促するとすぐに新しい焼酎が差し出される。
日和と別れた直接的な原因は日和の浮気だけど、日和が浮気をする原因となった出来事は、そのさらに三週間前にあった。
満月に呼び出されてよくわからない愚痴を聞かされたことだ。
満月にイライラさせられることは度々あったのだけれど、その日は我慢の限界を突破した。そして満月にビールを浴びせてしまったのだ。
大学時代、私は満月が好きだった。その気持ちをずっと引きずっていたのも確かだ。だけどそれはすっかり吹っ切れていた。だから私は改めて日和に告白をして日和と向き合うことにした。満月には未練なんて残っていない。世話の焼ける友人、ただそれだけだ。それでもあの日の満月の言葉は許せなかった。
大学のころから満月はいつもそうだった。好きな人ができるとうれしそうにその人の癖を真似して、たったひと言話せただけでとろけるような顔をするくせに、いつもどこか諦めていた。
一歩踏み出す前に諦めてしまう満月に、苛立ちながらもホッとしていた。満月が踏み出してくれれば想いを断ち切れるのにと思いながら、まだ私の手の届く場所にいることに安堵していたのだ。
だけど今回は違う。満月は勢いとはいえ一歩踏み出して進みはじめた。それなのに立ち止まり、あまつさえ後戻りをしようとしていた。
だけど考えてみれば満月に気持ちを告げることもなく、拗らせていた私が言えたことではない。友人として喝を入れるのならば、私のとるべき態度はあれではなかった。
そうして私は真っすぐに家に帰る気になれず、ブラブラと歩き回って適当な店でお酒をあおった。後悔とともにお酒を胃に流し込んでいたら、無性に日和に会いたくなって日和に電話をかけたのだ。
日和が大学時代の友だちと会っていることを知っていた。それでも邪魔をしてしまうかもなんて考えなかった。こんな気持ちのときは日和が側にいるのが当たり前だったから迷うことすらなかった。
だから日和を抱こうとして拒まれたとき、驚く以上に腹が立ったのだ。日和から謝ってくるまで連絡なんてしないと決めて三週間も放置した。
あのとき日和は「満月さんと何があったの?」と訊いた。それもすごく腹立たしかった。日和はずっと私が言葉にしたくないことは訊かなかった。私が言わなくてもわかってくれていた。
私だってどうしてあんなに満月に腹が立ったのかわからない。いつもの日和なら軽く笑みを浮かべて抱きしめてくれるのに、あの日の日和は私に言いたくない言葉を言わせようとした。
そこまで回想して私はふと違和感に気付いた。
どうして私はあんなに頑なに満月との出来事を話したくないと思ったのだろう。日和と別れたあの日も、日和に同じことを聞かれて私は顔をそむけた。
私が満月を好きだったことは日和も知っている。それなのに日和はあえてそれを聞こうとして、私は頑なに口を閉ざした。それはどうしてなのだろう。
グラスを持ち上げてグイッとあおる。だが水の味しかしなかった。すでにグラスは空になっている。
私はグラスを上げて何杯目かわからないおかわりを催促した。
すると私の手からスッとグラスが抜かれ「お水をお願いします」という声が頭の上から聞こえる。
見上げると見慣れた満月の顔があった。若干目がぼやけていたけれど、満月のマヌケな顔で間違いない。
「雅、飲み過ぎじゃない?」
そう言って満月はカウンターの隣の席に座った。
店員がやってきて私の前に水を置く。
「これじゃない。焼酎」
私が店員に向かって言うと、すかさず満月が「大丈夫です」と言って店員を押し返してしまった。私はまだ飲み足りない。
「雅、何やってるの?」
「何って、お酒を飲んでるだけでしょう。満月こそ何しに来たのよ」
「輝美ちゃんから聞いたの。雅が毎晩飲んだくれてるって」
「余計なことを……」
私はそっぽを向いて、仕方なく水を口に含んだ。
「雅、本当に大丈夫?」
なんだかいつもと逆の立場に笑えてくる。そもそも満月も私がビールを浴びせてから一度も連絡をしてこなかった。それなのに、そのことをすっかり忘れたような顔で私の前に現れた。
「大丈夫って何が? 私はいつも通りだよ。もう自分でもびっくりするくらい平常運転」
「どこがいつも通りなの? 普段はこんな飲み方しないよね?」
「いくら飲んでも酔わないから問題ない」
「結構フラフラしてるよ?」
「してない」
「してる」
「してない」
そうして満月が大きなため息をついた。なんだかイラっとする。
「満月は私の心配をしてる場合じゃないんじゃないの?」
「私?」
「ビールかけられたの、忘れたわけ?」
満月が目を丸くして首を傾げた。本当に忘れていたようだ。思わず手元の水を頭からかけてやりたい衝動が走る。
「ああ、忘れてない、忘れてないよ!」
私の苛立ちに気付いたのか、満月が両手を振りながら慌てて答えた。仕方がないので水をかけるのはやめておこう。
「それで、矢沢陽とはどうなったの?」
「うん、やっぱり付き合うのやめたんだ」
「はぁ?」
思わず大きな声が出る。やはり満月は何も変わっていないし、なにもわかっていない。
「あ、いや、ちゃんと一生懸命考えた結果だよ。それに好きなのはやめない」
そう言った満月を改めて見ると、迷いのない真っすぐな目をしていた。それはこの間の表情とは全く違っている。
「どういうこと?」
「あれから真剣に考えてね、やっぱり矢沢さんのことが好きだなって思ったんだ」
「それならどうして? せっかく付き合えたのに……」
話していたらなんだか急に酔いが回ってくるような感覚がした。
「そうなんだけど、矢沢さんは私を好きってわけじゃないでしょう? それで付き合ってるのって、なんだか私の気持ちを押し付けてるみたいで……その、無理をさせてるみたいでしっくりこなかったの」
「しっくりこない?」
「うん。だから付き合うって形よりも、矢沢さんに振り向いてもらうために頑張る方が良いなって思ったんだ」
「振り向いてもらう?」
「うん」
「諦めない?」
「今度は諦めない」
「そう……」
どうやら満月は少し変わったようだ。
「あ、あのね、雅……」
「何?」
「今更、こんなこと言うのはあれなんだけど……」
「何よ」
「大学の頃ね、私、雅のことが好きだったんだ」
「は?」
「そうだよね、驚くよね。でも……」
「そんなこと知ってたわよ」
「そうだよ……ね……? って知ってたの!」
満月が顔を真っ赤にしていて面白い。
「隠せてるつもりだったの? あれで?」
「気付いてたのに、気付かないフリしてたの?」
「うん」
「どうして!」
どうしてかなんて言えるはずがない。私は満月よりひどいのだから。ずっと好きで、ずっと引きずっていて、満月が私に気持ちがあると知っても尚、私は逃げたのだ。
「だって、面倒なんだもん」
「あー、あー、そうだよね……」
満月は簡単に納得して引き下がった。ちょっと酔っているし、もう少し食い下がられたらポロリと本音を言ってしまったかもしれないけれど、私はどうやら本音を伝える機会を失ったようだ。
「ホント、満月ってバカだよねぇ」
「はいはい。バカですよ。でも、それでもずっと友だちでいてくれてありがとう」
「なによ、急に」
「雅のこと、本当に友だちだと思ってるから」
「はいはい」
「だから聞くよ。どうして日和さんと別れたの?」
思わず満月を睨んでしまった。満月は唇を結び緊張した顔で私を見る。
「誰から聞いたの?」
思わずわかり切ったことを訊いてしまった。
「日和さん……」
「せいせいしたって言ってた?」
「そんなことあるわけないでしょう」
「そう? ありそうだけど」
満面の笑みで「せいせいしたぁ~」と両手を伸ばして背伸びをする日和の姿が目に浮かんだ。
自分で言うのもなんだけど、私は面倒臭い。こんな私とは別れて正解だと思う。
あの日一緒にいた、大学の友だち……小夜子という子と今頃は付き合っているのかもしれない。別にそれならそれでいい。
「事情は知らないけど、ちゃんと日和さんと話し合った方がいいんじゃないの?」
「話し合うことなんてないよ。それに私もせいせいしてるし」
「だったらなんで毎晩こんなにお酒を飲んでるの?」
「ちょっと飲みたい気分だっただけだよ」
「何か誤解があっただけなんじゃないの? だってあんなに仲良くしてたじゃない」
「誤解? 誤解なんてしてないよ」
日和は浮気をした。あの小夜子という女と関係を持った。そのことを日和自身がはっきりと言ったのだ。
許す義理もないし、許そうとしたのに拒否したのは日和の方だ。私は何も悪くない。
「でも、何かの行き違いがあったのかもしれないじゃない」
「もうその話は聞きたくない」
私は立ち上がる。
「雅!」
引き留めようとする満月を置き去りにして私は会計をして店を出た。
二週間近く飲み続けて、ようやく少し酔えたような気がしたけれど、どうやら悪酔いのようだ。胸の奥がムカムカしていた。
日曜日、昼近くに目が覚めてしばらくボーっとしていたけれど、それも苦痛になって起き上がった。
カーテンを開けると腹が立つほどの日差しが降り注いでいた。
窓際に置かれた小さな二つの鉢植えの植物が枯れてしまっている。やはり私の部屋にはこんなものはいらなかったのだ。
私は両手でそれを持ち上げて捨てようとしたけれど、鉢や土をどう分別すればいいのかわからなかったので、とりあえず元の場所に戻しておいた。
着替えをするためにクローゼットを開けると、日和の服や小物が視界に入る。あの日から一度も日和はここを訪れていない。
別れた相手の家に来たくないのかもしれないけれど、自分のモノくらい片付けてほしいものだ。
私がこれらをまとめて送り付ければいいのだろうが、日和のために私がそんな作業をするのはなんだか癪だった。
モノだけではない。日和はこの部屋で過ごすことが多かったから、会わなくなって二カ月近く経っていても、いまだに日和の匂いが残っているような気がする。
そして私は引っ越しをしようと思い立った。
前は日和と住む部屋を探そうと思っていたけれど、今回はひとりで住む新しい部屋を探す。
日和の匂いや日和の面影を全部手放して新しい生活をはじめれば、気分がスッキリするのではないだろうか。
私は着替えを済ませて部屋を出た。
今度はどこに住もうかと考えながら適当に電車に乗って適当な駅で降りる。
通勤が楽な場所がいい。日和の家からは遠い方がいい。
そんなことを考えながら街の中をふらついていたら、目の前に見知った顔を見つけた。
たった一度、ほんの短い時間会っただけの人だけど私はその顔をはっきりと覚えている。
日和の浮気相手の小夜子だ。
小夜子はデートをしているようだった。指を絡ませて手を繋ぎ、楽しそうに語らいながら歩いている。
そのデートの相手が日和だったのならば、私は何も言わずに踵を返すか、「幸せそうでよかった」なんて嫌味を言いに行くかどちらかだっただろう。
だけど小夜子が寄り添う相手は見知らぬ男だった。
日和がこの小夜子という女に弄ばれただけだったとしても、日和がこの女と関係を持ったという事実は変わらない。もしも日和がこのことで傷ついていたとしても私には関係ない。
そう思っているのに、私はなぜか小夜子の前に立ちはだかっていた。
足を止めた小夜子は私の顔をジロリと睨んだ。そしてその三秒後、頬を引きつらせて無理矢理笑みを作った。
「あー、立花さん、久しぶり~!」
旧友に会ったかのような演技をしながら私の肩をトントンと叩くと、彼氏に向かって何かを小声で告げた。しばらく問答をしていたようだが、彼氏は不満そうな顔で私をチラチラと見ながら立ち去った。
その彼氏の後ろ姿を見届けてから、小夜子は笑顔を作ったまま私に話しかける。
「えっと、何か私に用ですか?」
顔色をうかがうような仕草が癇に障る。
「今の男、誰?」
「誰って、一応、彼氏ですけど……」
万一にも仲の良い兄妹という可能性も捨てられないと思って確認をしてみたのだが、やはり彼氏だったようだ。
それでもそれは日和とこの女の問題であって私には関係ない。そう思っているのに腹が立ってしょうがない。
私は改めて目の前の女の顔をじっくりと見た。
少しやせすぎのような気はするが、目鼻立ちは整っている。目がパッチリとしていて、どちらかと言えばかわいらしいタイプだと思う。
私とは全然タイプが違った。日和は私の顔が好きだと言っていたけれど、この女のどこに惹かれたのだろう。
確かに男ウケが良さそうな感じはする。だけど特筆して魅力があるとは思えない。見た目ならば、私はこの女に負けていないと思う。
「あの、立花さん?」
「日和は、知ってるの?」
「え?」
「あの男のこと」
「ああ、彼氏のことは知ってますけど……」
平然と言ってのける小夜子の胸倉を掴みたくなった。本当に日和はこの女のどこが良かったというのだろう。全く理解ができない。
「日和のことは、遊びだったわけ?」
「あっ! え? あー、もしかしてバレてます?」
私が黙っていると、小夜子は「参ったなぁ」と言いながら頭を掻いた。
「遊びというか、出来心というか……」
「出来心?」
「あの日は二人ともかなり酔ってて……私は彼氏とうまくいってなくて、日和も、その……立花さんとちょっとうまくいってない感じだったので、癒されたいなぁ、というか……妙に人肌が恋しいときってあるじゃないですか」
「はぁ?」
小夜子の軽い口調の言い訳に我慢が限界に達しようとしていた。
「あー、すみません。私も強引だったかなって後から反省したんですよ」
「あなたが日和を誘ったの?」
「誘ったというか押し倒したというか……すみません」
小夜子の言葉は本当に軽い。その軽さが私の頭を少し冷静にさせた。子どもが好奇心でいたずらをしたような軽さを感じたからだ。もちろん日和と小夜子の行為は決して軽くはない。だけど小夜子にの日和との出来事は好奇心の延長でしかないのかもしれない。
「日和のこと、何とも思ってないの?」
「友だちだと思ってますけど、それ以上はないですよ。日和もそうです。それに……」
「それに?」
小夜子は少し周囲を見回してから一歩私に近づいて声を潜めた。
「あのとき日和、私のことを『雅』って呼んでたから……本人は覚えてないみたいですけど。それで日和は本当に立花さんのことを好きなんだなって思ったので……」
私は一歩後ろに下がって横を向くと右手で口もとを抑えた。顔が赤くなっているような気がしたからだ。
「えっと、つまり、あなたと日和の間に特別な感情はないってこと?」
「もちろん」
小夜子ははっきりと言う。
それならば、日和とやり直すチャンスはあるだろうか。日和がまだ私を好きだと言ってくれるのならばやり直すことができるかもしれない。
私は小夜子と別れて日和の家に向かった。
玄関の前に立ち呼び鈴を押す。インターホン越しに私の顔を見たらドアを開けてくれないかもしれない。どうやって開けてもらおうかと思案していたのに「はい」といってすぐにドアが開いた。
「え? 雅?」
日和は目を丸くして私を見る。
「えっと……」
まさかすぐにドアを開けてくれるとは思っていなかったので何と言えばいいのかわからなくなった。
「何しに来たの?」
日和は穏やかな顔で言う。何の感情もない穏やかな顔に胸がズキズキと痛んだ。
「話が、したくて……」
「んー、まぁいいか。上がって」
そうして日和は家の中に私を招き入れた。
何度か足を踏み入れたことがある日和の部屋だったが、今日は今までと違っていた。
ベッドや棚が無くなり、段ボールが積み上げられている。
「なに、これ?」
「引っ越し」
「どこに?」
「どこだっていいでしょう?」
今まで日和がこんな風に突き放したしゃべり方をすることはなかった。私たちは本当に別れたのだと突き付けられる。
「とりあえず適当に座って。あ、お茶も出せないけど」
「ああ、うん」
私が広く空いた空間に腰を掛けるとドアチャイムが鳴った。
「はーい」
日和はそう言ってドアを開ける。作業着を着た二人の男性が部屋に入ってきて、次々と段ボールを運び出した。そうして部屋の中の荷物はすっかりなくなり、ボストンバッグと私と日和だけが部屋に残った。
日和は私から少し離れた場所に座って「それで話ってなに?」と切り出す。
頭の中が真っ白だった。何を話そうと思っていたのだろう。
そう、小夜子に会って話しを聞いたのだ。二人とも酔っていて、本当に出来心で、浮気をするつもりなんてなかったんでしょう。だったら浮気をしたことはなかったことにしてもいい。だから、もう一度やり直さない?
確かそんなことを言おうと思っていたはずだ。
「雅?」
「ごめん……」
「何を謝ってるの?」
「満月と会ったとき、満月の話を聞いて、すごく腹が立って……」
「雅?」
「もう何とも思ってないのに、矢沢陽のことを諦めようとしている満月に腹が立って、そんな風に腹を立てている自分に動揺した。そんなのを日和に知られたくなかった。かっこ悪くて、嫌だった……」
日和は黙って私の話を聞いている。私は息を付いて続けた。
「日和は、全部許してくれると思ってた。何も言わなくてもわかってくれると思ってた。だから拒絶されて腹が立った。日和にかっこ悪いところなんて見せたくないのに、すごくかっこ悪くて……だから、日和が悪いんだって思い込もうとした」
日和が私に近づいて私の頬に触れた。そして包み込むようにして親指で頬を撫でる。
「泣くことないのに」
日和の言葉でようやく私は自分が涙をこぼしていることに気付いた。日和は両手を私の頬に当てて落ちる涙を拭ってくれた。けれど、泣いていると気付いたら余計に涙が溢れ出てきてしまう。
「ごめん。日和に甘えてた。ごめん」
「雅のかっこ悪いところなんて知ってるのに」
「満月を好きだったとき、ずっと日和を傷つけてきて……ようやくちゃんと付き合おうと思ったのに、また満月に振り回されたなんて言えなかった……」
「私は、言ってほしかったよ。何に傷ついたのか、何が悲しかったのか、ちゃんと話してほしかった」
「うん」
私の返事を聞くと、日和は私の頬にあてていた手を離して姿勢を正した。
「雅、ちゃんと話してくれてありがとう。でも……ごめん……」
心臓がギュッと鳴った。遅すぎたのだ。自分のバカげたプライドのせいで、私はとても大切なものを失ってしまった。落ち着きはじめていたのに、再び目頭が熱を帯びはじめた。だけど今は涙を落とすべきではない。私は瞳を閉じてグッと涙をこらえた。
「私がしたことは許されることじゃないよ」
覚悟していたものとは違う日和の言葉に、私は目を開けた。日和は俯き苦しそうに眉をしかめている。そんな日和の顔を見るのははじめてだった。
「私は気にしてない……」
私の言葉に、日和はゆっくりと首を横に振った。
「私自身が私を許せない……」
日和の顔は真剣だった。もしも私が一瞬でも躊躇したら本当に終わってしまうと直感的に察した。
だから私は一拍の間もおかず日和の手を両手で包んだ。
「雅?」
「さっき、小夜子さんと会った。偶然だったけど……」
日和が手を引き、何かを言おうとしたけれど、私はその手をギュッと握って言葉を続ける。
「誘ったのは小夜子さんだって……」
「でも、私はそれを受け入れた。それもいいかなって思ったんだよ」
「だけど、私のことを想ってくれていたんでしょう?」
「え?」
「そのときも、私の名前を呼んでたって、小夜子さんが……」
すると日和は目を丸くした。そしてみるみる顔を赤く染めていく。
「そ、そんなことっ」
そんな日和の表情を見るのも初めてだった。一年以上付き合っていたのに、私がどれだけ日和を見ていなかったのか思い知らされた。
このわずかな時間に垣間見た日和の新しい表情のすべてに惹かれる。もっと日和を知りたいと思う。
「日和、済んでしまったことはもうどうしようもないよ。だけど日和がそのことに罪悪感を抱いているなら、もう一度私に日和と付き合うチャンスをちょうだい」
「だけど……」
「三度目の正直って言うでしょう。今度こそ、絶対に間違えない。だから、もう一度チャンスをください」
「でも、私は雅を裏切ったんだよ。本当に許せるの?」
「多分、許すとか許さないとかの話じゃないんだと思う。引っかかりがないって言ったら嘘だよ。だけど、日和と離れて日和がいないと私はダメなんだってわかった」
「だったら……どうしてもっと早く来てくれなかったの?」
「日和は……きっと私がいなくても大丈夫だろうと思ったら悔しくて……。だから自分から折れるのが嫌で、日和から来てくれるのを待ってた……」
日和は天を仰いで大きな息を付いた。そして再び私を見たときには、いつもの日和の表情が戻っていた。
「そういうところだけ、私たちって似てるんだね」
そうして日和はクスクスと笑う。
「私とやり直してくれる?」
「だけどまた間違えるかもしれないよ?」
「そのときはちゃんと話し合おう。もう逃げないから……。その代わりにかっこ悪いところをいっぱい見せちゃうかもしれないけど」
「私はかっこ悪い雅も好きだよ」
「日和は物好きだね」
「物好きな女は嫌い?」
「大好き」
そうして顔を寄せると日和も笑顔で顔を寄せて軽く唇を合わせた。
もっと深いキスをしたかったけれど、そうするとその先を我慢できなくなりそうだった。
「ねぇ日和、ところでどこに引っ越すの?」
欲望を抑えるべく、私は別の話を振る。
「ああ、実はまだ決めてないの」
「へ?」
「更新時期だったから先に解約しちゃった」
「また無茶なことを……荷物はどこに送ったの?」
「大きなものは処分して、残りは実家に送った」
「実家って、会社に通える場所だったっけ?」
「ちょっと辛いけど、頑張ればなんとか」
私は少しだけ考えて日和に提案する。
「それならウチに住まない?」
「新しい部屋が決まるまで?」
「そう。二人で暮らす新しい部屋が決まるまで」
日和は返事をする代わりに、笑みを浮かべて私の頬にキスをした。
バカな意地とプライドで日和を失わなくてよかった。そんな実感を抱きつつ、私と日和は手を繋いで私の家へと向かう。
繋いだ手を少し持ち上げて日和が言った。
「手を繋いで歩くのってはじめてじゃない?」
「ああ、そういえばそうかも」
改めて言われると、なんだか照れくさいようなうれしいようなむず痒さを感じる。
「ねぇ、雅?」
「なに?」
日和が少し歩きづらいほど体を寄せて小声で言った。
「今晩、私が上でもいい?」
「はぁ?」
唐突な申し出に思わず大きな声が出てしまう。慌てて口もとを抑えながら「急に、どうして?」と尋ねてみた。
どうしてもタチでなければいけないというほどではないし、行為の流れによっては入れ替ることもなくはない。だけど日和から積極的にそんなことを言うのははじめてのことだ。
「ちょっと目覚めた」
「ん?」
「小夜子って男の人としか付き合ったことないから、私がタチだったんだけど……」
「さすがに、あんまり聞きたくはないな……」
と言いつつ、行為のときに私の名前を呼んでいたということを思い出して、想像したらちょっと興奮してしまった。
「疲れたし向いてないなとは思ったんだけどね」
「向いてないなら無理しなくていいんじゃない?」
「相手が雅ならアリかなぁって」
「えぇ?」
不満の声を上げながら、期待感で足が速くなる。
日和はグッと私の腕を引いて私の耳もとに手を当てて囁いた。
「だから今夜も、雅の『なく』ところを見せてね」
「えぇ~」
なんとか不満を装った声を上げてみたけれど、背中をゾクゾクと期待が走っていた。そして日和は挑発するような視線を向けながら笑みを浮かべていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます