season5-3:友情(viewpoint日和)

「ねぇ日和さん、ちょっと聞きたいんだけど……」

 その声に振り返ると、満月さんが手に持った資料をプラプラと振りながら立っていた。

「ん~? なぁに?」

「この資料なんだけどね」

 そう言いながら満月さんは資料を自分の目の前にかざす。立っている満月さんの手元を座っている私が見られるはずがない。

「満月さん見えないよ~」

「え? あっ、ごめんっ」

 満月さんは慌てて資料を私のデスクの上に広げた。満月さんは腰をかがめて資料についての説明をはじめる。

 説明を聞きながら、横目ですぐ隣にある満月さんの顔をチラリと見た。

 満月さんは、矢沢さんと付き合うことを決めてから(輝美も含めた三人で付き合うという変則形だけど)テンションが上がったり下がったりしていた。しかしそれも最近はすっかり落ち着いている。

 満月さんが雅と会って話したいと私に許可を求めてきたのは三週間前のことだ。

 あの日、私は満月さんからの申し出を断りたいと思っていた。もちろん、ただの友だちだったなら、あの時に満月さんに伝えた通りのことを思っていたはずだ。だけど少なくとも雅にとっては、満月さんを『ただの友だち』というのは無理がある。

 大学時代の友人と約束があったから、雅と会う予定にしていなかったのは本当だ。だけど、満月さんの申し出を快諾したのは、ただの強がりとプライドのせいだったと思う。

 だって本当は、友人との約束をキャンセルして満月さんに付いていきたいと思っていたのだから――。



 後ろ髪を引かれる思いで、私は相川久美(あいかわくみ)に指定されたレストランに向かった。

 大学時代には毎日のように顔を合わせて、一緒に遊び歩いていたものだけど、卒業をしてからは一度も会っていない。

 女友だちなんてそんなものだろうと思っていたから、約半年ぶりの誘いはうれしかった。そのはずなのに、なぜこんな日に声を掛けたんだと八つ当たりの気持ちが湧いてくる。

 辿り着いたお店はおしゃれなカジュアルフレンチレストランだった。いかにもデートに最適といった雰囲気で、入り口には三組のカップルが入店を待っていた。

 私は満席の店内をぐるりと見渡す。すると笑顔で手を振る久美の姿をすぐに見つけられた。店員に待ち合わせであることを告げて、久美が座るテーブルに歩み寄る。

「久美、久しぶりだね」

 私はいつもの笑顔を作って声を掛けて久美の向かいの席に座る。

「本当に久しぶり! 日和、変わってないね」

「そう? 久美は……きれいになったんじゃない? 肌もツヤツヤだよ」

「えー、そんなことないよぉ」

 そう答えながらも久美はまんざらでもない顔を見せる。そうして一通りのあいさつを終えると、久美はメニューを差し出した。

「何か食べたいものある?」

「んー、どうしよう。どれも美味しそうだね……」

「だったらこの二人用のコースにしない? 結構リーズナブルだし、この店のおすすめの料理が食べられるしさ」

「そうなの? それなら二人用のコースにしようか」

「そうしよう。あ、飲み物はこの白ワインを頼まない? 飲みやすくてどんな料理にも合うんだって」

「へー、そうなんだ。じゃあ、その白ワインで」

 そうして白ワインとコースを注文すると、前菜と白ワインはほとんど待たずにテーブルに届けられた。

「久美はこのお店によく来るの?」

「どうして?」

「このお店の料理のことに詳しかったから」

「ああ、うん、前にも来たことがあるんだよ」

 そう言って久美は少し含みのある笑みを見せた。そして左手でサイドに垂れる髪を耳に掛ける。

「それで、今日は何の話なの?」

 私は早く久美との食事を切り上げたくて、いきなり本題に迫った。

「相変わらず日和は鋭いね。実は結婚が決まったんだよね」

「結婚? もう?」

 左手に光るリングを見つけて、彼氏ができたという自慢話を聞かされるのだろうと思っていたから、結婚という言葉にはさすがに驚いた。

「うん。式はまだ少し先の話なんだけど、日和にも披露宴に参加してほしいと思って」

「私に?」

 学生時代の友人を結婚披露宴に呼ぶのは不思議なことではないと思う。だけど、大学を卒業してから一度も連絡を取り合わないような仲だ。別に仲が悪かったとは思わないけれど、たまたま同じ時期顔を合わせていたというだけの関係に思える。薄情ないいかたいなるけれど、私たちはそれほど深い友情を結んでいるわけではなかった。

「うん。小夜子(さよこ)にも声を掛けてあるから」

 小夜子とは、私と久美の共通の友人だ。大学時代は三人でつるんで遊んでいることが多かった。

 大学時代の久美は「彼氏が欲しい!」「素敵な人いないの?」と口癖のように言っていた。そして言葉だけではなく積極的に出会いの場を求めて、私や小夜子を連れて合コンや飲み会に参加する。

 だけどそんな合コンで一番モテるのは、久美の付き合いで参加する小夜子だった。小夜子自身はあまり興味がないようで、声を掛けてくる男性を概ね無視していたのだけれど、その様子に久美はいつも嫉妬していた。

 それならば私や小夜子を連れて行かなければいいのに、次の機会にも久美は必ず私たちを誘う。

 私はそんな二人のやり取りを観察して楽しんでいた。

 そういえば、雅と出会ったバーに行きたいと言い出したのは久美だった。合コンでの連敗記録を更新していて、「男なんてもういい!」と言っていたころだ。テレビだかネットだかで、レズビアンバーというものを見掛けて興味を持ったらしい。

 だけど久美はそのバーにはいかなかった。お店に行こうと決めていた日の直前に念願の彼氏ができたからだ。

 久美はかなり浮かれていて私たちとの約束をいとも簡単に反故にした。だから久美は雅のことを知らない。

「私たちが参列するのって場違いじゃない? 相手は私たちも知ってる人? ……大学のときの彼氏、じゃないよね?」

「全然違うよ!」

 着々と料理とワインを減らしながら、私たちは会話を続ける。

「会社の上司なの。年上の人で頼りになるんだ。あっ、この店も彼に教えてもらったんだよ」

「へぇ、ステキな店を知ってるんだね」

 私は微笑みを浮かべて言ったけれど、雅の家の近くで見つけたたこ焼きの方が美味しかったな、と思っていた。

「でしょう? 彼、すごくセンスがいいんだ」

 私との待ち合わせにこの店を選んだのも、彼の自慢をしたかったからだろう。だけど雑誌でデートスポットとして紹介されているようなレストランに、私は魅力を感じなかった。

「それなら出会ってまだ半年? スピード婚だね」

「なんか、出会った瞬間に運命を感じちゃったんだよね。大学のときの彼なんてお子様だったじゃない。私には大人の人の方が合うみたい」

 大学のころは彼のことを「同じ目線で話せる」とか「気負わなくていいから一緒にいてやすらぐ」とか言っていたような気がする。

 そんな彼と別れた原因は、彼の浮気だった。そのときは「もう男なんて信用できない」と言っていたけれど、結婚相手は本当に大丈夫なのだろうか。

「それなら余計に私たちは参列しない方がいいんじゃないの?」

 正直に言ってしまえば面倒くさい。確かに友人の門出を祝ってあげたいという気持ちも少しはあるけれど、せいぜい二次会に参加するくらいでいいような気がする。

「小夜子もそんなこと言ってた。二人とも冷たいよ」

 そう言って久美は頬を膨らませた。それから少し困ったような表情を浮かべて続ける。

「彼、年上だし顔も広いんだよね。だから披露宴に呼ばなきゃいけない人も多いの。だけど私は入社して半年でしょう。親しい人も多くないし、会社関係だと彼の招待客と被る人も多いんだよね。新郎側と新婦側の招待客のバランスが悪すぎるのってあんまりよくないんだって。だから学生時代の友だちに声を掛けようと思って。大学時代の友だちなら、日和と小夜子は外せないでしょう?」

 まるであらかじめ決められていたかのような長い台詞を、久美は一気にまくし立てる。

「小夜子はどうするって?」

「出席してくれるって言ってくれた」

「そうなんだ……。だったら私も出席しようかな」

「ほんと! うれしい、ありがとう」

 満面の笑みを浮かべた久美子に、私は笑顔で頷いて答えた。

 久美の話はこれで終わったはずだ。料理もデザートとコーヒーを残すのみになっている。

 ミニケーキがかわいらしく盛り付けられた皿とコーヒーが運ばれてくると、久美は上機嫌なまま話を続けた。

「二人に出席してもらえてよかった。ホッとしたよ」

 だけどそのあとすぐに表情を曇らせた。

「でも、小夜子はちょっと心配かな……」

「どうかしたの?」

「日和も最近会ってないの?」

「うん」

 最近というか、大学を卒業してから会っていない。

「この間久々に会ったらすごくゲッソリしてたんだよね。顔色もわるくてさ。なんだか仕事がめちゃくちゃキツイみたい」

「そうなんだ、心配だね」

「うん、心配……。式までもちょっとは元気になってるといいんだけど……」

 心配そうな表情の久美に、私は苦笑いを隠せなかった。どうやら久美の頭の中は結婚式一色に染まっているようだ。

 仕事で疲れた小夜子が久美に式の話を聞いている様子を思い浮かべると気の毒になってくる。出席を承諾したのも、早く久美から解放されたい一心だったのではないかと勘繰りたくなる。

 そうしてレストランを出たのは想像していたよりも早い時間だった。久美と会うのは久々だから、もしかしたら二軒、三軒と行くことになるかもしれないと思って、雅にはそう伝えてある。

 だけど久美はこれから彼と約束があると言って早々に帰ってしまった。

 私は自宅に戻るのをやめて雅の家に向かう。満月さんと会っていることが気になるというのもあるのだけれど、明日は二人で不動産屋を回ろうと約束をしている。それなら雅の家に泊った方が楽だ。

 雅が住むマンションに辿り着き、エントランスからインターホンを鳴らした。だけど返事がない。まだ満月さんと一緒なのかもしれない。時間を確認すると十時を回ったばかりだった。遅過ぎるという程ではない。

 私は合鍵を使ってエントランスの自動ドアを開けて雅の部屋に向かった。

 部屋の中は真っ暗で人の気配もない。もしかしたら居留守を使っただけかもと思ったのだけど、本当にまだ帰ってきていないようだ。

 部屋の中をぐるりと見渡すと、パジャマが脱ぎ捨てられていて、キッチンのシンクには食器が残っていた。

 今朝は寝坊をして慌てて家を出たのかもしれない。

 窓際に二つ並んだ小さな植木鉢の花はすでに落ちていたけれど、葉っぱは元気いっぱいに見える。どうやらきちんと世話を続けているようだ。ただそれだけのことがなぜかうれしく感じる。

 私は食器を洗い、散らかったパジャマを畳み、簡単に部屋の掃除をしてベッドを整えた。一通りの作業が終わって十一時を回ってもまだ雅は帰ってこない。

 輝美がバイトをしているあの居酒屋で飲んでいるのだろう。駅から雅の家に来る途中、居酒屋に顔を出そうかと思ったのだけれどぐっと堪えた。友だち同士の集まりに恋人が乱入することほど白けさせることはないだろうと思ったからだ。だけどこんなに帰りが遅いのならば顔を出しておけばよかった。

 今更、あの居酒屋まで行く気にはなれなかったので、お風呂に入ることにした。すぐにのぼせてしまう体質だけど、今日はゆっくりと湯船に浸かりたい気分だったので、お湯の設定温度を少し下げてから給湯をはじめた。

 着替えを用意して、洗面所でメイクを落としていると、お風呂の準備ができたことを報せる声が響いた。

 私はシャワーで軽く体を流すと湯船にドボンと体を沈める。口までお湯につけてブクブクと泡を吹いた。今日はなぜだか妙に落ち着かない。

 雅と満月さんが二人だけで会うのはこれが初めてのことではない。それなのに今日に限ってこんなにも落ち着かないのは、満月さんの様子がおかしかったからかもしれない。

 矢沢さんと付き合えて喜んでいたはずなのに、徐々に暗い顔になっていった。神妙な顔でわざわざ雅に会わせてほしいと言ってきた。そんな小さなことが気にかかる。

 別に雅と満月さんの間に間違いが起こるとは思っていない。雅は絶対に浮気なんてしないと信じているわけではない。もしも満月さんが本気で迫ったら、きっと雅は揺れるだろう。

 だけど満月さんは違う。仮にも矢沢さんと付き合っている状況で、他の人に手を出せるほど器用ではない。そういった意味では、雅よりも満月さんを信用している。

 お風呂から出ると、少し頭がクラクラした。ぬるめのお湯でも長湯はできないようだ。

 雅はまだ帰ってきていない。時計を見ると、まもなく日付が変わろうとしていた。

 髪を乾かそうとドライヤーを準備しているとスマホに電話がかかってきた。画面を確認すると『雅』と表示されている。

「雅?」

― 今から行ってもいい?

 少しろれつが回っていない雅の声が耳に届く。

「今、雅の家にいるよ」

― じゃあすぐ帰る。

 それだけ言うと電話が切れてしまった。

 私はスマホをテーブルの上に置いて髪を乾かしはじめた。

 どうやら雅は家のすぐそばから電話をかけていたようで、私の髪が乾く前に玄関のドアが開いた。

 私は一旦ドライヤーを止めて雅を出迎える。

「おかえり、雅」

 すると雅は私の声に答えることなく、おぼつかない足取りで歩み寄った。雅からお酒の匂いが漂ってくる。顔は赤くなるのを通り越して青ざめているようだ。

 かなりの量のお酒を飲んだのだろう。

「大丈夫?」

 やはり雅は答えない。目の焦点が定まらず、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 その顔に胸の奥がギュッと苦しくなる。私は、雅のそんな顔をよく知っていた。

 私の目の前まで来た雅は、ゆっくりと手を伸ばして私の髪に触れる。

「濡れてる……。お風呂入った?」

「うん」

 そうして雅は髪に触れていた手を私の背中に回して抱き寄せた。私の肩に顔を埋めて腕に力を込める。

「雅? 何かあった?」

 私の問いには答えず、雅は私の首筋に唇を落としはじめた。

「ん、ちょっと雅、髪を乾かすからちょっと待って」

「待てない」

 そう短く答えた雅は半ば強引に私をベッドまで連れて行って押し倒した。そのまま馬乗りになると服を脱ぎ捨てて下着を露わにする。

 それはかつてよく見た『慰めて』という合図だった。私の合意を確認するように、まずは自分が服を脱ぐ。

 私はずっとその合図を受け入れて雅に身を委ねてきた。

 だけど今日は、私のナイトウエアに伸ばした雅の手を掴んだ。雅は驚いたように少し目を見開いて動きを止める。

「満月さんと何かあったの?」

 雅は答える代わりにフイと顔を逸らした。そして、私の体を開放すると、背を向けて布団に潜り込んでしまった。

 拗ねたように丸めた背中に私はもう一度声を掛ける。

「雅、何があったの?」

 それに返ってきた言葉は「おやすみ」という一言だった。

 しばらくその背中を見つめていたけれど、私は諦めてベッドから起き上がった。ドライヤーを持って浴室に行き、まだ湿っている髪を乾かす。

 ベッドに戻ったとき、雅はすでに寝息を立てていた。

 私はベッドに腰を掛けて雅の顔を覗き込んだ。少し眉を寄せた穏やかとはいえない寝顔をしている。手を伸ばしてそっと頭を撫でると少しだけ緊張していた顔が緩んだような気がした。

 私は雅の頭を撫でながら帰ってきたときに見せた泣き出しそうな顔を思い浮かべる。それはこれまで何度も見てきた顔だった。

 だから私は知っている。理由なんて聞かずに雅を抱きしめて、雅が望むように振る舞えば、明日にはいつもの雅に戻る。

 だけど今夜はそうしたくはなかった。

 私は傷ついて泣き出しそうな顔の雅が好きだった。そんな雅を愛おしいと思っていた。

 そんな雅しか愛せない自分はおかしいのではないかとも思っていた。だけどそれが間違いだったことに、今気づいた。

 傷ついている雅が好きだったのではない。雅が傷ついているときだけ雅に必要とされると思っていたのだ。それだけが私の存在意義だと感じていた。

 だから雅の心の中にいつも満月さんがいても私は耐えられた。だからこそ私は雅の側にいられるのだと思っていた。雅の心が私に向いていなかったとしても、雅と抱き合えるのは私だけだという自負もあった。

 どうやら私は欲張りになってしまったらしい。

 満月さんへの想いを断ち切り、雅は私だけを見てくれるようになった。部屋の中に私のモノを置いてくれるようになった。「おかえり」と言えるのがうれしいと言った。一緒に住みたいと言ってくれた。

 その喜びを知ってしまった私は、もう以前のようには振る舞えない。心の隅に満月さんを宿した雅には抱かれたくないと思ってしまった。傷ついている雅の顔を、あの頃と同じように愛おしいはと思えない。

 せめてどうして傷ついているのかを話してほしかった。そうすれば、もしも納得できなかったとしても雅を抱きしめることはできただろう。

 強がりで格好をつけたがる雅だから、そんなことを言いたくないのかもしれない。だけどそれならば、なぜ私は雅の隣にいるのだろう。

 寂しいときに、悲しいときに、ただ肌を合わせて慰めるためだけの都合のいい存在なのだろうか。

 確かにこれまではそうだった。だけど今は違うのではないだろうか。そう思っているのは私だけなのだろうか。

 私はそのまま一睡もすることができず、雅が目覚める前に自宅に帰った。




 それから三週間、私は雅に連絡をしていない。雅からの連絡もない。部屋を探しに行くという約束もいまだに果たされないままだ。

 満月さんとは会社で毎日顔を合わせているけれど、雅と私とのことには気付いていないようだ。

 三週間前のあの日、雅との間に何があったのかを満月さんに尋ねてしまえば早いのかもしれない。だけど私はそうできずにいた。

 もしも満月さんにそのことを聞いたら、本当になにもかも取り返しがつかないほどに壊れてしまいそうな気がしたからだ。もう壊れているかもしれないけれど、私はまだ、小さな可能性に期待をしていた。

 ポケットの中のスマホが震える。素早く画面を確認して、期待した相手でないことに落胆した。

 仕事を終えてからしばらくカフェで時間を潰し、連絡をくれた小夜子との待ち合わせの場所に向かう。

 久美が話していた通り、小夜子はかなり仕事が忙しいようだ。もっと早く私に連絡をしたかったけれど、なかなか仕事の都合がつかず今日になってしまったらしい。

 ようやく仕事にキリが付いたと言っていたけれど、それでも残業はあるらしく、待ち合わせの時間がかなり遅い時間になった。だけど、特に予定もないし、明日は会社が休みだから少々遅くなっても問題ない。。

 一人で悶々と家で過ごすより、旧友とお酒を飲んでいた方が気もまぎれる。

 待ち合わせの場所はフランクな雰囲気のカフェバーだった。小夜子は約束の時間より少し遅れて店に現れた。

「遅くなってごめん」

 そう言って笑顔を浮かべた小夜子は、久美が言っていた通り少しやせていて顔色も悪い。

「働きすぎじゃない? 顔色悪いよ」

「私もそう思う」

 小夜子は席に座るとすぐにビールを注文した。そしてそれが届くと一気に飲み干してもう一杯注文する。

「そんな飲み方して大丈夫なの?」

「大丈夫、大丈夫。飲まなきゃやってられないっつーの」

 小夜子はそう言って手をひらひらと振った。

「日和も久美と会ったんでしょう? なんか小洒落たフレンチの店だったんじゃない?」

「うん、一カ月くらい前だったけど……。小夜子も同じ店だったの?」

 雅のことが頭をよぎり、私はビールで洗い流す。

「あれ、相手の男のことを自慢したかっただけでしょう。私の彼、こんな素敵な店を知ってるのぉ~って」

 私は苦笑いを浮かべたけれど、その意見には同意した。同時に、小夜子はこんなに辛辣な物言いをするタイプだっただろうかと思っていた。もしかしたら日々の疲れで心がささくれ立っているのかもしれない。

「わざわざ呼び出して披露宴の話をしたのだって、あなたたちより早くハイスペックな男を捕まえたのぉ~、いいでしょう~。って言いたかっただけなんだから」

「それは考えすぎじゃない?」

「久美の性格からして絶対にそうだよ。あの子、私たちに妙にライバル心を燃やしてたじゃない」

「そう?」

「そうだよ。だから毎回合コンに誘って自分の方がモテてたとかなんとか騒いでたでしょう?」

「でも、小夜子の方がモテてたよね?」

「まぁね。だから今回真っ先に私を呼び出したんでしょう。こっちはそんなに暇じゃないってのに」

「私はオマケかぁ」

「そうそう。私に自慢しようと思ったら、日和にも声を掛けないと不自然だから」

「やっぱり考えすぎじゃない?」

「あー、また。私、日和のそういうところあんまり好きじゃないなぁ」

 私は首を傾げる。

「本当は私の言った通りだと思ってるでしょう! そうやってすぐに誤魔化そうとするんだから。素直に白状なさい!」

 そう言うと小夜子は私の首に腕を回してグリグリと締め付けた。

「苦しい、苦しい」

 私は小夜子の腕をタップして開放を求める。

「白状する気になった?」

「白状も何も、私は思ったことを素直に言ってるもん」

「まだ白状しないの?」

 そうして怒ったような顔をした次の瞬間、小夜子はケラケラと笑い出す。私もそれにつられてケラケラと笑った。こうして声を上げて笑うのは久しぶりに感じる。

 それからも小夜子は日頃の憂さを晴らすように、怒涛のペースで久美や仕事の愚痴を漏らし、それ以上のペースでお酒を飲んだ。

 待ち合わせの時間が遅かったこともあるが、あっという間に終電の時間になっていた。

「小夜子、もう帰らないと終電だよ」

「えー、もうちょっと飲もうよ」

「飲み過ぎだよ」

 小夜子の目はすっかり座っていたし、体もフラフラしている。

「やだ、飲む」

「駄々こねないで帰ろう」

 何とかなだめすかして店を出たけれど、小夜子はもう一軒行こうと言って帰ろうとしなかった。

「もうフラフラでしょう」

「大丈夫だって、だからもう一軒行こう」

 私はなんとか理性を保って話していたけれど、小夜子のペースにつられて、いつも以上にお酒を飲んでいた。

 これ以上道端で小夜子と問答をするのも限界だと感じて仕方なく別の提案をする。

「わかった。じゃあウチで飲み直さない?」

「日和のウチ? いいね! 行こう!」

 ようやく小夜子は賛同してくれた。

 フラフラの小夜子を支えて電車に乗るには、私の足もおぼつかなかったので、タクシーを拾って自宅へ帰った。

 部屋の中に入った小夜子はクルリと部屋の中を見回す。

「きれいにしてるんだね~」

「まあね」

 私は短く答える。私はあまり片付けが得意な方ではない。だけど雅と会っていた時間がすっぽりと空いてしまったから、その時間にひたすら片付けや掃除をしていたのだ。

 小夜子は倒れ込むように床に座り込む。私は冷蔵庫からペットボトルの水を二本取り出して、一本を小夜子に渡した。

「あれ? これお酒じゃない」

「お酒なんて置いてないもん」

 もちろん嘘だ。本当は冷蔵庫の中にビールやチューハイが入っていたけれど、これ以上小夜子に飲ませるのは危険だと判断したまでだ。

「嘘つき、飲み直そうって言ったのに」

 そう言いながらも小夜子は水をグビグビと飲む。

「でも、お水もおいしいでしょう?」

 私も水を一口飲む。喉を通る冷たい感覚に酔いがスーッとひいていくように感じた。

「うん、おいしー」

 小夜子は幼児に戻ったかのように素直に言う。そうしてもうひと口水を飲んだらようやく落ち着いたようだ。

 息をひとつ付くと再び会社の愚痴を漏らしはじめた。

「なんであんな会社に入っちゃったかなぁ」

「転職しちゃえば?」

「考えてはいるんだけどさ。私の要領が悪いせいもあるから、どこに行っても同じなのかもって思うと、ちょっと怖くて」

「んー、でも違うかもしれないじゃない」

「確かに日和でも勤められるような会社なら、私でもやれるかもしれないね」

「なんかひどいコト言ってなーい?」

 実際ウチの会社は働きやすい方だと思う。忙しいときには残業をすることもあるけれど、無理強いされるわけではない。それにミスをすれば注意されるけれど叱責はされない。地獄の合宿研修をのぞけば、おおむね不満はない。

「一応彼氏がいるんだけどさ、仕事が忙してデートもできないからギクシャクしてるんだ」

「だったら、私と飲んでないで彼氏とデートでもすればよかったのに」

「やだよ、余計にストレスが溜まっちゃうじゃん」

「ストレス溜まっちゃうんだ」

「私はさ、ただ癒されたいんだよ。ちょっと愚痴を聞いてくれればいいの。それなのに『女なんだからそんなに仕事をがんばらなくてもいいんじゃね?』とかいうんだよ! 仕事をがんばるのに男も女もないでしょう」

「それはまぁ、そうだねぇ」

 小夜子は水をゴクゴク飲み、ペットボトルを空にすると、大きなため息をついた。

「なんかさぁ、微妙にズレてるんだよねぇ。悪い人じゃないんだけどさぁ、なんかこう……違うんだよねぇ」

「そっかぁ」

 すると小夜子はグルっと顔を私の方に向けた。

「日和はどうなの?」

「は? 何が?」

「彼氏、いるんでしょう?」

「あぁ、それは……」

 普段ならうまく答えているような質問だったけれど、お酒のせいか若干回転が悪くなっているようだった。すると小夜子はポンと手を叩く。

「彼氏じゃなくて彼女か」

 一瞬びっくりしたけれど、雅と出会ったとき一緒にバーに行ったのは小夜子だったことを思い出した。そして私が雅を誘いだしたところも見ている。

「うん、まぁ、そうかな」

 私は答える。大学時代、あの場面を見ていた小夜子は何も聞いてこなかったし、私も何も話していなかった。それは小夜子なりの気遣いだったのかもしれない。

「もしかしてあのときのバーの人? それとも別の人?」

「あのときの人……」

 そう答えて胸の奥がジクジクと痛む。連絡を取らなくなって三週間が経った雅と私は今もまだ恋人だと言えるのだろうか。

「マジ? もう一年以上付き合ってるんじゃん! それなら紹介してよ~」

 多分、私は酔っている。だから普段なら絶対に口にしないことを漏らしてしまった。

「でも、もうダメかも」

「え? どうして?」

「小夜子のところと同じだよ、きっとちょっとだけズレてるんだと思う」

「そうわかってるならちゃんと話せばいいんじゃない?」

「それは小夜子も同じでしょう?」

 そうして私たちは笑い合う。

 本当に話をすればこのズレを解消できるのだろうか。そもそも話ができるのかもわからない。

「ねぇ日和」

 笑いを止めた小夜子が静な口調で言った。

「なぁに?」

 小夜子の方を見て返事をしたとき、小夜子がいきなり顔を寄せて私にキスをした。

「ちょっと、小夜子、なにするの!」

 私は小夜子の肩を押して体を離す。

「女同士のキスって、なんかちょっと違う感じがするね」

「知らないよ。そういう好奇心は別の所で満たしてくれる?」

「好奇心だけってわけじゃないよ」

 そう言った小夜子の瞳が少し熱を帯びる。

「ともかくこういうことはやめて」

 少し睨むようにして言うと、小夜子は私を見つめたまま少し距離を縮めた。

「私は今すごく疲れてるの」

「だったら早く寝ればいいじゃない」

 近づいた距離の分だけ私は後ろに下がる。

「体もだけど、心の方が疲れてる」

「本当に酔い過ぎだよ」

「だから癒されたいんだよ。日和だって、癒されたいと思っているんでしょう?」

「私?」

「別に浮気をしようってわけじゃないよ。今夜だけ、嫌なことを忘れて癒されたっていいでしょう?」

 そうして小夜子の腕に絡めとられて、私は振りほどくことができなかった。




 朝を迎えて頭と気持ちが重たく感じたのは、昨夜飲み過ぎたせいではない。

 私はベッドの隣で眠る小夜子をチラリと見た。布団がはだけて胸が露わになっている。私は小夜子に布団をかけて立ち上がった。

 目覚めて、小夜子が記憶を無くしていればいいと思った。だけどもしも小夜子が記憶を無くしていたとしても、昨夜の出来事がなかったことになるわけではない。

 私は下着や服を拾い集めて洗濯カゴに放り込んだ。そして脱衣所に置いてある小さな収納から下着やルームウエアを取り出して身に着ける。鏡に映った自分の顔が、知らない誰かのような気がした。

 部屋に戻ると小夜子が目を覚ましていた。

「んー、日和おはよう」

 小夜子はベッドから半身を起こしてグーっと背伸びをする。胸が丸見えになっていたけれどまったく気にしていない。

「おはよう、よく眠れたみたいだね」

 時刻はもうすぐ昼になろうとしている。

「おかげさまで。久々にこんなにグッスリ眠った気がする」

 小夜子が昨夜の記憶を無くしているのではないかと思うほど清々しい顔をしている。本当に記憶が無くなっているのではないかと思ったけれど、その期待は、小夜子の次のひと言で脆くも崩れ去った。

「想像してたよりずっと気持ちよかった!」

 小夜子は罪悪感も後悔もない爽やかな笑顔で言う。私はがっくりとうなだれた。

「記憶、あるんだ……」

「あるよー。私、お酒強いもん」

「そうなんだ……」

 確かに大学時代から、小夜子がお酒で記憶を無くしたなんて話は聞いたことが無い。

「日和はなんでそんな顔してるの? 気持ちよくなかった?」

「私は……疲れた……」

「そうなの?」

「そもそも私、基本的にネコだからする方があんまり得意じゃないし」

「えー、結構積極的だったと思うけど……?」

 好きじゃない相手と、ただ快楽だけを求めるセックスが気持ちよかったなんて口に出したくなかった。

 肌の熱さも声の色も感じる場所も違う小夜子に触れながら、雅に触れたいと渇望していたなんて認めたくなかった。

「もう二度と御免だから」

「えー、たまにはいいと思うけど……」

「それは別の人を探してくれる?」

「硬いなぁ、別に浮気って程でもないでしょう。コミュニケーションみたいなものだよ」

「小夜子ねぇ」

 本当にこれは浮気ではないのだろうか。そんなはずはない。これはれっきとした浮気だ。もしも私がまだ雅と付き合っているというのならば、だけど……。

「いっそ私たち、付き合っちゃう?」

「絶対に無理」

「あはは、私も無理だ!」

 小夜子はうれしそうに笑い声をあげた。

「ホント、勘弁してよ……」

 私がうなだれると、ベッドから降りてきた小夜子がスッと手を伸ばして私の髪を撫でた。小夜子の顔を見ると、なぜかとてもやさしい目で微笑んでいる。

「なんか、昨日から日和の仮面がはがれっぱなしだね」

「え?」

「日和はさ、人当たりがいいし、これ以上はってところには踏み込んでこないし、友だちとして一緒にいるとすごく楽なんだよね。だけど、それ以上に絶対に踏み込めないラインがあるなって感じてた」

「そう?」

「うん。だから今の日和の方が私は好きだよ」

「そう、かな?」

 自覚はある。笑顔で本心を隠して、誰とてもつかず離れずの関係を築く。もしも離れて行くのであればそれを追おうとは思わない。

 だからいけなかったのだろうか。

 だから雅ともうまくいかないのだろうか。

「彼女と、仲直りできるといいね」

 そう言って小夜子は笑う。

「小夜子も彼氏と仲直りしてね」

「あー、ウチはもうどうでもいいかなぁ。次はかわいい彼女でもさがそうかな」

「本気で言ってるの?」

「さて、どうでしょう?」

 そうして私たちはケラケラと笑い合う。なんだか不思議なくらい気持ちが軽くなった。

 もしかしたら、私と小夜子は、今ようやく友だちになれたのかもしれない。

「シャワー借りていい?」

「どうぞ」

 小夜子は裸の体を隠すこともせず、堂々とした姿で浴室に向かった。

 朝食というよりは昼食を準備しようかとキッチンに立ったときインターホンが鳴った。画面をのぞくと、そこには眉根を寄せた雅の顔が見える。

 タイミングの悪さにうんざりした。

 小夜子との一夜を経て、私はようやく雅に連絡をしようという気持ちになっていた。だからといって、今が絶好のタイミングとはいえない。

 浴室からはシャワーの音が聞こえる。

 雅の家と違って私が住んでいるアパートにはエントランスがない。つまり雅はドアを隔てたすぐそこにいるということだ。

 居留守を使おうかとも思ったけれど、シャワーの音が聞こえているかもしれない。

 下を向いて返事を待っている雅の顔を画面越しに眺めていると、今度はスマートフォンが震えた。

『日和、いま家にいるよね?』

『急にゴメン、話がしたい』

『シャワー浴びてる?』

『玄関で待ってるから』

 立て続けに短いメッセージが届く。

 私は少し考えてから観念して玄関のドアを開けた。私の顔を見た雅は小さく息を付いて少し表情を緩める。

「何の用?」

「うん……」

 雅は言いにくそうに顔を伏せた。

「あ、もしかしてまだ寝てた?」

 雅は話をパッと顔をあげて話を逸らす。

「ちょっと前に起きたところ」

 そして私たちはそのまま玄関で立ち尽くした。空気がおかしい。そう感じているのは私だけではないと思う。

「えっと、入ってもいい?」

 先に待ちきれなくなったのは雅だった。小夜子のことが頭をよぎったけれど、大学時代からの友人である小夜子のことは、これまでも雅に話したことがあるから問題ないだろう。それに部屋に上がるのを拒否する方が不自然だ。

「どうぞ」

 私は体をずらして雅を部屋の中へと促した。雅が私の前を通り過ぎて奥へと足を進める。すれ違った瞬間、雅の香を感じた。とても懐かしくて愛おしくなる香りに、昨夜抱いた「雅の肌に触れたい」という気持ちが再燃する。

 雅の姿を目で追っていると、雅は立ち止まって振り向いた。

「誰か来てるの?」

「うん、小夜子が来てる」

「小夜子? ああ、大学の?」

「うん」

 私の返事に納得したように雅は再び足を進めて部屋の中へと入った。私もその後を追って部屋へと戻る。

 するとそこにシャワーを終えた小夜子が戻ってきた。

「ふぅ、さっぱりし……た……?」

 バスタオルを巻いただけの小夜子は雅の姿を見て固まる。

「ああ、ごめん小夜子、こちら立花雅さん」

「ああっ! 日和の彼女の? はじめまして」

 小夜子はすぐに雅のことに気付いて笑顔を浮かべた。多分、名前や風貌ではなく、私たちの間に漂っていた緊張感に気付いたのだと思う。

「はじめまして、立花です」

 雅は笑顔を作りながら頭を下げる瞬間、素早く小夜子と乱れたベッド、脱ぎ捨てられた服を見て小さく表情を歪めた。

「夕べ、飲み過ぎちゃって」

 小夜子は頭を掻きながら服を拾い集めると慌てて浴室の方へと戻って行った。そしてあっという間に服を着て部屋に戻ってくると「昨日はありがとね、それじゃあ帰るね」と言って小夜子は退散してしまった。

「仲いいんだね」

 小夜子が去った玄関に視線を送りながら雅が重い口調で言う。

「まぁね。久美が結婚するらしくて、その関係でちょっと話してたの」

 私は乱れていたベッドを整えながら答えた。寝起きのベッドなんて乱れているものだ。そう頭の中で言い聞かせていたけれど、雅は勘づいているような気がした。

「そうなんだ、同級生でしょう? もう結婚するんだ」

 何気ない会話を続けていたけれど、ラグマットの上に片膝を立てて座る雅の表情は晴れない。

「それで、何の話だった?」

 ベッドを整え終えて、私は雅の前に座る。

「謝ろうと思って」

「何を?」

「ずっと連絡しなくてゴメン」

「それは私もだから」

「うん、でもゴメン……」

 そうして雅は俯いた。なぜだかそんな雅に苛立ちを感じる。

「話ってそれだけ?」

「ああ、うん。ちゃんと顔を見て謝りたくて。一緒に部屋を探しに行こうって言ってたのに、それもできなかったし」

 そうして雅は笑顔を作る。

 それは私たちが今までやって来たことだった。雅は私に小夜子と何があったのかを聞きたいはずなのだ。

 それを聞かず、核心から目を逸らすことで互いを傷つけないようにしてきた。それがやさしさだと信じていた。

 だけど今日はそんな風に目を逸らして作り笑顔を浮かべる雅の顔が腹立たしい。

「私は聞きたいことがあるよ。三週間前のあの日、満月さんと何があったの?」

 雅は目を見開き、唇をキュッと引き締めた。多分、私にそんなことを聞かれるなんて思っていなかったのだろう。

 確かに少し前の私ならば聞かなかったはずだ。

 突然会いたいと電話をかけてきた日も、約束を急にキャンセルされた日も、泣きそうな顔で私を抱いた夜も、私は雅を追求しなかった。今の雅と同じように笑顔を浮かべてそのことから目を逸らしていた。

 それは聞かなくてもわかっていたからではない。私には聞く権利がないと思っていたからだ。

 だけど雅は一度別れて、もう一度付き合いたいと言ってくれた。今度はちゃんと向き合って付き合いたいと言った。

 だから今はあの頃とは違うはずだ。

「……話したくない」

 雅はボソリと言って顔を伏せる。

 私は天井を見上げた。そこに今まで気付かなかった染みの跡を見つけた。

「私、小夜子と寝たよ」

「へ?」

 雅は顔をあげる。

「小夜子とセックスした。気付いてたでしょう?」

 雅は唇をかみしめて顔を赤くする。

「浮気、したんだ?」

 私は浮気をした。私の罪は明白だ。だったら他人に体を奪われるのと、心を奪われるのではどちらの罪が重いのだろう。

「私、もう雅とは別れたんだと思ってた」

 雅は私を睨みつけている。少し体が震えているのは大声をあげるのを我慢しているからなのかもしれない。爆発してしまえばいいのにと私は思った。

 壊れてしまうのはもうどうしようもない。せめて雅の本心を聞かせてほしかった。

 だけど雅は大きく息を付いて目を閉じると、次の瞬間には落ち着いた表情を取り戻してしまった。

「そっか、三週間だもんね。うん……。そう思っちゃうのもしかたないよね」

 そうして私の最後の願いは断ち切られた。

「私と小夜子のこと、疑ってたくせにどうして聞かなかったの?」

「それは……」

「満月さんのことを私に言わないのはなぜ?」

「だから……」

「言葉にしなければ、すべてがなかったことにできると思ってるの?」

「そうじゃないよ。そうじゃないけど……」

 雅は必死に笑顔を作って取り繕おうとしていた。

「多分、悪いのは私だったんだね」

「日和?」

「私たち、最初から歪(いびつ)だったんだよ。スタートを切り直して、今度は大丈夫かと思ったけど、やっぱり私たちは歪なままだった」

「日和……」

「だから、本当に終わりにしよう」

 言いたくなかった言葉を告げて、胸が裂けるほど痛かったけれど、同時にホッとしていた。

「ちょっと待って、どうしてそうなるの? 小夜子さんとのことなら気にしなくていいよ。連絡しなかった私がいけないんだし」

「そういうことじゃないんだよ」

「じゃあどうして? 何がいけないの?」

「雅が……それをわからないところだよ」

 私の言葉に、雅は魂が抜けたような顔で私を見つめていた。

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