星は再び
あたしが目を開くと、アベルの顔が見下ろしていた。彼の後ろに見える天井は、見慣れないもの。今までいた屋敷の、彫刻が施されてシャンデリアが下がったのじゃなくて、もっとずっと低くてみすぼらしい──どこかのホテルなのかしら。
「気分は?」
「悪くないわ。でも、貴方の顔はひどいわね」
起き上がりながら、あたしはアベルの頬を撫でた。無精髭が伸びて、ざらざらしてる。指先に感覚が伝わる訳じゃないけど、見れば分かる。目の周りにクマができているのは、寝不足だからかしら。
「君の
「そう……そうよね。ありがとう、本当に」
ゆっくりと起き上がって、あたしの
「イーファほど綺麗にはできなかったし、機能も限られている。……本当に、良かった?」
「もちろん。あたしは歌えさえすれば構わない」
アベルが差し出した鏡に映ったあたしは、イーファじゃない女の子の顔をしていた。でも、あたしがイーファ・レルヒであることに変わりない。だってあたしは歌いたいもの。歌にすべてを捧げて肉体さえも捨てて惜しまない──これほどの執着を抱く者は、イーファ以外にはいない。
「愛してるわ、アベル。イーファがモーリッツを愛したのと同じくらいに」
思いっきりアベルに抱きつくと、彼が苦笑する気配があたしの髪を揺らした。イーファの金色じゃない、今は赤っぽくなった髪を。
「それはつまり、便利な踏み台として、ってことだよね……?」
アベルは、あたしに鳥籠から逃げ出さないかって持ちかけたの。もちろん、屋敷を抜け出せるはずはないから、
とてもオッズの高い賭けだったわ。マヤが激高して
「あたしにとっては最高の愛の表現よ」
でも、心配する必要なんてなかった! まるっきり違う顔と身体になっても、あたしはまったく変わっていなかったもの。早く歌いたい、アベルが造ってくれた新しい声帯を試してみたいって、今すぐにでも飛び出したいくらい。
「光栄だ」
くすくすと笑い合うと、あたしとアベルはキスをした。愛情からでも性欲からでもない、共犯者のキスよ。イーファはモーリッツを勘違いさせてしまったけれど、アベルとなら良い関係でいられそうだった。
アベルの「退職金」は、あたしの新しい身体を造ったらほとんど尽きてしまったらしい。でも、心配いらないわ。あたしが歌えば、彼の生活費とあたしのメンテナンス費用くらいは簡単に稼げるもの。
ステージの裏で、照明係があたしの顔を覗き込んだ。
「今日はテレビカメラが入ってるって。さすがに緊張する、エルフ?」
「まさか。全然!」
さすがにイーファとは名乗れないから、あたしは
「あっそう。頑張って」
「もちろん」
イーファの時から変わらない自信と傲慢さで照明係を黙らせて、あたしはスポットライトの中へと足を踏み出した。少しは名前が知られ始めたあたしの登場に、暗い客席から拍手と歓声が上がる。ああ、なんて気持ち良い。もう少しだけ待っていてね。もうすぐ、あたしが貴方たちをもっと気持ち良くさせてあげる。あたしの新しい歌声で。
今夜のステージは、あのお屋敷にも届くのかしら。マヤは、スタッフたちは、今ごろできてるであろう
きっと、眠り続けるのでしょうね。
『モーリッツ氏は、
モーリッツが起きない理由を、アダムは分析してくれた。
『夫人と同じく、彼だって機械の音楽はイーファに及ばないと信じているんだろう』
だから彼は目覚めない。
マヤは、夫の真意に気付いているのかしら。そもそもが推測に過ぎないのだけど、でも、あたしは気付いていると思っている。その上で、三十年も茶番を続けてる。夫に尽くすという幻想は、彼女にはこの上なく甘いものなのかもしれないし──イーファを、閉じ込めておくことができるものね。すぐ傍にイーファがいるのに、モーリッツには会わせないの。愛と復讐を同時に叶えることができる、とても良い手段なのかもね。
でも、そんなことはどうでも良い。あたしには関係のないことよ! 眠り続けるモーリッツも、その傍らで老いていくマヤも。イーファの姿をした姉妹たちが、この先何人生まれては破棄されていくのかも。淀んだ空気を抱えて膿んでいく鳥籠なんて、もう考えたくもない。あたしは自由になったのだから!
あたしが考えるべきは、今こそ歌のことだけ。歌ってみたい曲、試したい技法が幾らでもあるの。鳥籠の連中と違って、外の世界の聴衆はあたしについて来てくれるはず。だから──さあ、見て。聞きなさい。あたしは帰って来たの。イーファ・レルヒを知る人もそうでない人も、等しくあたしの歌に聞き惚れなさい。世界を魅了する歌姫、輝く星がまた昇るのよ。
歌わなかったら、あたしじゃないの。
機械仕掛けのナイチンゲールは目覚めの歌を歌わない 悠井すみれ @Veilchen
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