第10話 「魔法使いの恋」その4

「あ、あんたがそうしたいなら、好きにすればいいけど」

 浅く頷いてから、嘲るふうに口元を歪ませる。

「そろそろお母さんのおっぱいが恋しくなった? やっぱりまだまだガキね」


「あー、そうだな、確かにおっぱいは恋しいかも。おふくろのではないけども」

 手と指で宙を揉みしだく真似をする。冗談というには動きが妙に生々しい。ミレイユは思わず顔を逸らした。


「……ほんと、もう出て行ってもらった方がいいみたいね。て、貞操の危機みたいだし?」

 ぎこちなく胸元を腕で覆う。まるで今気付いたとでもいうように、ジョッシュが不躾な視線を這わせる。ミレイユはますます身を縮こめる。


「ふっ」

 鼻で笑われた。

「うがーっ、お前なんかとっとと出てけ! 二度と来るなーっ!!」


 とはいえ実際に着の身着のまま放り出すわけにもいかない。ジョッシュの住む集落まで普通なら歩いてまず十日はかかる。ほぼ確実に道半ばで野垂れ死ぬ。それではわざわざ助けた意味がない。


 ミレイユは二十日分の水と食糧を用意してやった。持ち運びやすいように魔法で圧縮と軽量化を施して、同時に保存性も高めてある。ジョッシュはいたく感心していた。


「お前って本当に魔法が使えるんだよな。めっちゃすごい。さすがは自称〈暁の魔女〉」

 余計な一言が付いてもミレイユは怒らなかった。別に信じてもらう必要なんてない。むしろ、この森には世界最高にして最強の魔法使いが隠れ住んでいる、などと言い触らされるよりはずっとましだ。


「じゃあ、世話になったな」

「うん。さよなら」

 またね、とは言わない。たぶんもう会うこともない。ジョッシュは振り向かず、ただ肩越しに手を振って出て行った。扉が閉まり、たった数日で見慣れてしまった背を隠す。

 瞬間、ミレイユは自分の中で波打つ感情に突き動かされた。


「待って!」

 すぐに後を追いかけて外に出る。驚いたふうに足を止めたジョッシュの襟首をほとんど締め上げながら、ミレイユは顔が触れるほどの間近に詰め寄った。


「ちゃんと帰り道は分るの? もし途中で迷ったらどうするつもり? また魔物か猛獣に襲われるかもしれないでしょ? 木の根っこに挟まって足を挫くかもしれないし、嵐に遭って身動きできなくなるかもしれないし、食べ物と水が足りなくなるかもしれないし、それにそれに……」


「ミレイユ」

 服をきつく掴んだ小さな手を、ジョッシュはそっと握った。それから力を込めることなく引き剥がす。


「もう帰るって決めたんだ。やることもないのに、いつまでもこんなとこに引きこもってられないからな」

「……こんなとこ、ゆうなし」

 ミレイユが咎めても、ジョッシュは謝らなかった。逆ににやりと生意気な笑みを浮かべる。


「それに、女友達のおっぱいも恋しいからさ」

「うっさい、この馬鹿、色ガキ、あんたなんて最低よ。どこでも勝手に行っちゃえばいいわ」

 ミレイユは後ろを向いた。家の方へと歩き出す。


「お前も来るか?」

 ぴたりと足が止まる。扉はもうすぐ目の前だ。振り返ればジョッシュはまだそこにいる。


「森の外は怖いか?」

 そんなことあるわけない。けれどミレイユは黙ったままでいた。やがて後ろにあった気配は微かな足音とともに遠ざかり、彼方に消えた。


 心配はしなかった。本人には言わなかったが、ジョッシュには加護や魔物除けやその他、帰りの道行きを無事に乗り切るための魔法をこれでもかというほど掛けてある。たとえ世界の果てまでだってたどり着ける。


 家に入り、扉を閉める。色のない静けさが降り積もる。ようやく自分だけの時間を取り戻せた。

 まずはゆっくりお茶でも飲もうと思い、しかし用意するのが面倒だった。ため息をこぼして椅子に掛け、卓の上にだらりと突っ伏す。

「……やっぱり一人がいいわ。あんな奴がいたってむかつくだけよ」


 翌朝、ミレイユは普段よりだいぶ早くに目を覚ました。じっと横たわったまま気配を探る。もちろん怪しい者などいはしない。家の中は平穏そのものだ。

 寝台を降り、昨日と変わらぬ居間を通り抜ける。扉を開けて外に出ると、空は未だ暗かった。冷えた微風が頬を撫でる。


「今日は何をしようかな」

 時間ならいくらでもある。何をするのもミレイユの自由だ。とりあえず眠気覚ましに散歩するのはどうだろう。悪くない考えではあったけど、結局また家の中に戻ることにした。


 あえて眠気を覚ます必要なんてない。眠いなら寝直せばいいだけだ。いっそそのままずっと起きなくたって構わない。どうせ大してやりたいこともない。もちろん誰かがが訪ねてくる予定もない。ジョッシュも決してやって来ない。いつまでここで待っていようと、再び相会うことはかなわない。


 ミレイユは家の扉に伸ばした手を下ろした。ふっと東の空を仰げば、自分の瞳と同じ深紫色に染まっていた。

 小さく息を吐き出し、もう一度踵を返す。ジョッシュの付けた足跡は既に地面から消えている。今さら後を追うことなどまるっきり無謀だろう。

 ほとんど誰にとっても。


「だけどあたしは〈暁の魔女〉、世界最高にして最強の魔法使い。あたしに怖いものなんてないわ。やろうと思えばなんでもできる」

 まずはあの生意気な薄情者に、自分が本当は大人の女なのだと認めさせてやるのだ。


 そのための具体的な方法に思いを巡らせ、ミレイユは赤面した。

 いったいそれがどんな内容だったのか。

〈暁の魔女〉の伝説は語っていない。


(「魔法使いの恋」 了)

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