第6話 「失われた恋」(後編)
「あのね、
「なに?」
「えーっと、ここではちょっと……」
暑い季節にふさわしく浜辺は賑わっている。別に関係ない人に見られたって困りはしない。確かに困りはしないけど、あえて見られたくもない。
「それならもう帰ろうか」
やだよ。こんなの全然つまんない。
目元にじわりと涙が滲む。流れる前にこすって止める。
そもそも今日の光圀はいまいちだった。予定外でもせっかく二人っきりで海に来たのだ。美由紀との仲を進めたいなら、もっと色々頑張ってほしい。正直ちょっとがっかりだ。そんな気持ちがなかったと言ったら嘘になる。
だけど今は分る。光圀は本当に美由紀のことが好きで、だから必要以上にぎこちなくなってしまっていたんだ。下手なことをして嫌わるのが怖いから。
光圀はもう怖がらない。美由紀の前でも平然と振る舞える。どう思われたって構わないから。美由紀のことをなんとも思っていないから。
美由紀は光の玉を握り締め、否、握り締めようとした。手応えは返らなかった。
そんな、どうして!?
焦って指を開く。金色の光がこぼれ出る。
けれど安心なんてとてもできない。
輝きがさっきよりずっと弱くなっていた。もしどこか二人きりになれる場所を悠長に探していたら、きっとその間に消えてしまう。
前に進もうとしない足を殴りつける。光圀が不審そうに振り返った。視線が美由紀の掌の上に向けられる。
「ほら分る? これ見て、久遠寺くんのだよ!」
美由紀は光る玉を光圀の眼前に突きつけた。実に簡単な手段があった。本人が自分で取り戻せばそれで全て解決だ。
光圀が瞬きする。いまいち焦点が合っていない。まさか見えていないのか。
「……落とし物かと思ったんだけど。気のせいか」
「違うよ、気のせいじゃない! ほら、これだってば! ちゃんと見てよ。分らないの? これが久遠寺くんの――」
「俺の?」
――恋心だよ。あたしへの。
美由紀は思わず黙り込んだ。
無理。面と向かって口に出すには恥ずかし過ぎる。
「まあどうでもいいか」
光圀はふいと顔を逸らした。金色の輝きがどんどん小さくなっていく。人魚の言葉が頭の中に蘇る。
“急いで。長く外に離れ出ていると消えてしまう。そうしたらもう戻らない。永遠に失われたままになる”
もしそれが本当なら、光圀が美由紀を想う気持ちも消えるのだろう。もちろん今日告白されるなんてこともない。この先いくら待ってもその時は訪れない。
「馬鹿! どうでもよくないわよ!」
美由紀は金色の光を口に含んだ。
だってこんなところでは終われない。まだ始まってさえいないのに。
光圀の肩を掴み力いっぱい引き寄せて、鼻をつまんで無理やり口を開かせる。
ふぅーっ。
そしてぴたりと唇を覆いかぶせると、思いっきり吹き込んだ。
口の中がいきなり熱い息吹に満たされた。わけも分からないまま飲みくだすと、脈を打つ高温の塊が喉元を過ぎ胃の腑に落ちて、光圀の一番深い場所にぽっかり開いていた穴に填まった。
心を焦がす波が生まれた。骨を貫き肉をうねらせ神経を焼きながら、金色の光が頭のてっぺんへと突き抜ける。
やばい。なんだこれ。爆発しそう。
ガチで命の危険を感じた本能が、光圀の意識を覚醒させる。自分をめちゃくちゃにかき乱す存在が今ここにいる。美由紀だ。キスしてる。
え、ちょっと待って。 マジで? どういうこと? どうしてこうなった。いいのかよ。信じらんない。だけどこれ、キスってよりなんか――。
人工呼吸みたいじゃないか?
懸命に息を吹き込んでくる唇を、光圀は超人的な意思の力で引きはがした。泣くほど惜しかったが是非もない。もしあとほんの少し長く続けていたら、おそらく胸がいっぱいになって破裂していた。
「さ、ささ、
顔が真っ赤になっているのがはっきりと自分で分る。それは美由紀も同じだった。耳の先まで朱に染めて、おまけに恥ずかしさが極まったせいか、微妙に涙目になっている。
「“佐々さ”さんじゃないわよ。“さ”が一個多いんだけど」
潤んだ瞳に睨まれる。
「あ、ごめん、佐々ささ、あれ? さ、ささん、じゃなくて、さささ、さ……」
きちんと呼ぼうと焦るほど、舌の回りが悪くなっていく。美由紀は投げやりっぽくため息をついた。
「もう美由紀でいい。あたしも光圀くんって呼ぶから」
「えーと、さっきから色々急過ぎない? キ、キスみたいなことしたりとか、さ」
「……いやだった?」
拗ねたみたいに美由紀がうつむく。
「だったらごめんね。許してくれなくてもいいけど、他に仕方なかったの。それだけは分ってよ」
正直全然分らなかった。だが今肝心なのはそこじゃない。
「いやではなかったよ、うん」
「ほんとに?」
「本当に」
「そっか。よかった」
美由紀は仄かに笑った。そして綻んだ口元を、またすぐに引き締める。
「じゃあ光圀くん、あたしに言うことあるよね」
上目遣いで光圀を見やる。
光圀が惑ったのは一瞬だ。
今を逃したら次はいつになるのか分らない。次はもうないかもしれない。そうやって今を失い続け、いつか失ったことさえ忘れてしまう。
光圀は自分の中に金色の輝きがあるのを意識した。一番大切なものがここにある。
「俺は、佐々さ、さ、ささ……ごめん、やり直し」
おいこらと言いたそうに尖った美由紀の視線にたじろぎ、だが根性で見つめ返す。
「俺は美由紀ちゃんが好きです。もしよければつき合ってください」
「うん。あたしも光圀くんとつき合いたいです」
海の彼方で大きく波を打つ音がした。
(「失われた恋」 了)
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