第5話 「失われた恋」(中編)

佐々さささん、何か用?」

「へ? いや別に用ってわけじゃあ、ないけど」

「そう。じゃあ、またあとで」

「う、うん、また」


 光圀みつくには何事もなかったように行き過ぎる。遠くなる後ろ姿を、美由紀みゆきはただ呆然と見送った。

 意味が分らない。

 なぜいきなりクラスメートその1みたいな扱いになってるんだ。


 実は作戦とかだろうか。わざと冷たい態度を取って、こちらをやきもきさせてやろう、みたいな。

 だとしたら完璧逆効果だ。バリむかつくし。


 美由紀は冷たい波を蹴りつけると、つまさきの向きを変えた。もしまたあんな色が抜け落ちたような視線を向けられたらと思うとぞっとする。

 ひたすら波打ち際をたどっていくうちに、やがてひとけのない岩場に辿り着いた。水面は穏やかだが、浜辺に比べると結構深そうな雰囲気だ。うっかり足を滑らせて落ちたらやばいかもしれない。


 ふっと陽光が陰った。美由紀は微かなめまいを覚えた。うっかり違う世界に迷い込んでしまったみたいな、おかしな感覚にとらわれる。

 だが不思議と怖くはなかった。むしろ小さい頃に見た夢の中のような懐かしさを覚える。


“こっち、こっちよ”

 潮騒に紛れて、かつて一度も聞いたことのない声が呼びかける。美由紀は岩場を見回した。人の姿はどこにもない。


“こっちよ。お願い、気付いて”

 水晶の鈴が鳴っているかのような、美しくもかそけき響きだった。神秘の気配に導かれるまま、波のあわいを振り返る。


「……女の子?」

 思わず自分の頬をつねってしまう。

 もしこれで羽の生えた妖精でも浮いていたなら、かえって幻を見ているのだと納得できたかもしれない。

 だが水中から顔を覗かせているのは、つやのある長い黒髪を揺らめかせた少女である。


“あなたがいてくれてよかった。さあ、もっと近くへ来て。渡さないといけないものがあるの”

 謎の少女が請い招く。その言葉は不思議と抗えない力を持っていた。美由紀は岩場の縁に膝をつき、落ちそうになるぎりぎりまで身を乗り出した。


「あたしに? 渡さないといけないもの?」

“そう、これ。とても大事なものよ”

 少女はすぐ傍らまで泳ぎ寄り、美由紀に向けていっぱいに腕を伸ばした。美由紀はぎょっとして顔を引く。


「わっ、なんてかっこしてるのよ! 水着は!?」

 波間から半身を浮かせた少女の、綺麗な乳房があらわになっている。慌てて周囲を確かめるが、幸い辺りには誰もいないままだ。


“これを受け取って。頼れるのはあなただけなの”

 少女の発する響きが強さを増した。差し出されたものに美由紀の視線が吸い寄せられる。


 金色に輝く玉だ。金属とも宝石とも違う、まるで光そのものが形を取って結晶したかのような、不思議な質感だった。

 謎の少女に促されて手を差し出す。触れてみると心地良く温かい。とくんと微かに震えた気がした。


“必ず彼に返してあげて。あなたが口の中に吹き込めば、きっと元の通りになるから”

「え、えっ、どういう意味よ? 口の中にって……そ、それに彼って誰のこと!?」

 思い当たったのは一人だけだ。だが「はい喜んで!」などと頷けるわけもない。


“急いで。長く外に離れ出ていると消えてしまう。そうしたらもう戻らない。永遠に失われたままになる”

 しん、と身の内が冷たくなった。少女の言葉の正しさを証すがごとく、玉の放つ光は少しずつ弱くなっていく。


「ねえ、教えてよ。これはなんなの?」

“それは――”

 ちゃぽん。

 美由紀に光る玉を託し、謎の少女がしなやかに身を捻る。


「……えーっと、冗談、だよね? だってそんなことあるわけないしさ。アハハ、ハハ」

 半笑いに頬を引き攣らせ、美由紀は小さなしぶきを残して水の中へ消えた尾びれを見送った。




 どうしたらいいんだろう。いきなりこんなもの渡されたって、その、困る。

 ぐるぐると悩みながら海岸を引き返す。手の中に固く握り込んでいるのは、奇妙な光る玉である。


 おそらく世の中にはごくありふれていて、しかも他のどれとも違う一点物だ――もしあの人魚が、美由紀の見た白昼夢などでなかったら。

“それは彼の恋心。わたしのせいでうっかり落とさせてしまったの。あなたなら彼の中に戻せるわ”


「……ほんと、勘弁してよ。何をどうしたらそんなものが落っこちるっていうのよ。うっかりで済むレベルじゃないからね。しかも後始末はあたしに丸投げとか、無責任にもほどがあるっての」


 覚悟なんてちっとも定まらないまま、八つ当りみたいに砂浜を踏みつける。

 光圀はどうしてるだろう。まさか美由紀を置き去りにして帰ったなんてことはない、と思いたいけど。

 どうやら「恋心」を失ってしまったらしい光圀の、素っ気なく乾ききった態度を思い出して、美由紀は少なからず不安になった。


 あ、よかった。ちゃんといる。

 一人浜辺に座った光圀が、美由紀を見て小さく頷く。しばらくほったらかしになっていたことに、気を悪くした様子はない。けれど美由紀が戻って嬉しそうな顔もしていない。普通だ。普通過ぎる。


 美由紀は掌の中の玉に力を込めた。

 これを光圀の口の中に吹き込む。つまりマウス・ツー・マウスというやつだ。大丈夫。概念は知っている。

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