第4話 「失われた恋」(前編)

 やけにでかい魚だ、と光圀みつくには初め思った。

 もちろん海の中に魚がいて悪いことはない。しかし浜辺から普通に泳いで来られる距離で、人の背丈ほどもある大物に遭遇するのはちょっと珍しいのではないか。


 いったん海面の上に出て息を吸う。漁に来たわけでもあるまいし、わざわざ追いかけることもない。それにもし鮫とかだったら洒落にならない。

 暫しその場にぷかぷか浮かんでいた光圀は、再び波の下へと潜り込んだ。


 浜辺に戻る気にはまだなれない。

 やはりいきなり二人で海はハードルが高かった。正直、間が持たない。無理に一緒にいようとしても、きっと余計ぎこちなくなる。たぶん向こうも同じふうに感じていて、だから自分は浜に残って、光圀が一人で泳ぎに出るのに任せたんだろう。


 そしてそういう残念な事情を抜きにしても、今見た〈魚〉がどうにも気になってしょうがなかった。

 まさかそんなはずないとは思う。見間違いに決まってる。だってそんなものが現実にいるわけない。

 光圀は水の中で首を巡らせた。目を瞠る。本当にいた。しかも思いのほか近い。こっちを見てる。目が合う。あと、おっぱい。


「がぼっ、んぐっ」

 思わずあんぐりと開いた口から、塩辛い水が入り込む。

 咄嗟にすがろうと手を伸ばす。開いた指が届く寸前、〈彼女〉は巧みに身をくねらせた。


「がばべっ?」

 もはや見間違いではあり得ない。溺れる心配など頭から消し飛ばし、光圀は〈彼女〉を追おうとした。


 泳ぎは圧倒的に〈彼女〉が上だろう。ひとたび距離を開けられたらおしまいだ。美しく清らな肌に無我夢中で抱きつきかけて、光圀はしたたかな反撃を喰らった。

 足ならぬ尾びれで頭を蹴りつけられて、心が刹那空白に染まる。そして生じた隙間から、ころりと転がり落ちたものがあった。


 金色に光る玉だ。とどまることなくゆらゆらと水底へ沈んでいく。

 光圀はそれきり〈彼女〉を追うのをやめた。すっかり関心を失った様子で、海の上へ向かって泳ぎ始める。


 慌てたのはむしろ〈彼女〉の方だ。懸命に尾びれを振るい、光る玉を追いかける。流れにさらわれてしまう前に、どうにか無事に掴み取る。だが間に合ってはいなかった。光圀は既に浅瀬へ向かっている。〈彼女〉には陸に近過ぎるし、それ以上に人目につき過ぎる。自分ではとても返しに行けない。手の中の金色の光を眺め、人魚は暫し途方に暮れた。




 美由紀みゆきは少しばかり後悔していた。やはり一緒に行く方がよかっただろうか。

 泳ぐのはあまり得意ではないけれど、カナヅチというわけではないし、どうせ波打ち際で遊ぶぐらいだ。ことさら断らなくたっていい。


 ならばパーカーを脱いでしまうのが恥ずかしかったとか?

 確かにそれもある。さすがにきわどいビキニとかではないものの、太股も胸元もおへそも見えるセパレートだ。光圀にも他の男子達の前ででも、こんなに肌を出したことはない。


 だがここは夏の海である。気にするぐらいならそもそも来るなという話だ。

 最初は女二男二の予定だった。それが事情により他の二人が急に来られなくなった。


 察しろよ、馬鹿。

 もし単なるクラスメートが相手なら、普通その時点で行くのをやめる。

 全然好きじゃないとか、特になんとも思ってない相手なんかと、海水浴デートみたいな真似をするわけない。


 美由紀は光圀の気持ちを知っている。たぶんそうだろうなと自分でも薄々察していたし、今度のことを計画したのが光圀で、協力するよう頼まれたのだということも、行けなくなった子から昨夜聞いた。


 だったらもっとぐいぐい来そうなものだ。

 なのに普段教室にいる時と比べてさえ、光圀との間にある距離は遠かった。

 焦れったい。いっそこちらから腕でも組んでやろうかなんて思ったり。

 だけどさすがにそんな攻めた真似はできなくて、逆につい意地悪な気分になった。


(あたしは今はいいかな。久遠寺くおんじくん、泳いできなよ)

 そしたら本当に行きやがった。女の子一人を浜辺に残して。

 信じられない。最低だ。もしナンパでもされたらどうしてくれる。さっきからちっとも戻ってこないし。退屈。つまんない。何考えてるの。ひょっとして、怒ってる?


 美由紀はパーカーに手をかけた。ばっさり脱ぎ捨てると、のしのしと海へ歩き出す。

 引いてだめなら押してやる。それでだめならもう知るか。

 打ち寄せる波に足を踏み入れ、予想外に冷たかったせいで思わず変な声が出そうになったが、噛み殺して光圀の姿を探す。


「あ、いた」

 幸いすぐに見つかった。ちょうど光圀も浜辺に戻るところだったらしい。まだ結構離れているが、ばっちりと目が合った。

 一瞬表情の選択に迷ってから、美由紀はいつも通りの友達に向ける感じの笑顔を作り、小さく手を振ってみせた。


 せっかくの海だし、やっぱりあたしも泳ぐね、そういうノリだ。

 これで向こうも少しは気がほぐれるに違いない。ほぐれ過ぎてあんまりがつがつ迫られても困るけど、などと考えているうちに光圀が美由紀の傍までやって来た。

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