第3話 「坂の上の恋」(後編)
「ごちそうさま」
返されたスポーツドリンクはまだ半分ほども残っていた。おそらく
「全部飲んじゃってもいいよ。むしろそれでも足りないぐらいじゃないの」
「水分補給が必要なのはあなたも同じでしょう。少し顔が悪いわよ」
「そうかな……って、顔?」
「顔色」
少女はすぐに言い直した。素で間違えたのか、それともベタな冗談なのか判断に迷う。けれど少しふらつく感じがするのも本当だ。悟史は飲みさしのペットボトルのキャップを開けて、はたと戸惑う。
これっていわゆる間接キ……いやいや、そんなこと気にするのは小学生までだ。隣の少女だって意識なんかしてないに決まってる。
当然という素振りでペットボトルに口をつける。ほんのり熱を帯びている。少女の温もりが移ったのかもしれない。まさか。キモいことを考えるな。この暑さの中ずっと自転車のホルダーに挿してあったんだ。もし冷たかったら逆におかしい。
悟史は生温く甘酸っぱい液体を喉の奥に流し込んだ。
「心配しないで。変な病気なんか持ってないから」
気管に入った。
「さっきやった男に、うつされてなければだけど」
「がはっ、げへっ、ごほっ」
たちの悪い冗談をピンポイントで繰り出すのはマジで勘弁してほしい。噎せながらひとしきりスポーツドリンクと鼻汁を撒き散らし、どうにか息を整え終えたのち、悟史は隣に抗議の視線を向けた。
「なんだこの女、見かけによらずビッチかよ……とか思ってる?」
「別にそんなことは思わないけど」
「じゃあ見た目通りのビッチかって思ってるのね」
「だから思わないって。勝手に決めつけるなよ」
少なくとも派手に遊び回る系の女子には見えない。
「あなたは経験あるの?」
「えっ、俺? まあ、その……キスなら」
もっとも幼稚園の頃の話だが。
「ふうん、つき合ってる人がいるのね。でもそのわりにはなんだか……」
少女は曖昧に言葉を濁した。続きが気になったが、あえて確かめるのはやめておく。
「今はいない。昔の話だし」
一応嘘はついてない。少女はさして興味もなさそうに、悟史から顔を逸らして正面に向き直った。目の前の峠道にはさっきから車一台通っていない。
「そういうお前はいるんだよな。つき合ってる奴」
「いないわ」
「だけど、さっきやったって……」
やはり冗談だったのか、と問おうとして口を噤む。最初に見た時、少女は確かに泣いていた。それにどうしてこんな何もない場所まではるばる自転車をこいでやってきたのか。
きっと悟史と同じだ。どこでもないどこかへ行きたかった。そして少女がそんな思いを抱いた理由はもしかすると――。
「言っておくけど、レイプなんかじゃなかったから」
悟史の方を見ないまま少女が告げる。
「少なくとも、あっちは自分が犯罪者だなんて思ってない。わたしも……いつかはそうなるかもってつもりがなかったって言ったら嘘だし。まさか今日すぐなんて想像してなかったけど……すごく痛かった。てゆうかまだ痛い」
だったら家でおとなしく寝てろよ。馬鹿じゃねえの。
たしなめたって意味はない。
だって家にいたくなかったんだろうから。そしてベッドを使う気にもなれなかった。
少女を哀れむのは違うだろう。そんなのはご立派な聖人君子にでも任せておけばいい。だけど傷ついているのは悟史にも分ったし、強がりきることもできずにいる少女を放っておくのは無理だった。
それに正直悟史はむかついていた。名前も顔も知らない男に、想像の中で蹴りを一発喰らわせる。
「そんな奴忘れちゃえよ。他にもっといい相手がいるって絶対。お前結構可愛いしさ。だからほら、たとえばの話だけど、俺とつき合……」
「帰るわ」
少女がいきなり立ち上がった。悟史の舌は石みたいにこわばって、歩き出した少女を為す術なく見送る。
横倒しになった水色の自転車へ向かう途中、少女はふと足を止めた。振り返る。清楚な白いワンピースの裾が仄かに揺らぐ。
「ねえ、わたしとやりたい?」
「はぁっ!? なに、なんだよそれ、どういう意味」
悟史は頭の中が沸騰したみたいに腰を浮かせた。少女は静かに引き返してくると、抱きつくようにして悟史の首の後ろへ両手を回した。シャンプーだかリンスだかの甘い香りと少女自身の匂いとが入り混じり、悟史の感覚を痺れさせる。
「やりたいなら、そう言って」
まるで脅迫しているかのように少女が迫る。
やりたいって、何を。意味が分らない。なんてのは嘘だ。子供じゃないんだ。もちろん分る。つまり、セックスだ。
だけど少女の気持ちは分らなかった。
もっとちゃんと考えられたらよかった。そうすれば正しい答えにたどり着けたのかもしれない。
「いや、俺は……」
言葉のかけらが吐息みたいにこぼれ出る。違う、そうじゃない、と思った時には手遅れだった。少女は悟史の首にかけていた腕をほどき、黙ったまま後ろに退る。怒ったのだろうか。分らない。少女の整った面立ちが、今の悟史にはひどく遠い。
少女は悟史に背を向けた。今度は足を止めることなく、倒れている自転車の傍に行くと、力を込めて引き起こす。
名前も何も知らない相手だ。このまま別れてしまったら、もう二度と会えないかもしれない。
坂を上った疲労で重い足を、悟史は前に踏み出した。
「やりたい! すっげぇやりたい!!」
ひとけのない峠の頂に、思春期男子の魂の叫びが響き渡る。
谺を引いて消えていく中、自転車に手を掛けた少女がゆっくりと振り返る。
悟史は必死で自転車をこいでいた時よりもっと汗を垂らし始めた。さすがに今のはない。少女と瞳を合わせるのが怖い。
「……馬鹿なの? あんたなんかと本当にするわけないじゃない」
「うっ」
抉られた。
「あんたなんか」。まさしくその通りだ。部活も勉強も上手くいかず、いやな現実から逃げ出すのさえ隣の市との境まで来るだけで終わってしまう。つくづくくだらない、つまらない男だ。
少女の目に、悟史はよほどぺしゃんこに映ったのかもしれない。
「もし二十歳になっても童貞だったら。わたしがもらってあげるわよ」
電気に打たれたみたいに顔を上げる。だが少女は既に自転車をこぎ出していて、背筋を伸ばした白いワンピース姿はすぐに遠ざかって彼方に消えた。
――たぶん自分は二十歳まで童貞でいる。坂の上に立ち尽くしながら悟史は思った。
(「坂の上の恋」 了)
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