第2話 「坂の上の恋」(前編)
もうこれ以上は無理だった。
だいぶ西に傾いたとはいえ八月の太陽はなお十分に強烈で、おまけに山に囲まれた町が溜め込んだ熱気も足元から這い上がってくるような心地がする。だらだらにかいた汗を吸ったTシャツはたぶん普通に絞れると思う。
なぜこんな馬鹿なことをしているのだろう。上まで行っても疲れるだけで、一円の得にもならない。自転車の向きを変えてもう一回サドルに跨がればいい。そのあとは楽ちんだ。これまで苦労して上がってきた分、帰りは長い下り坂が続く。わざわざペダルをこがなくても体は勝手に前へと進む。汗をかいた体に向かい風がさぞかし気持ちいいに違いない。
けれど悟史はそのまま自転車を押し続けた。どうしてこんな馬鹿なことをしているんだ。繰り返される問い。答えはごく簡単だ。
悟史が馬鹿だから、である。
小学生の頃、誰が一番速くこの坂を自転車で上りきれるかよく競走した。賞品はジュース一本とか、さらに安上がりにうめぇ棒一本とか。馬鹿だ。掛ける労力に比べて報酬が全然釣り合ってない。だがそれはいい。男子小学生と馬鹿は切っても切り離せない。いっそ馬鹿なことをする奴ほど偉いまである。そして親や先生に怒られる。うん、馬鹿だ。
中学に入ると、部活や塾なんかで皆それぞれに忙しくなって、無意味に自転車でかっ飛ばすなんてこともなくなった。
けれど悟史は時々一人でここに来ていた。
たとえばむかつくことがあった時。たとえば欲しい物があった時。自分だけの勝手な願掛けみたいなものだ。もしも途中で休むことなく、最後までペダルをこぎ続けて坂の上まで来られたら、きっと幸運が訪れる。
そんな自己満足チャレンジも、既に失敗に終わっているわけだが。
もはや意地ですらなかった。ただの惰性、あるいはもう何も考えたくないがためだけに、悟史は自転車を押していく。少なくともこの先には、不合格判定が記載された模試の成績表も、部活仲間と気になる女子とが手を繋いで歩いている場面に遭遇する恐れもない。悩みがないならそれでハッピー。
「ふうっ、はあっ……やっと……着いた」
情けなく息を切らしながらも、地面が平らになったことにほっとする。部活を引退してまだひと月かそこらしか経ってないのに、体力の衰えは深刻だった。いや問題があるのは気力の方か。
山頂というほど大層な場所ではなかった。隣の市へ抜ける峠道の中程に小さく開けた草地があって、なぜかベンチがぽつんと置いてある。
悟史はハンドルに突っ伏しながら、ベンチの傍まで自転車を押していった。スタンドを立て、ふうと一息ついて顔を上げ、そのまま瞬きを忘れた。
ベンチには先客がいた。端整な横顔、艷のある黒髪を背中に垂らして、清楚で上品な白いワンピースを纏っている。まるで古いモノクロ映画の中にでもいそうな少女だ。
めまいのような感覚にとらわれる。知らぬ間に昔の高級避暑地にでもタイムスリップしたのかと半ば本気で疑うが、周りはやはり何もない峠の上の原っぱのままだ。
すると時空を越えてきたのは悟史ではなく少女かもしれない。
それとも幽霊?
なんにせよ普通とは思えなかった。その証拠に、ひとけがない中で知らない男子が近付いているのに、少女は気にした素振りもない。実は気付いてさえいない可能性もある。姿はこうして見えていても、本体は別の場所に存在しているとか――。
「あなた、さっきからなんなの。人のことじろじろ見たりして。気持ち悪い」
少女がふいに振り向いた。挨拶代わりみたいに毒を吐かれる。悟史は目を見張った。尖った声をぶつけられても、少女から視線を離せない。
少女もまた悟史をじろじろと眺めると、形良く弧を描いた眉を険しく寄せた。
「汗だくね。突っ立ってられるとうっとうしいんだけど」
腰を浮かせて端に寄る。悟史は操られたようにぎくしゃくと、ベンチの空いた場所に尻を落とした。
「あの……」
「なに」
「なんで泣いてるの?」
「泣いてない」
少女はそっぽを向いた。
「や、でも」
こうして傍から見れば明らかだ。目が赤いし、頬には涙の流れた跡がある。
「汗よ。自転車でこんな所まで上ってきたんだもの。わたしだって汗ぐらいかくわ」
意地っ張りな言葉に打たれ、ベンチの向こうに水色フレームの自転車が横倒しになっていることに今さら気付く。足元に視線をやれば、少女が履いているのはぴかぴかの赤いエナメルの革靴などではなく、某有名ブランドのスニーカーである。右のつま先に土のかけらがついていた。
悟史はようやく心から納得した。少女はタイムトリップしてきた前時代のご令嬢でもなければ、暑さと疲労が生み出した幻覚でもない。生きてここにいるただの女の子だ。
自転車の向きからすると、隣の市からこちらへと逆に峠道を上ってきたらしい。ずいぶん大変だっただろう。涙ではなく汗というのも、きっと単なる見え透いた言い訳ばかりではない。現にシャンプーだかリンスだかの甘い香りに混じって、もっと違う匂いがしている。
凄い目で睨まれた。
「ご、ごめんっ、なんでもない!」
悟史は仰け反りながら後ろに退った。ほぼ無意識だったとはいえ、少女の胸元に鼻を寄せて匂いを嗅ぐなど逮捕されても文句は言えない。
「そうだ、ちょっと待って」
逃げるようにベンチを立つと、近くに止めてある自分の自転車まで行ってまたすぐに戻ってくる。
「よかったらこれ。脱水症状とかなったら大変だし」
持ってきたスポーツドリンクのボトルを少女に渡す。まだ蓋を開けていないので、嫌がられることはないはずだ。
「……ありがとう」
やはり相当喉が渇いていたのだろう、少女は素直に受け取ると、キャップを外して口をつけた。意外と豪快にボトルを傾け、ぐいぐいと中身を呷る。白い首筋が脈打つように動く様に悟史は思わず見惚れかけ、だが妙な後ろめたさを覚えてそっと目を逸らす。
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