恋愛掌編集
しかも・かくの
第1話 崖っぷちの恋
強い風が吹いていた。女は髪が乱れるのも厭わずに、荒い波が打ちつける断崖の上にひとり佇んでいた。
目の下には濃い隈が浮き、背中を丸めてうつむいている。いかにも疲れきっている姿だ。ひょっとするとこのまま何もない中空に足を踏み出し、逆巻く海面へと身を投げ出すのではないか――そんな疑念さえ抱かせる。
だがやつれているのは確かながら、女の表情に絶望の影はない。むしろ逆に。
「ふふっ……上手く逃げられたわ。誰も私の居場所を知らない」
勝ち誇ったようにほくそ笑む。
女は逃亡者だった。しかし多額の借金があるとか、人を刺して指名手配を受けているといった先のない理由ではない。
とある新興急成長企業の最重要プロジェクト、その極秘データを女は全て握っていた。利用の仕方次第では数千万、いや数億、いやさらに一桁上の金銭を得ることも可能な代物だ。女はそうしたことのプロだった。
どうすれば最大の利益を上げられるか――無意識のうちに考えている自分に気付き、女は苦笑して頭を振った。
「面倒なことに頭を悩ませるのは後回しね。まずは思いっきり羽を伸ばしましょう。今夜は祝杯を上げるの」
「残念だったな。その予定はキャンセルだ」
強風のさなか、その声は吹き散らされることなく女の耳朶を打った。
びくりと身が震える。信じたくない現実に抗うように時間を費やしたのち、ついに女は拳を固く握って振り返った。
「
男の名を呟く。全く予想だにしていなかった相手、ではない。むしろ追ってくるとしたらこの男しかいないと思っていた。だからこそ男のいない機会を見計らって事を起こしたのだ、が。
「どうして」
「ん?」
「どうして、私のいる場所が分ったの」
「どうして分らないと思ったんだ」
小馬鹿にしたような返答、しかし強い意思の宿った男の瞳には、冗談の影もない。女は悔しげに頬を歪めた。入念に痕跡を消したつもりだったが、この男には通じなかったらしい。
男もまたプロなのだ。対象となる相手にぴたりと張り付き、行動を余さず把握する。
「それと勘違いするなよ。質問する立場にいるのは俺だ。お前じゃない」
男がじわりと距離を詰める。女は気圧されて下がりそうになる。だが後ろは文字通りの崖っぷちだ。退路にはならない。
「なぜプロジェクトを裏切るような真似をした」
「…………」
黙り込んだ女に、男は冷徹な視線を注ぎ続ける。
女は覚悟を決めた。もう後はない。ならば前に進むだけだ。震える拳を握り直し、男が知らないはずのとっておきの切札を出すべく、タイミングを計って深く息を吸い込む。
「答えたくないか。まあいい。どうせもう逃げられや……」
「あなたのことが、好きだから!」
「しな……い?」
「あなたの気を引きたかったのよ! こうすればきっと、あなたは私を追いかけてくれるって思ったの! 全部あなたのせいよ!」
「あー……」
常日頃の鉄面皮が崩れ、男がぽかんと口を開けている。その間抜け面をじっくり鑑賞したい気持ちをこらえて、女は手の中に隠し持っていた小型スプレーを突き出した。自ら調合した特別な薬液を、躊躇なく噴射する。
「くっ!?」
「じゃあね」
奇襲を受けて仰け反った相手の脇をすり抜ける。タフな男だ。もしまともに吸い込んでいたとしても、きっと死にはしない。運悪くふらついて崖の下にでも落ちない限り。
「あなたと過ごした時間も、案外悪くなかったわ」
胸の奥が鈍く痛んだのを無視して歩き出す。もう何もかも忘れてしまおう。それできっと楽になれる。
「待てよ」
だが女はそれ以上先に進めなかった。腕を後ろからがっちりと掴まれ、さらに力強く引き寄せられる。
「お前は俺から逃げられない。絶対にな」
「冗談じゃ、ないっ……私はこんなところで捕まるわけにはいかないの!」
必死に振り払おうとするが、男はびくともしない。
「いいや、お前は捕まるさ。俺に捕まる。なぜだか分るか?」
真近に顔を寄せて、恐ろしい笑みを浮かべる。女は目を逸らせなくなった。
「俺の方が、もっとお前を好きだからだ」
「し、進藤……」
女はくたりと力を緩めた。男は本気で言っている。そのことが、どうしようもなく分ってしまう。
男の胸に身を預ける。もういい。この男が傍にいるなら、自分はそれだけでやっていける。目を閉じ、そっと顔を仰向け、女は唇を差し出して――。
「――よし帰るぞ社長。即行だ。スケジュールがやばい」
男、進藤
「え……? やっ、ちょっと待っ、こ、転ぶ転ぶっ」
目をつぶりその気で待っていたところに急に腕を引かれ、女、
「ったく、俺をパシらせてる間に行方をくらましやがって。追跡アプリ仕込んどいて正解だったぜ」
「ちょっと、いつの間にそんなことしたのよ!? だいたい会社の携帯は置いてきたはずよ!?」
「個人用の方にも入れといた。当然だろ」
驚きをあらわにした女に、男はこともなげに言い放つ。早見は目をむいた。
「なんてことするのよ! それもうほとんど犯罪だからね! 自分の仕えてる社長に対して秘書のすることじゃないわ!」
「社長が滞りなく仕事できるよう管理するのが秘書の仕事だ」
「そ、それは確かにそうかもだけど……ねえ、進藤」
いくら強気に出たところで男は態度を枉げない。そう悟った早見は、一転して甘えるような声を出した。
「プロジェクトなら大丈夫、心配いらないわ。選りすぐりの優秀なメンバー揃いだもの。私が一日や二日空けたって問題ない。上手く回せるわよ」
「その優秀な連中に泣きつかれた。一番肝心な部分は社長の頭の中にしかない。それ無しじゃどうにもならないから、首に縄つけてでも連れ戻してくれってな。奴らが有能なのは俺も知ってる。だから言ってることも正しいはずだ。それと忘れてるみたいだから教えてやるが、プレゼンに行くのはあさっての午後一だ。しかもこっちの作業遅れのせいでもう二回も延期させてもらってる。それまでに説得力のある資料を用意できなかったらアウトだ」
「そ、それはもちろん分ってるのよ? だけどね、もう首も肩も背中も腰もバッキバキで……このまま無理に仕事を続けても、すっごく効率が悪いと思うの。だから、せっかくここまで来たんだし、まずは温泉にゆっくり浸かって、そのあとエステの疲労回復コースも予約してあるから、たっぷりリフレッシュして、そうすれば明日からまた全力で働けるわ。ね、いい考えでしょ? それにもし進藤さえよければ……」
思わせ振りに間を空けて、上目遣いを向ける。
「……一緒に泊まっていっても、いいのよ?」
進藤がじろりと睨んだ。早見はたじろぐ。本気で怒られるかと焦ったが、男は目元の険を緩め、長く息を吐き出した。さっき不意打ちで吹き付けたアロマオイルのおかげかもしれない。リラックスこうかはばつぐんだ!
「しょうがねえな。確かにお前の言うことにも一理ある」
「進藤!」
「会社の近くに15分マッサージの店があったろ。帰る前にそこ連れてってやるよ」
「進藤ぉ~」
演技ではなく早見は半泣きになった。進藤が顔をしかめる。だがそれ以上女を咎めることはせず、小さい子にするように頭の上にぽんと手を置く。
「分った。マッサージは俺がする。会社の仮眠室を使おう。首でも肩でも背中でも腰でも、お前がもういいって言うまでしてやるよ。足裏の指圧もサービスにつける。それでどうだ?」
「……それなら、がんばる」
「よし。帰るぞ」
進藤は女の髪をさらりと撫でると手を繋いだ。早見は指を絡めて男の手を握り直した。
「ねえ進藤」
「なんだ」
「優しくしてね? 力任せにぎゅうぎゅう揉むのとかだめだからね?」
「……帰るぞ」
「ねえ進藤? 今の間はなに? なんで急に足を速めるの? やっぱり帰るのやめる! 温泉入る! エステする! 離してよ! 社長にパワハラする秘書なんかクビにしてやるぅ~!」
(「崖っぷちの恋」 了)
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