第7話 「魔法使いの恋」その1

 もし目撃者がいたとしたら、ずいぶん奇妙な光景に思えたはずだ。あるいは可愛げな見た目はまやかしで、正体は魔物の類かと疑ったかもしれない。

 だが人里離れた深い森を独り行く少女は、正真正銘の人間だった。年の頃はせいぜい十二、三歳ぐらいに見える。物は良さそうだが山歩きには頼りない軽装で、道なき間を飛ぶように歩いていく。


 いや飛ぶように、ではない。事実として飛んでいる。小さな布靴が地を踏むたびに、地を弾く力が湧き起こり、少女の体を前へ前へと運んでいく。

 鬱蒼と繁る樹木を右へ左へとかわしながら進んでいた少女が、ふと眉をひそめた。


 悲鳴だ。今まさに少女が向っている先から、恐ろしい苦痛に満ちた叫びが響き渡る。

 少女は足を緩めなかった。逆にますます速度を上げて、危険が待ち受けているだろう場所を目指す。


「……一応、間に合ったわね」

 少女、ミレイユはほどなく目的地に辿り着いた。だがその呟きを耳に留めた者がいたとして、きっと頷きはしないだろう。


 ミレイユの視線の先には、男がうつ伏せに倒れていた。ひと目ずたぼろだ。むしろ男の残骸と言った方が近い。まだ息があるのが不思議なほどの重傷だった。

 そしてまだわずかに残った命の灯は、今まさにかき消されようとしていた。


 魔物がいた。巨大な熊に似ているが、胴体部分にぱっくりと縦に口が開き、長く尖った牙が内側にびっしりと並んでいる。ただの獣ではあり得ない。

 魔物は四肢を地面に下ろすと、もはやぴくりとも動かない男の上に覆いかぶさる。食事の時間だ。


 ミレイユは不快げに目元を歪めて、だがそのまま真っ直ぐに歩みを進めた。

 無作法な闖入者に気付いた魔物が首をもたげる。黄色にぎらつく目でミレイユを睨みつけ、頭部と腹部の両方の口で咆哮を放った。


 単に巨大な声量というのみならず、破壊的な力を伴った衝撃波が、間にある枝を幾本もへし折りながら少女の元へ襲いくる。

 ミレイユはほっそりした腕を持ち上げると、指をぴんと一本伸ばして振った。


“シズメ”

 幼げな唇が紡いだ呪文はわずかに一語。

 竜巻の如き衝撃波が、微かな風のそよぎを残して消失する。


 きょとんとしたように魔物が固まる。異形の人喰いにしては微笑ましい反応だったが、それも束の間、すぐに激しい敵意を燃え上がらせると、餌にしようとしていた男を踏みつけて突進を開始する。

 地響きが足元を揺らす。巨熊に似た黒い魔物が迫りくるのを眺めながら、ミレイユは木の実を飛ばすみたいに指を弾いた。


“ツブテ”

 魔物の頭が大きく仰け反る。ぐわおんっと悲痛かつ弱々しげな叫びを上げて、あえなく後ろに引っ繰り返る。


「ふぅ……」

 ミレイユは短く息を吐き出すと、ゆっくりと歩み寄った。魔物はまだ生きていた。ぐらぐらと四肢をよろめかせながらも立ち上がる。なかなかに頑丈だ。もしこれが普通の熊であれば、既に頭骨が粉々になっている。


 真近にする魔物の体躯はまさしく圧倒的だった。少なく見積もっても身長はミレイユの倍、幅と厚みは三倍に達するだろう。憎悪のこもった唸り声を上げながら、少女の胴より太い前腕を振り上げる。その先端には鋭い凶悪な爪が伸びている。直撃すれば人間など一瞬で挽き肉だ。

 正面から視線を合わせる。


「いい加減にして。殺すわよ?」

 魔物が一目散に逃げ去ったあと、ミレイユは倒れ伏した男の傍らに屈み込んだ。土気色に変じた顔をよく見れば、予想外に若い。男というより少年だ。


 背中がべしゃりとへこんでいるのは、魔物がミレイユに突進しようと踏み込んだ時のものだろう。この傷が一番ひどい。だがもともと死にかけていたのだ。さらに致命傷を負ったところで二度死ぬわけではない。気にしないでおこう。


「一人でこんな深くまで迷い込んだりして。自業自得よ」

 ぴくりとも動かない少年の体の上に、ミレイユは掌をかざす。

“イヤシ”

 金色の光があふれ出て、絶え入りかけていた命を包み込んだ。

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