第12話 「泣くに泣けない恋」(後編)
蛇口から落ちる水を掌に受け、激しく顔に打ちつける。ムキになった子供みたいに、幾度も幾度も繰り返す。頬を濡らすのはきちんと滅菌消毒された水道水だ。口に入ると素っ気なくて少し苦い。
背後に人の気配を感じたが、
「いい加減にしたらどう。メイクが全部落ちちゃうわよ」
前置きなく降ってきた声に、びくりとして手を止める。だが振り返ることはせず、逆にもっと強く水を浴びせて顔をこする。やがて肌に微かな痛みを覚えた頃、美緒はようやく面を上げた。
「元から化粧なんかしてないです。そのぐらい見れば分るでしょう」
洗面台に置いておいた眼鏡を掛けて、さっき会ったばかりの女を鏡越しに睨みつける。
「
「いきなりなんの話ですか」
「お兄さんに涙を見せたくなかったんでしょう? せっかくの楽しい会のはずなのに、大事な妹が泣き出したりしたら、一至君ががっかりするものね」
「別に、そんなんじゃないです。ただちょっと気持ちが悪くなったから」
美緒は胸元を押さえた。吐くのを我慢するみたいに下を向く。
「つわりで……お腹に兄の子がいるの」
短い沈黙の時が行き過ぎる。
「嘘よね」
「嘘です」
全く信じていない調子で返されて、美緒はあっさり自白した。即バレしてしまうのは仕方ない。仮にも一至の恋人なら、妹に不埒な真似をするわけがないと分っていて当然だ。
まだ濡れたままだった顔を、美緒はハンカチで拭った。目の周りは特に念入りにやっておく。
「泣きたくなったのは認めます。でもきっとあなたの考えてるような理由じゃないですよ」
「大好きなお兄さんを私に取られると思って、悲しくなっちゃったんでしょ。他に何があるの?」
「やっぱり大外れですね。正解は、兄の女性の趣味の悪さを知って情けなくなったからです……って言ったら?」
おもむろに振り返り、鏡像でない本物の綾紗と向かい合う。身長も年齢も顔もスタイルも年齢も、どれをとっても自分よりも上の相手だ。あと年齢も。それと年齢も。たぶん十歳以上離れている。つまり美緒が大人になった時、この女はもう三十を過ぎている。
綾紗の口元から微笑が消えた。強い瞳が美緒の視線を受け止める。
「どうもしないわ。私が結婚するのは一至だもの。私を選んだのも一至。あなたの好みなんて関係ない」
敵意というには素っ気ない。むしろ見えないバリアーを解除したみたいな無防備な表情だ。美緒は唇を噛んだ。反論の言葉は浮かばない。
「一至君には適当に言っておくから、気分が落ち着いたら来てね。デザートだけでも食べる価値はあると思うわよ」
綾紗はにわかに大人な態度に戻り、穏やかにヒールの音を響かせながら出て行った。残された美緒はふっとその場にへたり込みそうになる。でもだめだ。洗い場の台に手を付いてこらえる。ワンピースの裾をトイレの床に着けたくない。去年の誕生日に一至に買ってもらった大切な服だ。
鏡に映った自分の姿が目に入る。美人じゃないのは分ってる。だけどそんなにブスでもない、かもしれないけれど。
「……地味な顔」
ため息と共にこぼす。眼鏡をやめてコンタクトにしようかと考えたこともある。だが結局実行には移さなかった。それで解決するほど簡単な話なら、整形する人など世の中からいなくなる。
たぶん一至は美緒を地味顔だとは思っていない。きっと意識したことさえないだろう。それでも綾紗と美緒を二人並べて比べれば、どちらが一至と釣り合うかを見誤りはしまい。
一至と綾紗は美男美女のお似合いの恋人で、一至と美緒は格好いい兄と冴えない妹の似ていない兄妹だ。
似ていないのは当然だ。だって血が繋がっていない。
確かに血は繋がっていない。けれど兄妹であることに変わりはない。
少なくとも一至にとっての美緒は、どこまでも妹だ。
じゃあ美緒にとっての一至は――?
兄だ。ただの兄。たとえ義理でも、血の繋がりはなくても、兄は兄に決まってる。
それ以外の気持ちなんか、ない。
だって義理の兄に恋をするとかベタ過ぎる。チョコレートのハチミツ漬けよりもっと甘い。一口食べるだけで胸焼け必至だ。
美緒は鏡に顔を近付けた。上を向いたり横を向いたりして、幾度も幾度も確かめる。
大丈夫だ。問題ない。涙の気配すら見付からない。
美緒は自分に笑いかけた。眼鏡を掛けたすっぴん地味顔の女の子が笑い返す。
我ながらちょっとだけ驚いた。
「……なんだ。わたしって案外可愛いじゃん」
早く他の誰かも気付くといいな。
新たに生まれてきた想いを、美緒はそっと抱きしめた。
(「泣くに泣けない恋」 了)
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