第11話 「泣くに泣けない恋」(前編)

 なんとなく嫌な予感はしていた。でもできるだけ見ない振りをしていた。

 だってせっかくの金曜の夜、しかも今日は美緒みおの十六歳の誕生祝いだ。持っている中で一等いい服を着て、プレゼントにねだったお洒落なレストランでのディナーへと、これから連れて行ってもらうところである。


 大して根拠もないことで、楽しい気分に水を差したくはない。

 美緒はエレベーターのボタンを押す一至かずしをじっと見つめた。目的の店は五階にある。ほんの少しの間だけ、密室に二人きりになる。


「どうかした?」

 美緒の視線に気付いた一至が振り向く。

「ううん、なんでもない」


 美緒は咄嗟にうつむいた。耳が熱くなるのを意識する。出会ってからちょうど十年、ほとんど毎日顔を合わせている義理とはいえ兄に向かって、「見惚れてた」なんて言えるわけない。


 でも逆に意識し過ぎだろうか。

 客観的に見て一至はかなり格好いい方だ。もし普通の兄妹だったら、「自慢のお兄ちゃん」にもっと素直に甘える場面だったりするかもしれない。


 美緒はそうっと一至の腕へ指を伸ばした。家の外で見るスーツ姿はいつも以上に大人っぽい感じがして、変にどきどきしてしまう。

 手が触れる。一至は少し驚いたみたいで、だけどもちろん振り払ったりはしない。美緒が取り易いように自然な動きで肘を差し出す。美緒は誘われるように腕を絡めた。最初の予定よりずいぶん深い。そのまま胸を押し当てそうになって、さすがに寸前でためらう。もっとも本当にやっていたとしても、一至は大して気にしなかっただろうけど。


 エレベターを降り、二人で腕を組んだままレストランへ向かう。入口で一至が名前を告げると、出迎えたウエイターは丁寧に一礼して案内に立った。

 店内の照明は抑えめで、低く流れる美しいピアノ曲の旋律がロマンチックな気分を引き立てる。美緒は半ば夢見心地で一至に身を預けてついていく。


 ウエイターが向かった先は奥の窓際の席だった。上品な薄い藤色のクロスが掛けられたテーブル上に、料理は当然まだ載っていない。だがナイフとフォークは既にきっちり三人分並べてあった。美緒と、一至と――え、誰。


 一至が予約したはずのテーブルに、知らない女の姿があった。艶のある黒髪を肩の後ろに真っ直ぐ垂らし、少し意地悪そうな目を今は穏やかに細めている。メイクはそつなく隙なく決まり、襟元の開いたカジュアルめのスーツはおそらくかなりお高い品だ。


「こんばんは、あなたが美緒さんね」

 棒立ち状態の美緒に、女が軽やかに先制のパンチを放つ。どうして自分の名前を知っているのか。反撃の問いを打ち返す暇もなく、義理の兄がクリティカルな一撃を打ち込んだ。


「美緒、紹介するよ。この人は御井みい綾紗あやささん。会社の同僚で、僕の婚約者だ」

 危うく吐血しそうになった。ぐるぐるとめまいがしてくるのを覚えながら、実は一至の悪ふざけではないかという望みにすがる。


「冗談だよね? だってそんなこと、わたし知らない」

 一至に婚約者がいるなど寝耳に水だ。これまで家族の間でそれっぽい話題が出た記憶もない。だからこの女はやっぱりただの同僚で、頭はいいのに気が利かない兄が、面白い冗談のつもりで連れてきたんだろう。そうに決まってる。


「言ってなかったからね。実は今週の日曜にプロポーズしたばかりなんだ。だから綾紗のことを打ち明けたのは美緒が初めてだよ」

「へ、へえ、そうだったんだ。ちょ、ちょっと驚いた、かな」


 どうやら本当に本当らしい。どこか得意げですらある一至の様子に、美緒は理解せざるを得なかった。この女は兄の恋人で、しかも近いうちに結婚してしまう。

 そこに美緒の意思は届かない。反対する理由はないし、反対すべき立場でもない。だけど。


「どうして……」

 よりにもよって美緒の誕生日のお祝いに、わざわざ他の女を連れてくる必要があるのだ。


「美緒に一番最初におめでとうを言ってほしくてね」

「お」

 大馬鹿野郎、と罵るのを我慢した自分を褒めてやりたい。分っていないにもほどがある。

 一至は変わらず爽やかな笑顔を浮かべているが、綾紗はわりと呆れた風情だ。


「まったく、ひどいシスコンよね。こんな調子で家を出て大丈夫なのかしら。心配になってくるわ」

「家を出て?」

 さりげなく聞かされた一言が、美緒の意識を轟音のように打ちのめした。一至は照れ臭そうに頬を緩める。


「少し気が早いけど、新居に引っ越すことにしたんだ。もう契約も済ませてある。新築の分譲マンションなんて僕にはまだ分不相応だとは思うよ。だけど綾紗が一緒に住むからには相応のグレードは必要だしね。それに高くても金額以上の価値がある物件だし……」

 一至はなおも楽しそうに説明を続けるが、美緒の耳には入らなかった。頭の中を占めるのはたった一つのことだけだ。兄が家から出て行ってしまう。


「美緒ちゃん、そんな顔しないで」

 そんな顔って、どんな顔よ。

 咄嗟に反感が湧き起こる。どうせ自分は高校生にもなってまともに化粧一つしたこともない地味眼鏡だ。手間暇のかかった華やか美人からすれば侮りたくもなるだろう。

 迷走気味に心をささくれさせる美緒に、綾紗は80パーセントの優しさと20パーセントの何かが入り混じった調子で追い討ちをかけた。


「もし淋しかったら、いつでも遊びに来ていいんだからね。一至君の妹さんなら、私にとっても妹だもの」

 胸の上を思いきり殴られたみたいな感じがした。綾紗が招待する家には一至がいて、だがもちろん美緒はいない。


「美緒、どうした。気分でも悪いのかい?」

 一至がようやく妹の様子がおかしいことに気付き、眉根を寄せる。

 なんでもない、でごまかすのは無理だった。兄の視線から逃れるように顔を伏せる。


「ん、ちょっと、お腹痛くて……」

 目の奥に力を込める。余計なものがこぼれ出すのをぐっとこらえる。

「お手洗い行ってくるね」

 そして美緒はその場から逃げ出した。

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