第9話 「魔法使いの恋」その3

「うっ、く……」

 ジョッシュがふいに身をよじらせた。額に冷や汗がにじみ出ている。苦しそうだ。

「どうしたの。どこか痛む?」


 ミレイユは表情を引き締めた。魔物にやられた傷は全て魔法で完璧に癒やしてあるが、いったん底をついた生命力の回復には時間がかかる。ジョッシュがさっき意識を取り戻すまでに、丸三日が経っているのだ。筋もこわばっているだろうし、どこか悪い部分があってもおかしくない。


「……おしっこ」

 ミレイユのこめかみがぴきりと引き攣る。思わず拳を固めるが、ジョッシュに振り下ろすことはしなかった。人として当然の生理現象だ。罪はない。


「この部屋を出て、左に真っ直ぐ行った突き当りよ」

「無理。動けない。もうだめ。洩れる。ごめん」

「ちょっ、ちょっとだけ我慢して! 今すぐ壺かなんか持ってくるから!」


 最悪の事態は免れた。ミレイユは心を無にして処理を終えると、手を念入りに洗い清めてから客間に戻った。

 ひどく疲れていた。精神的な消耗度で比べれば、災魔を封じた時より上かもしれない。


 片やジョッシュはたいそうすっきりした表情だ。まさか仮病じゃないだろうなとひっそりと殺意を抱くが、魔法的な眼を開いて調べれば、体内の生気の不足がはっきりと見て取れる。その中で一箇所だけ精気が妙に活性化しているのは、まさしく少し前にミレイユの手が触れた部分だ。かっと頬が熱くなるのを意識する。


「おかげで気持ち良く出せたぜ。ありがとな、ミレイユ」

 爽やかにジョッシュが笑う。たぶん本当に感謝しているんだろう。ミレイユは荒ぶりそうな感情を抑えつけた。


「気にしないで。あんたはまだ半死人みたいなものなんだし、しょうがないでしょ」

「でもさ、お前初めてだっただろ?」

「な、なにがよ」

「見たり触ったりするの。男のチン……」

「それ以上言ったら引っこ抜く」


     #


 ジョッシュの回復は順調だった。もとよりミレイユの治癒魔法は十全だったし、未だ成長期にある肉体は生命力の吸収も旺盛だ。猟師や樵の仕事で鍛えられていたこともいい方向に作用したに違いない。目を覚ましてからほんの二日後には、ジョッシュはもうかなり自由に動き回れるまでになっていた。


「ただいまーっと。それにしても本当に森の中だな。どっち向いても木しか見えない。よくお前みたいなちびっ子が一人で暮らしてられるよ」

 散歩から戻ったジョッシュが、居間へ入るなり半ば呆れた素振りで首を振る。


「だからちびっ子ゆうなし」

 ミレイユは羽虫がぶつかったみたいに顔をしかめた。文字通りの命の恩人に対して敬意に欠けること甚だしい。小柄な体を精一杯そびやかし、無礼者に自分の凄さを知らしめる。


「あんたにはとうてい無理でしょうね。知っての通り、この辺りには人喰いの魔物も出没するし、並の人間じゃたどり着くのも難しいわ。でもこのあたし、暁の魔女様にとっては造作もないこと。行く手にどんな困難が立ちはだかろうと、魔法でたちどころに解決よ」


 ふふんと決め顔を作ってみせた直後、後悔が大波となって押し寄せる。

 しまった。自分で正体をばらしてどうする。ジョッシュがあんまり生意気なのが悪い。魔法で記憶を消すことも一応できなくはないけれど。


「な、なーんてね。いくらあんただって、〈暁の魔女〉ぐらい知ってるでしょ? ほら、あたしの名前もミレイユだからさ、もしかしたら信じるかなーって……」

 ミレイユの声がどんどん先細りになっていく。ジョッシュの視線がなんだかやけに生温かい。


「もちろん信じるさ。夢を見たい年頃だもんな。ちっとも恥ずかしくなんかないぞ」

 片目をつぶり、親指を立ててくる。ミレイユは精神に深刻な打撃を被った。

「ほ、本当なんだから! あたしは世界最高にして最強の魔法使い、〈暁の魔女〉ミレイユ・ブランなの!」


「大丈夫、おれはちゃんと分ってるからな。よく世界を救ってくれた。さすがミレイユだ、偉いぞ」

「もうーっ、むかつくーっ!!」 




 ミレイユほどの魔法の使い手からすれば、森は天然の食料庫みたいなものだ。鳥でも獣でも狩るのはたやすいし、美味かつ体にいい果実やきのこの採集にも苦労はしない。一部の調味料等、遠方に行かないと入手できない品も中にはあるが、ときたま魔法でひとっ飛びしてくれば用は足りる。


 料理だって慣れたものだ。さすがに指を一振りするだけで出来上がりとはいかないまでも、火を通したり皮を剥いたり捏ね回したりといった個々の作業は魔法で楽々こなせてしまう。


「ごちそうさま。今朝もうまかった」

 パンにスープに卵料理という型通りの献立だったが、ジョッシュはいつもの通り満足そうに頬を弛めた。


 ミレイユとしても悪い気はしない。森の奥にひとり引きこもって以来、料理はほとんど唯一の趣味にして楽しみだ。自分の好みに応じてあれこれ工夫するだけでも面白いが、他の人から客観的な評価が得られれば、さらなる向上の意欲に繋がる。

 もっともジョッシュは何を食べてもうまいうまいと喜んでくれるので、あまり参考にはならなかったりする。


「よし、腹ごしらえもできたし、これから帰るよ」

「あっそう、帰るの……え、帰る? 帰るって、どこに?」

 初め適当に聞き流しかけたミレイユは、ジョッシュの顔をまじまじと見返した。


「自分の家に決まってるだろ。もう体調もばっちり元に戻ったからな。むしろ前より調子いいぐらいだ」

 全部お前のおかげだな、とジョッシュは素直にありがたがる。ミレイユは刹那息が詰まるのを覚えた。

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