第14話 やめられない恋

 憲司けんじはいささか苛立っていた。約束の時間はもう三十分以上過ぎている。トールサイズのコーヒーはまだ半分ばかり残っていたが、今さら口をつける気にもなれない。

 スマホを見る。新しいメッセージは入っていない。こっちから送ろうかと思い、だが急かすのも気が引けて、スマホを置く。ひたすらそんなことを続けている。


 カフェの扉が開いた。期待半分で顔を上げた憲司は、こわばっていた頬をやっと緩めた。

「ごめん、憲司、少し遅れちゃった」

 少しか? 思ったが、呑み込む。謝っているのだから、無駄に空気を悪くすることはない。


「いいよ。だけどもうすぐに出ないと、上映時間に間に合わなくなる」

 実のところ憲司は大して見たくもなかったのだが、彼女のリクエストだ。チケットも取ってある。


「うん、ごめんね」

「急げばまだ大丈夫だって。行こう」

「行けないの」

 かぶりを振る彼女に、憲司は嫌な予感を覚えた。


「どうして。急用?」

「違う。憲司とはもう行けないってこと」

「俺とはって、どういう意味だよ」

「わたし達って合わないと思う」

 理も非もない。なのに説得力だけはあった。


「そういうことだから」

 彼女が扉の向こうへ消えてから、憲司はようやく腰を浮かせた。とにかくもう一回話をするべきだ。


 ふいに横からの視線を感じた。隣のテーブルからだ。顔を向ける。見知らぬ女と目が合った。

 少しして、女は自分のスマホに視線を戻した。憲司も女から顔を逸らすと、くたりと椅子に尻を落とした。もはや彼女を追い掛ける意思は失せていた。再び店の扉が開くのを、ぼんやりと眺めやる。


 緩いウェーブのかかった茶髪の男だった。目鼻立ちはそれなりだが、軽薄な感じが強い。ざっと店内を見渡すと、憲司の隣のテーブルに目を留めた。ことさら余裕めいた足取りで、女の元までやって来る。


「悪い。待ったか?」

「わりとね」

 女はスマホから顔を上げない。男は鼻柱を指で弾かれたような表情を浮かべ、しかし気を取り直したらしく、女の向かいの席へ座った。


「それで話って?」

「別れるわ」

「……は?」

 男はぽかんと口を開けた。女はスマホをバッグにしまうと、今になって正面から男を見た。


「じゃあね」

 女はテーブルの上の伝票を取り上げた。男は為す術を知らないかのようだ。

 憲司は男に同情しなかった。そんな余裕はどこにもなかった。


     #


 どんよりと曇った空の下、周りを行き来する人の流れは鈍かった。駅ビルの壁に寄り添って立った晴奈はるなは、電話の相手に向けて苦いため息をつくのをこらえた。

「もう会わないって言ったはずよ。あなたとは終わったの」

 抑えた調子で通話を切る。二人に先はない。さすがにもう理解しただろう。


 この彼とは一ヶ月と少し続いた。晴奈にとっては平均的だ。前の茶髪ウェーブより誠実で、その代わり面白みは少なかった。

 これまで幾人もとつき合ってきた。しかし晴奈は未だに自分に合った相手というのがわからない。


 いささか沈んだ調子で歩き出そうとして、晴奈は自分を見ている男の存在に気付いた。どこの誰かは知らない。だが顔には覚えがあった。

 晴奈が茶髪ウェーブを振った時、隣のテーブルで彼女に振られていた男だ。向こうも晴奈のことを記憶にとどめていたらしい。


 小さく着信音が鳴り始める。晴奈は眉をひそめた。一瞬、元カレがしつこく掛けてきたのかと思ったのだ。だがすぐに自分ではないと気付いた。着信音が同じだったせいで勘違いしてしまった。振り返る。さっきの男だ。スマホを耳に当てている。


「はい。どうした……え?」

 案じるような口調、それが一転して高くなった。

「待てよ、そんないきなり!」


 暫し唇を噛み締めたのち、男は力なく腕を下ろした。長いため息をつくと、ジャケットのポケットにスマホを突っ込む。

 睨まれた。晴奈に悪気はなかったが、確かに男にすれば面白くないだろう。

 晴奈はそっと視線を逸らすと、周りを行き交う人の中にまぎれ込んだ。


     #


 気取った料理はいまひとつ性に合わない。

 憲司は自分のためならまず出さない額の会計を済ませると、彼女を伴って店を出た。

「はぁ、おいしかったぁー。さすがは三ツ星レストランって感じですぅー。これで今夜はもう思い残すことはないかなぁー」


 いつも以上にテンション高めな様子の彼女に、憲司も大きく笑みを浮かべてみせた。相手は会社の後輩でもある。少しぐらい懐に無理がかかったとしても、鷹揚に振る舞わねばならない。


「喜んでもらえて良かったよ。このあとはどうする? 軽く飲んでくか?」

 明日は休みで、夜はまだ長い。静かめのショットバーにでも入り、程良く酔ったらそのあとは……。

 憲司としてはほぼ決まった流れのつもりだった。だが彼女は迷う素振りもなく首を横に振った。


「やっぱり帰りまーす。どうもごちそうさまでしたぁー。あ、センパイのことは嫌いじゃなかったです」

 パンプスがアスファルトを踏む音が遠ざかる。


「……なんだよそれ」

 憲司は夜の底に縫い留められたみたいに立ち尽くした。唐突過ぎる幕切れに、怒る気持ちさえ湧いてこない。

 向かいの店の前にいた男女の二人連れが、憲司から視線を逸らせた。


 晴奈は、名も知らぬ男から自分の今の彼へと向き直った。

「すごくおいしかったわ。ごちそうさま」

 率直な感想だった。料理に罪はない。彼もわざとらしいほどの勢いで同意する。


「本当、うまかったっすよね。奮発した甲斐がありましたよ。量は自分にはちょっと物足りなかったっすけど」

 体が大きく、いかにも若い。誰はばかることもない肉食系だ。ベッドの上でも。


「このあととかってどうします? まだ平気っすよね?」

 こちらの都合を訊いているようでいて、ただ自分の期待を押し付けてくる。悪い子ではなかった。だけどもう十分だ。


「帰るわ。ごめんね」

「え」

 初め驚いた顔をした彼は、すぐに目元を険しくした。晴奈の思いはしっかりと伝わったらしい。

 彼は怒りを隠そうともせず、晴奈を置き去りにしていった。胸に残ったわだかまりを、吐息と共に地面に落とす。苦いカクテルが欲しかった。


 細い通りを挟んだ向かいには、まださっきの男がいた。晴奈が見る度に振られている。

「……次は上手くいくといいわね」

 別に話しかけるつもりなどなかった。しかし独り言にしては声が大きくなっていた。


 男はまるで横っ面を張られたみたいな顔をした。

「あんたにだけは言われたくない」

 そう、晴奈はいつも振る側だから。自嘲の笑みを浮かべそうになったのを、下を向いて晴奈は隠す。


 相手は名も知らぬ女だ。憲司に八つ当たりの自覚はあった。だがささくれた感情は止まらなかった。

「あんたさ、いったい何人振れば気が済むんだよ?」

「そっちは何人に振られたら気が済むの?」

 ひどい言い草だと、晴奈は思った。

 こっちが知りたい。憲司は思った。


「ねえ」

「なんだよ」

「私達、つき合おうか」

 振ってばかりいる女と、振られてばかりいる男。何度だって同じことを繰り返せる。二人は同時にそれに気付いた。


(「やめられない恋」 了)

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