第5話 初夏色ブルーノート

 頬杖をついていた左手が熱い。別の曲に変わっても、残響を抱き締めていた。復元できなかった音色と、途切れ途切れに聴いてきた抑揚が絡み合う。

 智昭と関わりが少しでもあるのなら、彼が完成させた曲であってほしい。自分と過ごした時間が無駄になることだけは嫌だった。夢の回り道をさせたのではないかと後悔の念が押し寄せる。

 カフェの一角で、大人になった明子は唇を噛む。


 自分が好きになったものは、遠からず離れていく。初恋もその一つだった。智昭の夢が叶うまで一緒にいられると、思い上がった罰だ。才能が開花するまで見届けられる権利を、早々に譲渡する羽目になった。好きな人が頑張る姿を、純粋な気持ちで応援できなくなった。


 だから、結婚相手は嫌いなことがあっても許せる人を選んだ。智昭への未練はない。明子は左手の薬指を撫でた。


 未練を感じたとすれば一度だけ。彩と別れたことを知ったときだ。


「明子パイセンを手放した報いっす」

「私は気にしていないから。でも連絡ありがとう。茉莉奈」


 電話の向こうで、くぐもった歓声が聞こえた。


 名前を呼ぶことが、こんなにも喜んでもらえるなんて。中学時代は、呼び方で相手を縛り付けることを恐れた。


 智昭にも名前で呼んでいたら、恋歌の収め方を変えられたのかもしれない。当時は、一方的に別れた智昭と、人の彼氏に手を出した彩を恨んだ。音楽を恨んだ。文化祭の出し物で、強制的に智昭のソロパートを見るときが苦痛だった。だが、目を逸らせばステージ上の彩の思うつぼだ。


 明子ちゃん、強いね。失恋したのに髪切らないの、ウチなら考えられないよ。どれほど無視しても、クラス替えがあっても彩は絡んできた。智昭と別れた明子に勝ち目などないのに。腰まで伸ばしたままの髪を嘲笑い、智昭に尽くす今カノを主張した。


 廊下を歩く度、弾んだ声に追われる気がした。背を向けたはずの思いに縋りたくなった。明子は俯くことを処世術に選び、人の影に隠れた。何年経っても染みついた癖は抜けない。人気者の圧でよそよそしくなる、傍観者の勝手さなんて知りたくなかった。


「どうして時間を巻き戻せないんだろう」


 彩が智昭を狙っていたことを知っていたら、明子は彼の手を振り払った。あの日の演奏に絆されなかった。


 涙が頬を伝う。掴み損ねたナプキンが花びらのように散った。慌てて床に手を伸ばそうとして、スカートの裾に足を取られる。


「どうぞ」


 隣の人がナプキンを拾い、明子の座るテーブルの隅に置いた。綺麗なものと区別がつくよう、折りたたむ様子に感心する。明子は涙を拭いて会釈した。


 白髪交じりの長髪が無造作に束ねられていた。リネンの黒スーツに、ワインレッドのネクタイが映える。華やかなドットの中に音符が顔を出していた。

 男性は咳払いをした。低い声にどきまぎする。


「先ほどの曲に聴き入っていましたね」 

「えぇ。とても懐かしくて。でも、題名は分からないんです」


 曲を作ることに熱中して、未来の話はしなかった。これからも二人で歩んでいくと、信じてやまなかった。


 目を伏せた明子に男性は話し出す。


「菅原智昭の『初夏色ブルーノート』。家族のように過ごせた初恋の方に、思いを込めて書いたそうですよ」


 男性は、新聞記事の受け売りとはにかんだ。青色のノートを鞄にしまい、店内を後にする。


 明子はテーブルの隅に目を留めた。一枚だけ折られていないナプキンがある。引き寄せると、ボールペンで文章が書かれていた。


『彩から聞いた。一度でもきみを疑ってごめん。死んでも償いきれない。展覧会のイベントの打ち合わせ前、ここに寄って良かった。宝物のような日々を伝えられたから』


「智昭!」


 明子は勢いよく立ち上がる。後を追おうとしたが、声に驚いた店員とぶつかった。


「ごめんなさい。知り合いがいて」


 レジに視線を向けると、智昭の姿は消えていた。


 背伸びした音から中学時代の青さに戻してよ。


 明子は力なく椅子に沈み込む。水滴が流れるグラスを一気に飲み干した。


 口の中で広がるのはコーヒーの苦さじゃない。美術館を出た後、思い出のメロディーがこぼれ落ちる。


「直接言えない僕を許して」


 明子の選んだフレーズに、歌詞を付けてみた。おどけた智昭の声と重なった。

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初夏色ブルーノート 羽間慧 @hazamakei

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