初夏色ブルーノート
羽間慧
第1話 追憶の音色
感動の溜息が展示室を満たしていた。この絵は何を表しているのかしら、好奇心に目を輝かせる婦人のそばを擦り抜ける。
喉が燃えるように疼く。明子は館内のカフェに入り、アイスコーヒーを頼んだ。
「あなたの絵を、見てきましたっと」
スマホを置いて窓ガラスを眺める。中庭の杜若が見頃だ。
最優秀賞の知らせを聞いて、ようやく会場に行く決心がついた。明子が気に入ったものは例外なく不運に遭う。俳優、テレビ番組、連載漫画、コンビニおにぎり。姿を消した喪失感は自分だけが抱えればいい。彼氏の才能が認められない不運を呼び寄せたくなかった。個展や絵を売り出すチャンスに同行したことはない。錫婚式を迎えても、意志は固いままだった。夜勤明けの妻に、夫が誇らしげに朝刊を見せるまでは。
実物を見たいと思った。しなやかな青竹の林を見上げ、首の痛みを忘れるまで立ち尽くし、無心に至りたい境地が張り付いていた。
シャワーを浴びて、明子はオフホワイトのマキシワンピースに袖を通す。急な外出に夫は動じることなく、ラップサンドの入った保冷バッグを渡した。
常設展示を見て本命を鑑賞したというのに、既読はすぐについた。奥さんの意見をぜひ聞かせてほしい。
明子に感想を求めるのは美大のころからの習慣だ。他人にないもので溢れていると、平凡な答えを繰り返してきたのに。媚びない後輩を気に入り、モデルに指名した。熱意は冷めることなく、こうして仕事の合間に返信をくれる。
今日だけは浮かれていいよね。浅葱色の抽象画に思いを馳せた。触れた指先にしっとりとした鱗粉がつきそうだった。
音楽がオルゴール調からジャズに変わる。サックスの音色は柔らかく、蚤の市の掘り出し物のように古びた感触がある。カーテンを引く鋭い響き、洗濯機で回る水のうごめき、何気なく聞く音さえもアクセントになっている。
――ブルーノートはスパイスと同じ。どんな曲でも魅力を引き出せる。ただ、半音上に戻さないといけない。多用すると、無理して背伸びした人になっちゃうんだ。
昔、音楽にうるさい男から教えてもらった。
ひもじい食生活に気付かないほど、曲作りに青春を捧げた人だった。「健康志向のスムージーに何の問題が」と問われ、明子は胃が痛くなった。
鍵っ子のよしみで料理を振る舞う明子と、課題の休憩にサックスを吹く智昭。
二人きりで出かけたことはなくても、彼の家で過ごすだけで幸せだった。
氷の揺れる音が現実に引き戻す。深い琥珀色と向き合えば、後ろめたさを忘れられる気がする。
「それではごゆっくり」
店員に笑みを返したが、長居するつもりはない。明子はグラスに口を付ける。タイムセールや塾の送り迎えが残っていた。
この曲は知らない。彼が奏でた曲の面影を感じたのは偶然だ。だが、胸の高まりを抑えられない。明子は鼻歌でメロディーを追っていた。
心地良くなぞっていた音色をサビの直前で手放す。
「明子の案を採用する」と彼が聞かせたフレーズに、明子はドキドキした。中学二年の夏が心を埋め尽くす。
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