第2話 軽快に速く
「板書写すの早いね」
明子は智昭のノートを返しながら言った。
社会の授業は楽しいのに、解読に難航する板書が頭を悩ませる。ただでさえ、進級して授業についていくのがやっとなのだ。空白だらけのノートは復習の手掛かりにすらならない。休み時間ごとに別のクラスの友達から借りる訳にはいかず、遅筆に焦りを募らせる。
一方、智昭は達筆な上に、先生の話の要点も隅に記している。同じ名字、それも学問の神様のものという事実が恥ずかしい。
「菅原くんに頼んで正解だったよ。いつも休み時間にノート整理をしてるから」
前に向き直ろうとした明子に、智昭が声を掛ける。
「もしかしてアイデアノートのことを言ってる?」
智昭は書きかけのノートを見せた。青い表紙には、筆記体でBlue Noteと綴られている。
思春期は異界の力に目覚めたり、盟約を結んだりするお年頃だもの。名付けに驚きはするけど、変わっているとは思わないよ。
明子の温かい視線に、智昭は眉をひそめた。
「痛い奴じゃないからな。曲作りしてるだけ」
「ブルーノートって、青いノートじゃなかったの?」
そこまでネーミングセンス悪くないぞ、と智昭はツッコんだ。
ブルーノートというレーベルのこと、ギターで弾くと独特の渋みが出る手法のこと。音楽に疎い明子でも分かるように話す。
授業中はグループワーク以外で智昭の顔を見ることはない。笑ったときの表情が新鮮だった。
馴れ合いを拒絶するような目をした自己紹介が印象的で、明子から話し掛けたのは初めてだ。好きなものを語る智昭が、遠い存在と感じる気持ちは薄くなっていた。手の側面が黒くなるほどスケッチブックに齧り付く自分と重ね、明子は声を上げて笑った。
「あ、予鈴だ」
話の山場で総務委員が黙想を呼び掛けた。悲しそうに俯く智昭に、明子は「また後で聞かせてほしい」と頼み込む。
僕の話で良ければ。智昭は控えめに微笑んだ。
聞かせてとは言った。けれど、智昭の家でサックスを聴くと約束した覚えはない。
当日に誘うなんてどうかしている。明子の言い分は、実際に聴いた方が分かるという主張に敗れた。ブルーノートがどんなものか、好奇心を抑えられなかった。
明子の親の帰りは日付が変わった後だ。その前には帰ること、護身のために智昭が送ることを条件に出した。
部活終わりに昇降口で待ち合わせ。よくよく考えればデートではないかと思う。頑張って板書を写す後ろ姿に惹かれたのか。誘われた理由を想像して、授業もデッサンも上の空になる。
「ごめんね。遅くなっちゃって」
明子が昇降口に着くと、智昭は手持ち無沙汰にラジオ体操をしていた。
奇行に耐性がある美術部員は、穏やかに下校していく。明子は話題が思い浮かばずに唇を噛む。普段そばにいるはずなのに、人格を中々理解できそうにない。
「明子パイセン、この人とお付き合いしているんですか?」
いつも一緒に帰る後輩は、明子の手を強く握る。今年の仮入部期間に十七人から告白された優良物件っすよ、とまくしたてた。
情報量の多さに理解が追い付かない。交際を否定する前に、後輩はサムズアップする。
「じゃ、空気の読める後輩は退散します。存分にいちゃいちゃしてください!」
陸上部並みのスタートダッシュだ。明子は額に手を当てる。大人しいと思っていた智昭は行動が読めない、相当モテるときた。人見知りの明子にとって、攻略難易度は高い。
ううん、恋人を期待しては駄目。友達としてふるまわなきゃ。
智昭が付き合っている話は聞いたことがない。告白を全て断るほど、音楽が好きなのだろう。
いびつに見えないように愛想笑いを浮かべる。
「悪い子じゃないのよ。風景画の描き方をアドバイスしたら懐いちゃって」
しゃべりながら漫画を書く後輩は、部室の集中力を掻き乱す。どんな雑音でも作業に没頭できる明子が、お目付役に任命されたのは自然な流れだ。口数の多さに辟易したが、勢いよく描き上げる姿勢は好感が持てた。絵に吸い込まれるように顔を近付け、キャラクターを動かす熱意に嘘はない。明子は、人物が浮く背景に不満の絶えない後輩を見かね、構図や明暗について教えた。気軽に指摘をした結果、神格化されるとは思わなかった。パイセン呼びは慣れないが、姉御よりは受け入れられる。
後輩の代わりに謝る明子に、智昭は「まるで忠犬だな」と苦笑した。従順で愛嬌のある性格は、豆柴を想起させる。
「そうだね」
明子は頷く。それきり話題が思い浮かばず、家に着くまで互いに無言を貫いた。時間が経つにつれて自分から話すべきか焦るものの、居心地は悪くなかった。家の鍵を取り出しながら智昭は尋ねる。
「なぁ、緊張してる?」
「そ、そそそそんなことないし。お母様は夜勤で、お父様は出張なんでしょ。二人きりなら気楽よ」
男の子の家はおろか、友達の家にも行ったことはない。
そう告げたら「彼氏の家が初めて行った場所になるんだな」とぼやかれた。瞬きをする明子に智昭の瞳が揺れる。
「菅原、僕と付き合ってほしい」
初めて聞いた告白の言葉は、お気に入りの皿を落としたような気持ちにさせた。
後輩の言葉を真に受けたんだ。明子は嬉しさを受け取れずにいた。
「あの子の誤解なら、明日ちゃんと解くから。同情なんかで告白されても喜べないよ」
「サックスのためのオリジナルの曲」
智昭は明子を見つめた。今日一番の距離の近さだ。
「ただ綺麗なメロディーじゃ満足できない。ブルーノートを使った曲を作るんだ! そんな目標を部員に話しても、無謀だの現実的じゃないだの非難の嵐だった。そもそも中学生のガキに作曲なんてできる訳がないってさ」
でも、きみだけは違った。僕の夢を応援すると言ってくれた。
智昭の声に萎んだ恋心が燃え上がる。誰かにとって特別な存在になれることが、泣き出したくなるほど嬉しかった。ただ、もう少しだけ分かり合える時間がほしい。
迷いを読み取ったように、智昭はウインクした。
「答えはすぐに出さなくて良い。僕のサックスで判断して」
明子を家に招き入れた。
麦茶とドーナツを出した優しい表情と、運指の確認をするときのギャップが堪らない。ブルーノートを理解するという目的を忘れそうだ。
「それでは演奏を始めます」
智昭は一人きりの観客におじぎをした。演目は明子が知っているドラマの主題歌だ。テンポがよい曲調の中に、しっとりとした雰囲気も混ざっていた。
好きな曲をあえて頼まなかったのは、智昭が夢中になるブルーノートを聞き分けたいからだ。
ゆっくり歩くようなメロディーが明子を包み込む。手を大げさに叩き、体を揺らしたくなる。
陽気な世界観に引き込ませた音はかすれ出し、哀愁を帯び始める。
棚に置かれたボトルの数々、出番を待ち焦がれているグラスの輝き、いらっしゃいませと渋い声で迎えるマスターの風格。照明が醸し出す大人の隠れ家を想像した。
懐かしい響きに肩の力が抜けていく。
バーカウンターに突っ伏して現実を忘れたい。そんな嘆きと、酔うことを許された喜びが同居する。お酒の味なんて分からないはずなのに、明子の心は弾んでいた。
これがブルーノートを使ったアレンジなのか。
明子は魅せられた。わずかなズレで歪んでしまう美しい世界に。
「ご静聴ありがとうございました」
拍手をやめない明子に照れながら、智昭は答えを促す。
「これでも信じられない?」
明子は首を振った。
智昭の聴かせてくれる音色を信じたい。音楽が流れている間だけ、唇を重ね合わせたような感覚があった。
「あなたの作る世界をそばで見たい」
熱意を形にするまで、彼女として支えてあげたい。
勢い込んで話すと、智昭も嬉しそうに声を張り上げた。
「任せとけ。後悔させねぇから」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます