第3話 哀歌のかけら
存分にいちゃいちゃして、と励まされた恋路だった。
だが、明子と智昭は多くを求めなかった。手繋ぎもキスもいらない。一緒の時間を共有できれば、別の行動をしていても不満は生まれなかった。にわか雨で洗濯物を取り込む明子を横目に、五線譜と格闘していたとしても。智昭のサックスを作業用BGMとして聴いていても。
音が二人をまとめていった。休符に意味があるように、沈黙さえも意思疎通が取れていた。洗った食器を片付けている間、明子はリビングを盗み見た。パソコンのソフトで曲を作る智昭は、どんな絵画よりも輝いていた。
「明子パイセン! 多少わがままになっても罰は当たらないっすよ~」
後輩は芝生に寝転がりながら手足をばたばたさせる。グラウンドのスケッチは進んでいない。
横で花壇を描いていた明子は、小さく頭を下げた。
「ごめんね。のろけ話を聞かせてあげられなくて」
「ん~、優しい明子パイセンがもっと柔らかくなったのは収穫なんです。ただ……」
後輩はためらいながら話した。
「智昭パイセン、吹部以外からも告白されていたんすよ。明子パイセンと付き合ってからは頻度が少なくなって。だから、明子パイセンを女避けに使ってないか心配なんすよ~!」
消しゴムがけの手に力が入る。剥がれた紙が、心の痛みを肩代わりすればいいのに。
智昭は恋愛遍歴の話を嫌がっていた。渡り廊下で告白される姿を見たとき、明子がフォローした言葉を拒絶した。「告白されるぐらい魅力があって好き」なんて嘘はいらないと。
モテる反面、愛情を向けられることが怖いのではと思う。がむしゃらにサックスを吹いているだけで、見ず知らずの人を惚れさせる。明子を苦手な女避けにしたと考えたことは、一度ばかりではない。
智昭の困惑する気持ちは分かる。集中して筆を走らせているときに告白されても、うっとうしく感じてしまいそうだ。ほしい色をパレットで作る高揚感は、自分だけの楽しみにしたい。
明子はサルビアの陰に埋もれるビオラを見つめた。
「でもね。私は智昭みたいに、なりたいものも目指したい目標も持っていないの。そんな私を恋人に選んでくれた。智昭の私に対する気持ちは、恩とか偽善じゃないと思う」
智昭のことを考えるだけで、今も顔が熱くなる。GWが空ける前は、ただのクラスメイトと付き合うことになるとは思わなかった。智昭の言葉に押される形で交際したが、この一ヶ月は最高の時間だと胸を張れる。一人の食事が普通だった明子にとって、フライパンを握る手が軽くなるのは初めてだった。
黙っていた後輩は「執着攻めに掘られればいいのに」と呟いた。
明子は息をつく。智昭への呪いが小声で良かった。学内に響けば収拾がつかなくなる。だからこそ背後から声が聞こえたときは、絶叫を呑み込むのに必死だった。
「明子ちゃん、話があるの」
「カップリングの話は後輩を差し出すので、見逃していただけませんか」
明子はハンカチで汗を拭きながら動揺を抑える。布教できるなら全力でプレゼンするっすと、笑顔の後輩は放置しておく。
「カップリング? よく分からないけど遠慮した方がいいのかな」
クラスメイトの豊川彩は小首を傾げた。ふんわりしたボブと低身長が庇護欲をかきたてる。譜面台と楽器ケースを抱える様子は、女子でも手伝いたくなった。
今までの彩のイメージが変わりそうだ。同じ文化部だが、彩と話した回数は多くない。誰とでも距離を縮めようとする遠慮のなさに、明子は気後れしていた。
「智昭、最近練習にやる気がないんだぁ」
彩は物憂げに上目遣いをした。
担当の楽器が違うのに心配してくれるなんて、仲間思いの優しい子だ。男子が可愛いと絶賛するのも納得できる。
荷物を置いて、彩は腰に手を当てる。
「明子ちゃん。智昭と付き合うなら、真剣に交際してくれなきゃ困るよ」
「うん。もっと大事にするね」
妹にほしい育ちの良さだ。微笑ましさに頭を撫でたくなる。彩は爪先立ち、明子の耳元で囁く。
「智昭、ウチのものになっちゃうかもね」
「えっ? それは、どういう意味?」
聞き返したときには、満面の笑みで去っていた。摘み取られたビオラの花がらが芝生に転々としている。後輩は明子が動揺する理由が分からず、明子と彩の方を何度も見つめた。
膝の震えが止まらない。不穏な未来を回避できますように、と祈らずにはいられなかった。
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