第4話 心から、熱烈に

「きゃあ!」


 体育後の教室に黄色い声が響く。

 彩は両手で顔を覆っていた。視線の先は智昭の背中、素肌に張り付いたシャツだった。


「こら! アンダーシャツ着なさい!」


 明子は彩と智昭の間に割り込んだ。


「やだ。バスケで走り回ったから暑い」

「公共の場で貧相な体を晒さないの!」

「僕のおかんか!」


 呆れる智昭を引っ張り、廊下に出た。人目のつかないところでタオルを渡す。


「背中拭いて。めんどくさがって着たから、シャツが透けて豊川さんに絶叫されたんだよ」

「肝試しのおばけを演じた訳じゃないのに」


 肩を落としたいのは明子も同じだ。宣戦布告から一週間、彩が智昭といる回数が増えていた。来月の大会に関する連絡事項だけではなく、前髪切ったのうふふなどと話している。丁寧に応対する智昭も、すり寄る彩の思考もまともではない。


 席替えで智昭と離れたが、心の距離は遠ざかっていないはずだ。本当に愛しているのなら、せめて彼女の見えないところで彩と接してほしい。


 智昭の心変わりが怖かった。昨夜のお家デートは、サックスを初めて吹かなかった。すごく眠いと言った智昭に、明子は「膝枕していい?」と申し出た。


 プリーツスカート越しに感じる体温、髪を撫でたときの感触。智昭の寝息を聞きながら、明子はキスしたい衝動に駆られた。


 恋人らしい時間を、二人だけの思い出をもっとちょうだい。


 智昭の頬に吸い寄せられた唇は、鼻先近くで止まる。


 二人は下の名前で呼び合わない。曲を完成させることが共通の幸せだった。作曲に集中させたいと願うなら、私のよこしまな感情は捨てた方がいい。

 智昭のあどけない寝顔に、本音が口をついた。


「曲ができるまで我慢するから、その分だけ愛してよ」


 明子は机に置かれたアイデアノートを手にする。最後の真白なページに唇を押し当て、溢れそうになる涙を堪えた。こんな姿は智昭に見せられない。


 今も目が潤みかけていた。黙り込む明子に、智昭は明るい声を上げる。


「もしかして、僕の着替えに興奮した?」

「ち、違うから」


 寝ている間にキスしようとしたとは言えず、明子は勢いよく首を振る。


「ふーん。タオルありがとな。僕は理科室の担当だから、もう行くよ」

 

 素っ気ない返事に胸が痛むが、いつまでも落ち込んではいられない。明子は掃除場所の教室に戻った。下げられた机にタオルを詰める。


「明子ちゃん遅いよぉ。机、もう動かし終わったよ?」

 

 関わりたくない彩が近付いてくる。無理に頬を動かすと歪な笑顔になりそうだ。

 明子はごめんと返す。苛立ちを出して相手が喜ぶ姿は見たくない。口角を緩めながら雑巾を持った。


「床拭きじゃなくて、ゴミ捨てを頼みたいな」

「分かった。いってくるよ」


 彩と距離を取れるなら好都合だ。明子はゴミ箱を持って倉庫に向かおうとした。


「この表紙……」


 燃えるゴミの一番上にあった、青い紙片が明子の視線を離さない。表紙に使われる厚手のものだ。

 手を奥に突っ込んで広げると、見慣れたレタリングが細切れになっている。別の紙片には音符がぎっしり詰め込まれていた。


「明子ちゃん、怖い顔してどうしたの? 掃除時間終わっちゃうよ」

「まさか、あなた……」


 問い詰めようとした明子に、彩は悲痛な声を上げる。


「ウチに嫉妬して、犯人に仕立て上げようっていうの? そんなことする人なんて思わなかったよう」

「豊川さん。何を言っているの?」


 智昭が大事なノートを破くとは思えない。明子に相談して決めたフレーズも多くある。

 

 言いがかりはよしてほしい。懇願する明子を前に、彩はしゃくりあげる。


「友達だと、思っていたのに」


 二人の周りの空気が冷えていく。


「菅原さんサイテー」「何が起きてるの?」「智昭のノート破ったんだって」「恋愛のもつれ怖っ」と明子に向ける視線が交錯する。


 彩のそばにいれば分かる。目元を隠す手が濡れていない上に、眉全体が引き上がっている。明子を貶めようと感じるのは、気のせいなのか。


 ゴミ袋を掴み、明子は教室を出る。ノートの断片を探す方が先決だ。


 逃げた、図星かよ、彩ちゃん大丈夫なの、囁きにかまけていられない。倉庫まで駆け出した。


 みんなが彩の肩を持つ理由が分からない。明子の肺はようやく新鮮な空気を取り込んだ。


 芝生の上に紙ゴミをぶちまける。目当ての欠片をより分ける明子に、通りかかった顧問がぎょっとする。事情を話すと一緒に探してくれた。


「お前には、野心がない。他人の才能を潰してでも叶えたい欲望を持っていない。草むらだけで絵にしちまう、描写の優しさがその証拠だ。菅原くんも分かってくれるよ」

「信じてほしいです」


 もとの形には戻せないが、直筆の可能性があるものは回収した。明子は顧問に一礼する。職員室で古封筒をもらい、教室に入った。


 終礼前の喧噪がやむ。総務委員の声かけなしに静まることは稀だ。明子は背筋を伸ばし、彩と話し込む智昭に封筒を渡す。


「ごめん、ちゃんと復元できなくて」


 智昭は振り向いた。初めて見る表情に寒気が走る。


「豊川に謝れよ。彼女に罪を着せるのはお門違いだろ」


 頬杖をつく彩と目が合う。少しも悪びれずに、赤くない目元を晒している。

 明子は震える声を絞り出した。心臓の音が耳障りで、きちんと通じているか分からない。


「私じゃない。嘘をついていない。だから」


 話を聞いて。ノートが捨てられた経緯を調べさせて。


 明子の訴えに、教室がどよめく。実は彩が仕組んだのではないか、ひそひそと憶測が上がる。首をもたげた希望は、智昭によって打ち砕かれた。


「もう話し掛けないで」

 

 好きだった人と交わした会話は、それきりだ。

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