完全無敗のトラブルメーカー

草森ゆき

出会い編


 プロットは死んで、主人公は死ななかった。

 もっと正しく記すのであれば、プロットは死んで、主人公は生き延びた、になる。


 夏だった。それも飛び切り暑い年で、安普請のアパートは丸ごと蒸し焼きにされていた。夜ですら温度は下がらず寝付けない上に小説を書くなど愚行の極みに思えてくるし、湿度も高いために干からびるというよりは燻製になるというか、肉まんなどはこのようにして蒸篭の中にいるのだろうと心情を理解してしまうような暑さで、それはすなわちさっさと窓を開けろ、になるわけだが不可能だった。そもそも動けなかった。目の端には揺れる紫煙、窓越しの月明かりの元、銀色に光る灰皿に積もった吸殻の数、俺の好きな銘柄ではない、安いだけの不味い煙草、布摺れの音の後にはじりじりと煙草が燃える音が響いた。

「まあ、ちいと待て」

 呑気に煙草を吸う男は言う。部屋は暗いが、月光により男の輪郭はなんとなく見える。肩にかかった長髪は特別整えられておらず、面倒で散髪しない印象を受ける。顔立ちはよくわからない、低く響く声は奇妙なほど耳に馴染むが、口調自体は聴き慣れない。どこの訛りだ、広島か? 問い掛けたいがままならない。無茶苦茶に縛り付けられたせいでほぼ全部の関節が痛い。噛まされている猿轡が唾液で濡れてきてこれだけでも変えろよと言いたいのだが、頑張ってもは行くらいしかろくに出ない。はひふへほ。殴られて飛んでいくばい菌じゃあるまいし。

 長髪男が煙草を消す。んー、などと言いながら伸びをして、ささくれだらけの畳を踏み締め、俺の近くまで歩いてくる。覗き込まれると顔立ちがやっとわかった。思いのほか柔和で、驚いた。

「鬼凍会を知っとるじゃろ?われが賭け麻雀で負けて逃げ出した、まー、表立ってはない組合じゃ。わしゃ、われを連れて来い言われて来ただけなんじゃけど、働きづめじゃったけぇちいと休憩してしもうた。そろそろ行こうか、わしもどやされるけぇな」

 全然まったく微塵も心当たりがなくて慌てた。急に乗り込んできた物盗りに縛り上げられたのかと思っていた。

「ひほふはひ!? ひはふ!!」

 きとうかい!? しらん!! のつもりだったが、やはりばいばいきーんになった。

 長髪男は二重瞼の瞳を大きく見開き、

「は? ぶち言いよる?」

 理性的に聞いてくれたので何度も頷いた。通じるようなのではひふへほを駆使すれば、無言のまま俺のジーンズから財布を引き抜いた。金を抜かれるかと思ったが、長髪が抜いたのは一枚のカードで、先日更新したばかりの運転免許証だった。

「……日下部創……」

 俺の名前だ。運転免許の写真と目の前の俺を見比べるよう視線が数回前後する。やがて納得した顔とともに免許はしまわれ、財布もジーンズのポケットへと戻された。

「確かに違うのぉ。勘違いじゃった、ごめんごめん!」

ほへはほはっは……ほほひへふへそれは良かった……解いてくれ

「そりゃできん」

 あっさり断られて思考が停止した。は? まったくの勘違いで乗り込んできて縛り上げてアンジャッシュが解消したあとも解けないとはどういうことだ? じつはなにも解消していなくてやっぱりただの強盗なのか?

 俺はけっこう間抜けな顔をしたのだろう、長髪は堪え切れない、という様子で噴出し笑い始めた。あっはっはっは! と壁ドン不可避の音量で笑い、笑い、おおいに笑い、笑顔はけっこうかわいいなと最早現実逃避のように考え始めたのだが今度は唐突に縄と猿轡を解かれた。開放感はあったが体勢に慣れてしまって、俺はしばらくざらついた畳に倒れ込んだままだった。

「冗談じゃ、冗談。でも余計な話はしてしもうたけぇ口止めはせにゃあいけん」

「ふひほめ」

「普通に喋れるじゃろ」

 そうだった。

「口止め? そのキトーカイゆう、わけのわからん組合のことを他言すな、賭け麻雀がばれたら捕まるから黙っとけいう意味の口止めやったら俺は当然なんも言わん、自分の命が惜しいさけ」

「訛りきついな、何喋りよるかわからんよ」

「お前が言うなや! 誰にも言わんさけえはよ出てかんかいボケナス!」

 瞬間沸騰で怒鳴りつけると笑い声が返ってきた。長髪を揺らしながら文字通り腹を抱え、しまいには転がって笑っていてヤクでもやっているのかと疑ったが、どちらかといえば笑い上戸の大酒呑みのような気もする。

 更に言えば、若干俺に近いものを感じる。黙っていると長髪は起き上がった。笑いすぎて暑くなったのか部屋が蒸し風呂状態だからか、黒髪が肌に張り付いている。長髪男は乱れた髪を指先で引き剥がして後ろに払い、右手をさっと差し出してきた。何故握手を求めてきたのかわからなかったが単純に握手ではなく、差し出されているのは何らかのカード、記されているのは雀荘の名前だった。

「クサカベくん、財布に雀荘の会員カードがあったじゃろ? それならわしの同志ではあるわけじゃ。わしはここで働いとるけぇ、良かったら来てくれ」

 受け取った。長髪はにっこりと笑い、やっぱり笑っていればまあそこそこかわいいなと思って、じゃあまたなと片手を振って去っていく姿を玄関までは見送った。ずいぶん暗く、部屋ごとに一応ついている玄関灯も申し訳程度だったため、足元に気をつけろと注意した。ありがとのー、と遠ざかりながら答えた長髪を消えるまで眺めて扉を閉めてから、いやちゃうやろと慌てて舞い戻り呼ぼうとしたが名前を知らなかった。

「……まあええわ」

 意味のわからん事態に巻き込まれかけたが無事だった。キトーカイとやらに追われている誰かは誰か知らないがまあ頑張れと適当に念を送り、布団を引っ張り出してからやっと窓を開けた。畳の上には銀色の灰皿がある。その中には、長髪の吸い潰したわかばの残骸が散っている。受け取った雀荘の名刺もその中に加える、ヤのつく家業の息がかかった妙な男の職場になどいけるわけもない。俺は健康麻雀指向だ。一応。賭けたことはない、雀荘では。友人同士の遊びでならあるがノーカンだ、多分。

 色々考えながら眠り、起き抜けでテレビをつけて、歯を磨きながら朝のニュースを見た。強盗殺人のニュースに人事じゃなさを感じて勝手に哀れんだ。被害者の名前を脳で読み上げた瞬間、口からぼたりと泡まみれの唾液が落ちた。知り合いだった。よくいく雀荘のよく打つ同級生だった。

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