14.六年目4

 *****


 退院から一週間と少し。


 体調は概ね良好。休み休みであれば運転も可能だと判断した。届いたばかりのキャンプカーのテストを兼ね、僕は二日かけて東京までやって来た。


 向かったのはグリーン出版の新オフィス。僕には最後に絶対にやらねばならない仕事がある。僕としては珍しくまるでまともな社会人のような格好をして、事前にきちんとアポも取ってある。


 ビルに入って受付で名乗ると、受付嬢が緊急脱出装置で射出されたかのような勢いで立ち上がった。勘弁してくれ。確かに御社が都心の洒落たビルに拠点を移せるほどの売上をもたらしたのは僕だ。だが、僕は今やVIPの前に「元」が付く存在だ。


 そのまま僕のお目当てである社長室に案内される。重厚な扉の中では、社長が深々と頭を下げていた。


「先生、ご無沙汰しております」


 ……ご無沙汰な感じはしないな。初めて顔を見た気がする。なんせ以前来社したときは三分間しか会っていないし、その半分はシカトしていた。何なら最後はキレて帰ったのである。いっそ自分で笑ってしまうくらい態度が悪かった。


 しかし、今日の僕は本気だ。


「こちらこそ、ご無沙汰して申し訳ございません。そして本日は貴重なお時間を頂きありがとうございます」

「⁉︎」


 社長が度肝を抜かれていた。そんなに驚くようなことか? ことか。


「わ、わざわざ東京まで御足労いただ──」

「いえ! こちらからお願いがあって伺っておりますので!」


 サラリーマンだったときにたまに出していた本気エンジンを久方ぶりに走らせる。社長はきょとんとしながらも僕に問いかける。


「そのお願いというのを聞く前に最後に確認なのですが……、今後は出版を取り止める意向、とのことですよね?」

「……はい」


 我ながらつくづく勝手だ。今まで散々世話になってきたというのに。


「大変申し訳ございません。ですが、メールでお伝えしていた通りすでに契約済みの第三巻についてはこのまま進めていただければ。これまで提出済みの原稿に関しても自由に使っていただいて構いません。後は全面的にお任せします」


 せめて書面で交わしていた約束だけはしっかりと果たすことにした。しかし明言していないだけで今後も手を組んでやっていくのは共通認識だった。それを一方的に反故にするなど許されないはずだ。なのに、


「こちらとしては非常に惜しくはありますが、何より作家さんのお気持ちが大事ですから。橘もそう言い張って聞きませんし」

「……」


 拍子抜けなくらい僕の要求はすんなり通ってしまった。彼女の奮闘が影響していることは想像に難くない。


「本来は橘もこの席にと思っていたのですが、彼女は今……」

「……いえ、いいんです」


 言い淀むその先を、僕は聞けなかった。きっと彼女も知られたくはないだろう。


「それで、お願いとは何でしょう?」


 社長の問いかけに、僕は改めて背筋を伸ばした。


「第三巻の最後のページにこれを掲載していただきたいんです」


 早口で言い切り、僕は持参したA4の紙ぺら一枚を渡す。


「これは……?」

「出版を取りやめる理由を、読者や御社の方々に説明するため一筆書かせていただきました」


 僕の極めて個人的な事情でありわがままであることを念押しする内容になっている。ポエム以外でこれほど真剣に文章を認めた経験は他にないかもしれない。


「可能なら社内にもこれを周知していただきたいんです。橘さんは悪くない。彼女に責任を取らせるようなことはしないでください。……お願いします」


 聞く限り彼女は社内でかなり無茶をしてきた。全て僕のために。きっと敵を作ることだってあったはずだ。この案件が頓挫したとあれば、しっぺ返しを受けてもおかしくない。それだけは絶対に避けたかった。


「承知しました。ですが、心配はないと思いますよ」

「え?」


 社長はこれまでの日々を思い返すように視線を上に向け、苦笑を漏らす。


「確かに、橘には幾度となく困らされましたがね……。皆彼女のひたむきさには一目置いています。先生にそこまで言わせたという事実だけで、彼女の働きぶりは伝わります」


 あの面倒な作家に、というニュアンスが含まれていた気がしたが、甘んじて受け止めることにした。その通り過ぎる。


「結局最後まで作家さんの側に立って戦い切りました。見事な編集者です。勝ち逃げですよ。……まあ、あとは任せていただければ」

「ありがとうございます」


 社長が味方についてくれるのなら安心だろう。一番の気掛かりが解消された。僕にできる全部はやったはずだ。


 長居はすまい。僕は時間を作ってもらったことにまた丁寧に礼を伝え、別れの挨拶を済ませる。そして出がけに、


「あ、今後は印税を受け取らないので。寄付分以外は御社のものにしてください。では!」

「え⁉︎」


 ちゃんと話し合ったら面倒になりそうな要求を押し付け、捕まる前にビルから出た。お金なら充分ある。それに、受け取ればまた鈍る。


 ──さて。


 ピカピカのキャンピングカーに乗り、楽な服装に着替えてほっと一息。


 ここからが再スタートだ。ガソリンは満タン。食料も買い込んだ。自宅は当面帰らなくても問題ないようにしてある。僕を縛るものは何もない。


 どんな景色を見て、どんなポエムを書こう。頭を全部ポエムに使える。書き始めたあの頃と同じように。


 肩書きはない。目的地もない。

 君と僕だけの世界。






====作者からお願い====


 この作品の更新が遅れに遅れている中で恐縮なのですが、完結後は他の作品も投稿していこうと考えているので、ぜひ作品だけではなく作者自身をフォローしておいていただけると嬉しいです。








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