8. 五年目1

 *****


 僕がポエムを書き始めてから五年の時が過ぎた。


 僕のポエム集第一巻は予約受付の段階から大きな話題となり、発売前に既に複数回の重版が決定。そして発売してからも毎日のように橘さんから重版のお知らせが届き、「先生、またです」、「了解」の二言で雑に電話が終わるほどにまでなった。


 今日で発売から一ヶ月。発行部数は百三十万を超える。


 今や百三十万人が”君”の美しさに思いを馳せていると考えると悪くない。残りの一億何千万は何だ? 生まれつき脳に馳せ野がないのか? だがそれなりに気分の良い僕はそんな文字通りの脳無しにも大して腹が立っていなかった。国や自治体から適切なサポートを受けられたらいいなと願ってあげるほどだ。


 どうやら橘さんが早め早めの入金を手配してくれているようで、僕の銀行口座はエゲツないことになっている。とにかく桁が多すぎる。銀行は十進数に絶望して二進数を信奉し始めたのかと思ったほどだ。とはいえ僕はお金なんぞに関心はない。いくらあろうがどうせポエムに全ツッパだ。


 一方、グリーン出版の方はそうもいかないようだ。これだけの売上をもたらした作家には何らかの形で恩を返さねばと思うものらしく、「頼むから接待させてくれ」との連絡を再三受けた。ダルいの一言である。こっちは山形在住。出版社は東京。遠い上に何一つ興味がない。


 僕としては珍しく感謝はしている。最初は渋っていた出版。しかし結果的に僕はポエムのみに集中できる生活を手に入れたのだ。売上はそのお礼に過ぎない。


 お礼に対するお礼なんてやり出したら感謝の気持ちで溢れ返る素敵な世界になってしまい、僕が”君”以外の存在に魅力を感じてしまう悪鬼になるかもしれないじゃないか。僕を思うなら薄暗い個室に監禁して食料も衣服も与えずポエムを書かせてほしい。


 ──そんな僕の姿勢をひん曲げたのが、橘さんである。


「やっと来てくれましたね、先生」

「君は本当にしつこいよな……!」

「先生にだけは言われたくないです。さあさ、どうぞこちらへ」


 彼女は飄々と僕を本社ビルの中に案内していく。もはや黙って彼女についていくしかない僕の心の中は「してやられた」という気持ちでいっぱいだった。あれだけ執拗に上京要請されればこうして足を運ぶしかない。山形県にかかってきた全電話の七割は彼女が占めていたのではあるまいか。


「社長と編集長がどうしても挨拶したいそうなので、三分だけ我慢してもらえますか?」

「三分のために呼んだのか……?」

「いえ、本当はじっくり話し込んで懇意にしていただきたいですよ。でも先生っておじさんに興味ないですよね?」

「あろうはずがない」

「ですので最小限に留めました。できればカットしたいくだりでしたけど、あいつらうるせぇのでやむなくです」


 相変わらず頭のイカれた人間だ。こうはなりたくない。上司にはあまり失礼のないように接した方がいいのに。


「せっかくこっちに足を運んでいただいたので、私の方で色々とお見せしたいものをご用意してます。そっちがメインです」

「見せたいもの?」

「後で説明します。ひとまずこちらへ」


 橘さんは「社長室」というプレートが付けられた重々しい扉を指し示す。お偉いさんたちがお待ちのようだ。まあ、確かに三分で済むのは有難いな。無の表情で口を開けて壁ばっかり見ていよう。


 入室すると二つの経年劣化した肉塊がまるで人間みたいに立ち上がった。


「お待ちしておりました先生! 本日はわざわざご足労いただきありがとうございます!」


 製造年月日の古そうな方が深々と頭部を下げた後、どうぞおかけくださいと僕をソファーに誘った。とりあえず僕も会釈くらいはして腰掛ける。現在、十五秒が経過。あと二分四十五秒我慢だ。


「この度はp────」


 4文字と5文字目の子音まで聞けば充分だろう。僕は両耳を日曜日にして経過時間のカウントに集中していた。たった一秒が悠久に感じられる。”君”とお喋りしている時とは段違いだ。これがいわゆる相対性理論というやつなのだろうか。提唱者のアインシュタインもきっと良い恋をしていたに違いない。ろくに舌もしまえなくなるほどに。


「あの……先生……?」


 お偉いさん二人が「何でこの人話聞いてないの?」みたいな目で僕を見ていた。僕としては「何で”君”でもないのに喋る機能が付いてるの?」と聞き返してやりたいところだ。


 だが、流石にこの態度は大人気ないかとも考え始めていた。こんなメーカーに修理部品も残っていなさそうな骨董人間にはある程度優しくしてあげた方がいい。


「聞いてなかったのでもう一回言ってください」

「えぇ……? あ、あの、どこかお食事にご案内したいので何かリクエストがあればと……」


 ……そんなこと言われても、”君”のことを考えながら食べれば牛糞でもウニに感じる僕である。世の食べ物は僕にとって食べ物としてはオーバースペックだ。


 回答に詰まっていると橘さんが会話に割って入った。


「食事ってご興味あります?」


 何と答えやすい質問だ。


「ないな」

「ですよね。私としてはもっと先生の執筆活動のお役に立つような場所をご紹介したく」

「ほう」


 興味深い。監禁機能が付いている薄暗い個室だろうか。


「あの、先生は最近の作品で度々”君”さん以外の女性をいかに醜く表現できるか試されているような印象でして」

「ああ。色々と実験中だ」

「やっぱりですか! でしたらぜひウチの近所の路地に来ていただきたいんですよ。猫糞が積もりすぎてマザーコンピューターみたいになってるゾーンがあって最高に臭くて汚いんです。資料になるのではないかと思いまして」

「それは見たいな!」


 さすが、橘さんは良く理解している。美しいものを描くには、その百倍醜いものに触れた経験を積まなければならないのだ。”君”という美の母を言葉にしようとしている僕は殊更である。


「た、橘君! 先生に何を見せるつもりだね!」

「君本当いい加減にしてくれないか⁉︎」


 心躍らせる僕とは違い、お偉いさん二人は激昂していた。片方はうんざりしたように大きなため息をついた後、冷静を取り繕って僕に言う。


「……先生、実はもう一つお話ししようと思っていたんです。橘がご迷惑をおかけしていませんでしたか? なにぶんようやく三年目に入ったばかりのペーペーでして、我々から見てもまだまだ未熟さが目につきます」


 言い終わりながら橘さんを睨みつける。彼女はしゅんと小さくなってしまった。


 橘さんが随分と無茶を繰り返してきたのは僕も見聞きしてきた。僕が把握していない件も数々あるのだろう。上司たちが散々彼女に振り回されていたのは想像できる。さぞ厄介な存在だったに違いない。


 なるほど、この無駄な会合が開かれた真意が見えてきた。僕をもてなしたかったというの嘘ではないのだろう。だがそれだけではなかった。おそらく彼らは、僕の口から、彼女の目の前で、「担当編集を交代させろ」と言ってほしくて呼んだのだ。


 ──気に食わない。


「彼女だから本にできたんです。交代させたら二巻はありません」


 端的に言い切るとお偉いさん二人は目を丸くして、それでも何も言えずに固まっていた。僕は彼女の熱意と理解がなければ本にする気なんてなかったんだ。偉そうに上司ぶって彼女の何を見てきたんだこいつらは。


「橘さん」


 僕は呼びかけ、立ち上がって時計を見る。


「三分経った。行こう」 


 橘さんは薄い手のひらで紅潮した顔を覆い、華奢な指の隙間から潤んだ瞳を覗かせて、震えるみたいに何度も頷いた。

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