9. 五年目2

 *****


 橘さんご提案の東京ツアーは、実に良く練られていた。


 まずは話に聞いていた橘さんちの近所にあるマザーコンピューターのような巨大猫糞。そして橘さんちの近所にあるタイ料理屋とインドカレー屋の匂いが不思議な化学反応を起こして爆臭に包まれているエリア。さらに橘さんちの近所にある奇跡のゴミ屋敷五軒並びビンゴストリート。いずれも醜悪で大変参考になった。


 ただ一つ言っておきたいのは──、


「君は引っ越した方がいい」


 家の周りカオスすぎるだろう。東京ってそんな街なのだろうか。こうして歩いているだけで恐怖を感じる。


「他の場所はそれなりに綺麗に整ってる街ですよ。悲惨なスポットを求めて徘徊したんです。一応二十四の女が。日曜日に」


 橘さんは珍しく不満げに口を尖らせた。こうして言葉にされると僕のサポートのために如何に犠牲を払っているのかがよく判る。担当編集とは凄惨なお仕事だ。


「あ、ありがとな」


 僕がそう告げると、橘さんは意外そうに目を見開いていた。


「先生ってお礼って概念あるんですね」

「あるだろ普通」


 ……いや、なかったかもな。少なくとも、ポエムを書き始めた最初の二、三年は。”君”以外のあらゆる存在に興味がなくて、あ、いや、今もそれはそうかもしれないが……、とにかく以前はもっと世界に対して閉じていた気がする。僕と”君”だけの世界に閉じこもって。それが今や担当編集がいて、読者がいて、それを当たり前に受け入れて。


 僕は少しずつ、変わり始めているのかもしれない。──それって、良いことなのか……?


「……先生? どうかしました?」


 橘さんが僕の顔を覗き込んだ。


「あ、いや、あの子のことを考えてた」


 僕が咄嗟に誤魔化すと、彼女はしみじみと頷く。


「隙あらばですね。それでこそ先生です」


 そうだ。それでこそ僕だったはずだ。”君”への愛は未だ微塵も陰りがない。


「あの、先生……。こちらこそ、先程はありがとうございました」

「ん?」


 橘さんは立ち止まり、ビジネスジャケットの裾をぎゅっと握った。少し俯きながら、一番ふさわしい言葉を慎重に探すかのように、ゆっくりと語り始める。


「私だから本にできたって、言ってくれてありがとうございました。まさか先生にそんな風に思っていただけるなんて想像もしていなかったです」

「……」


 僕だって思わなかったさ。初めて会った時なんて、一言二言だけ告げて帰ろうとしていた。それが今や、彼女を信頼して良かったと確信している。


「多分、上からしたら私って面倒くさい奴だと思うんですけど、……先生が庇ってくれて本当に嬉しかったです。私、先生と本を作れて毎日すごく楽しいんです。今後もできる限りのお手伝いをさせていただきますので、二巻も三巻もよろしくお願いします」


 全部言い切れたかなと確認するようにしばらく間を空けた後、彼女は深々と頭を下げた。


「そんなに改まらなくても……。別に僕は僕がやりたいようにやっただけだ。君からもらったものの方が明らかに多い」


 僕はただ今まで通りポエムを書き続けていただけなのだ。書籍化して”君”の荘厳さを世界に伝えられたのも、ポエムを書いているだけで生活できるようになったのも橘さんのおかげだ。


 ──ふと、橘さんが何か企むようにニヤリと笑った。


「じゃあ一個だけわがまま言ってもいいですか?」

「⁉︎」


 しおらしい態度から一転、がめつい債権者となる。あまりの切り替えの早さに、あらかじめこの展開を予期して待ち構えていたのではないかという疑惑すら湧いた。


「わ、罠だったのか?」

「いえ、全部本心で言いました! でも先生が珍しく隙を見せたのでこの機会にご好意をほじくり取ろうと思いまして」

「や、やるな……!」


 確かにこの流れ、何らかのリクエストがあるなら応えなければならないだろう。僕は出版社にとって相当に扱いづらい作家であり、今日の東京訪問だって散々渋った経緯がある。橘さんに数々の無茶をさせてきたのは全て僕の希望を叶えるためだった。ちょっとくらい協力的であってくれと彼女が願うのも無理はない。


「聞くだけ聞こうか」

「聞くだけじゃなくて叶えてください。私先生のサイン会をやりたいんです」

「サイン会ぃ……?」


 全くそそらない単語だ。思わず顔を顰め、東京の地下鉄網のような複雑なシワを作った。僕が破滅的な書体で名前を書いたところで何だと言うのだ。この手はポエムのみを書くために”君”から賜った手だぞ。


「まあサイン会と言っても目的はサインじゃありません。先生には一度何らかの形で世間に姿を現していただきたいんですよ」

「現してるだろ? 君の穢れた街に」

「穢れてませんし読者の目の前にってことです! つまりですね──」


 橘さんは熱っぽく計画を語る。僕はこれまでメディアに出演していない。文字のみのインタビューという形ですら一度もだ。本名だって隠しているし、その他のパーソナルな情報もポエムで明かされている部分以外は闇の中。これは「ノンフィクション」であるポエム集を販売するにあたり不都合らしい。極端な話エターナル・ラブ・ポエマーというポエム師も”君”との物語も実際には存在しないと疑えてしまう状況なのだ。


「──ということで、サイン会をやったという実績だけ作っておきたいんです。きっと話題にもなるでしょうし、さらなる売上が期待できます」

「売上ねぇ……」

「売れれば売れるほど例の孤児院も潤うんですよ?」

「む……」


 確かに利益の一部を寄付しているあの孤児院からは感謝の声を頂いてる。僕と”君”が出会った場所。無くなってほしくはない。


「それにですね、先生個人としてもお金はあればあるほど選択肢が広がるはずですよ。大金持ちになっておけば、”君”さんに宇宙で書いたポエムをお届けできる可能性だってあります」

「う、宇宙……!」


 この女、やり手のモチベーターだ。宇宙空間で星の瞬きに包まれながら書いたポエムなんてものを送れたら、”君”は喜んでくれるに違いない!


「あと、実はもう会場を押さえているんでやってくれなきゃ困るんですよ。青山の大きな本屋さんなんですけど」

「か、勝手なことを……」

「先方には本当に先生が来てくださるか疑われてしまったので、来る方に舌を賭けてゴリ押ししました。送りつける際に添付する納品書も作成済みです」


 橘さんはカバンから一枚の紙を取り出した。印字されている「冷凍鮮舌 一本」という文字に僕は慄いた。


「あ、頭おかしいんじゃないか?」


 率直な感想を述べさせてもらう。恐らく彼女は自分の舌を冷凍してバイク便で送る用意をした初めての人類だ。


「先生にだけは言われたくないです。さ、どうします? 孤児院の子どもたちや私を見捨てますか?」

「わ、分かった。やればいいんだろ……」


 まったく、あの手この手だな。義務感を駆り立て、餌をぶら下げ、最後は脅迫だ。


 観念した僕を見て、彼女は得意げに鼻を鳴らす。


「フフ、先生との闘い方が分かってきた気がします」


 随分と厄介な人間を担当として据え置いてしまったなと、僕は肩を落とす。しかし、きっと彼女以外僕の担当編集は務まらないのだとも改めて思う。


「じゃ、早速会場に移動しましょう」

「……は?」


 今からか? 事前打ち合わせか何かだろうか。……いや、違うな。


「先生の上京に合わせて予定を組んでおいたんです。二時間後に始めますので心の準備をば」


 彼女は飄々と言いのける。呆れる僕をよそに電話でタクシーを手配し、続け様にバイク便にキャンセルの連絡を入れていた。

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