7. 四年目4

 *****


「じゃまじゃま?」

『…………先生、お邪魔したことは謝りますが、電話に出る時はもしもしですよ』


 橘さんの拗ねた声に正気を取り戻した僕は、礼儀として「もしもし」と言い直す。


『お忙しいようでしたらかけ直しますけど……』

「いや、いいよ。どうせいつもポエムのこと考えてるから。寝てる間も」


 僕に電話が可能な時間はない。いつだって”君”に夢中だ。


 橘さんとの打ち合わせから四ヶ月後、ポエム集の制作は終盤に差し掛かっていた。彼女の職場は東京にあるため、基本的にやり取りは電話かメールになる。電話の場合は緊急の用事なので、僕は少し警戒していた。


「何かトラブル?」

『いえ、ちょっと確認事項がありまして。二百七十五日目のポエムについてお伺いしたいのですが』


 僕は過去に書いたポエムを全て覚えている。わざわざコピーを探すこともなく内容を思い出し、次の言葉を待ち構えた。


『上の者からですね、流石に他の女性に対して失礼すぎるのではないかという指摘が入りまして』

「……どこが?」


 確か”君”以外の女性を病気の雌牛の糞便に集る銀蝿に例えた回だ。過不足ない正確な描写だと思うが。


「他の女性なんて融点が二十五度になればいいんだ」

『夏には全滅じゃないですか。あの、先生が排他的多弁ヤンデレなのは素敵だと思うんですけど』

「誰が排他的多弁ヤンデレだ」

『いえ、そこは認めてくださいよ。それで、その回だけ掲載を取りやめるという判断になりかけまして』


 眉がピクリと痙攣する。それでは困ったことになる。


「待ってくれ。あれは──」


 橘さんは僕の言葉を遮り、代弁した。


『三部作の真ん中ですもんね。削れませんよ』

「!」

『”君”さんをリコーダーを掃除する棒に例えた八十五日目が第一章で、”君”さんへの想いのみを糧にヨットで世界一周する計画を書いた四百六十四日目が第三章ですよね? 一見関連はなさそうですけど」

「……さすがだな」


 思わずため息が漏れる。そこまで読み解けるのは僕と”君”だけだと思っていた。


『上の者は”繋がりが分からん”と言いたげな顔をしてたので、”出版社勤めのくせにそんなことも読み取れないの?”と言いたげな顔で返してやりました。そしたら”まあ、本当は分かってたけど”って顔をし始めたので、”じゃあカットできませんよね。あざっす”って顔を見せておきました。なので掲載はできる方向です』

「ほ、本当か? どっちも終始無言じゃないか」


 一緒に仕事をし始めて分かったことがある。彼女はかなりのラフファイターだ。聞けばまだ二年目らしいのに、上司を全く恐れず歯向かっていく。作家のために会社と戦うのが編集の仕事なんだそうだ。僕を口説き落としたことは会社的にかなりの功績だったらしく、ある程度の無茶は聞いてもらえるとも言っていた。


『ただ、実際問題何らかのトラブルが生じて先生にご迷惑をおかけしてしまう可能性もあるわけです』

「別に僕は誰にどう批判されても構わないよ」


 世間の毀誉褒貶に振り回されないことが僕に課せられた命題だ。例え住所を特定されてネットに晒されようが、僕は書くことを辞めないし書く内容も変えない。


『そうは言ってもですね、一応何らかの手は打っておきたくて』

「修正?」

『それはしないお約束です! ただ、目次のあたりに一言だけ注意書きを添えることをお許し頂きたいです』

「どんな?」

『読む人によっては何じゃこりゃと感じる表現があるかもしれないけどで芸術性を優先した、という旨を大人語で書きます』


 責任はグリーン出版が被るということか。僕としては気楽で助かるが──、


「それって上の人は納得するのか?」

『五分五分ですね』

「微妙なとこだな」

『大丈夫ですよ! だってもう五はあるんですから、両膝をつけば七、両掌で九、おでこでちょうど十になる計算です!」

「んん……?」

『では! あとはお任せを!』


 唐突に通話が切断された。電話だというのに彼女が颯爽と走り去った風の音が聞こえたような気がした。


 全く、頼もしいものだ。彼女は僕が提示した条件をことごとく守り、僕に一切の負荷をかけないようにしてくれている。前払いの件も実現したため生活の心配もない。僕は完全にポエムだけに集中することができた。


 普通の作家なら悩まされるところである締め切りなんてものも僕にはない。そもそも僕は誰に決められたわけでもなく一日一通という常人ならタイトであろうスケジュールを守り続けているのだ。しかも今回の書籍化はページ数の都合で二年目までのものしか掲載しない第一巻という位置付けになっていて、七千無量大数が一今日の分が遅れたとて制作に支障はない。


 何より有り難かったのは、橘さんが取っている絶妙な距離感だ。


 彼女は決して僕と”君”の物語に踏み込まない。mixi上では公にしていない”君”とのエピソードを知りたいとねだることはないし、何だったら”君”の名前すら聞かないのだ。ファンならば気になるところなのだろうし、ここまで世話になっているからには聞かれたら答えなければと僕は思ってしまう。それを理解してか、彼女は上手に無関係の人で居てくれた。おかげで僕は僕しか知らない宝物を独り占めし続けている。


 十数分後、橘さんから再び連絡が来た。じゃまじゃまと言われないようにか、今度はメールだった。冒頭と末尾は大人語とやらで書かれていたが、肝心の本文はフランクに「膝までで通りました!」とだけ記されていた。


 僕は周囲のどんな動きにも流されずに執筆すると決めている。でも今日ばかりは少しだけ禁を破ることにした。ポエムの内容自体には手を加えないが、今日はポエムとは別に手紙を添えてみようと思う。と言っても書くのは一言だけだ。印税の一部から彼女にスーツのクリーニング代を出していいか、”君”に尋ねてみよう。


「……順調だ」


 出版を持ちかけられた時はまさか発売が楽しみになるなんて想像だにしていなかった。世間よ、”君”がいかに素晴らしい女性であったか思い知るがいい。

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