13.六年目3

 *****


 入院から一ヶ月。


 全身包帯グルグル巻きの状態から脱し、右腕は立派に使えるようになった。松葉杖があれば歩けるようにもなった。


 どうやら神は僕にポエムの才能だけではなく松葉杖の才能もプレゼントしてくれていたらしく、医者が絶句するほどスイスイ動くことができた。二千メートル級くらいの山ならこのまま登れそうだ。世間の人々もぜひ一度足を折ってみてほしい。眠っていた才能に気がつくかもしれない。


 そしてあまねく内臓たちの何ちゃらとかいう病気たちも総じて快方に向かっている。生き抜くという決意に呼応してくれたようだ。あまりの回復の早さにこちらの件でも医者が絶句しており、僕はもう彼の声を忘れた。


 ……だが、それでもこの病室は時々騒がしくなる。


「先生! 昨日ご自宅の雑草を根絶やしにしたんで帰ったら笑ってください!」


 橘さんはハツラツとピースサインを見せる。


「そこまでしてくれなくても良かったんだけど……」

「まあまあ、ついでですから! ネットで調べたら塩を撒いたら一撃って書いてありまして。二度と草木の生えない死の土になるらしいんですけど、問題ないですよね?」

「ないけども……」


 僕はどうも歯切れが悪くなる。なんせ橘さんには世話になりっぱなしだ。大体五日に一度のペースでお見舞いにやってきて、洗濯物を持ち帰って処理した後、家の保全に全力を尽くしてくれている。


 丸一ヶ月山形でそんな生活をするのは流石に会社が許さないであろうことは想像がついた。多分どこかのタイミングで帰京して職場に復帰し、以後はここまで通っているはずだ。しかもそれを僕に言わない。聞いてもはぐらかす。


「あ、あれだぞ? もう一回言うけどそこまでしてくれなくても良いから。絶対担当編集の仕事を超えてる」

「フフ、まあ今日で終わりですから」


 橘さんは感慨深げに深く息を吐き、窓の外に遠い目を向ける。


「改めて退院おめでとうございます」


 幸いにも来週から通院に切り替わることとなっている。僕は入院生活が終わることより彼女のサポート生活が終わることに安堵していた。


「でも本当にもう大丈夫なんですか? 私も主治医の方が絶句するくらいしつこく確認しましたけど、普通ならまだ包帯グルグル巻きの時期なんですよね?」

「もうほぼ巻いてないだろ、ほら」


 実際には、僕は裏で「早く出してくれ」と医者に結構な無理を言っていた。僕のためというより橘さんのためだ。医者はやっぱり絶句していた。まあ、支障があるなら何か言うだろ。異様な回復力を見越して押し切った形だ。


「一応数日は様子見で大人しくしておくよ。運転は控えるし」

「あ、そういえば納車に間に合いそうで良かったですね」


 僕は入院中にデカい買い物をしていた。ただの車ではない。キャンプカーである。


「楽しみですね。どこに行くご予定ですか?」

「適当だよ」


 全国のありとあらゆる景色を見てポエムに生かす所存だ。自由の身であることを利用して気ままに取材旅行をするには脚と宿を一致させるのが手っ取り早かった。これは道楽ではなくポエムへの投資であり、かねてより悩みの種だった税金対策である。


 自宅のデスク前ですら二千を超えるポエムを生み出した僕である。刺激を増やせばきっと無限に等しい数の作品が溢れ出すはずだ。この入院生活の間に体調面だけではなく執筆環境まで改善したわけである。


 残す課題は、──スランプの解決。


 相変わらず僕のポエム勘は戻っていない。この苦しみに比べれば骨折や病気など瑣末な問題だ。身体がどれだけ健やかになっていこうと、生きた心地はしていなかった。


 はっきり言って解決は簡単なのだ。初めから答えは分かっている。分かっていながらも、今の日々が息苦しかろうとも、どうしてもその手段を選べずにいる。


 その手段は、おおよそ人間の所業ではない。他に道がないかと最後の最後まで葛藤して然るべきものだ。だが同時に、選ぶのならせめてもっと早く選ぶべきものでもあった。


 僕の弱さが、愚かさが、未熟さが、全てを鈍らせている。


 だからいい加減決断するべきだ。


 思い出せ。


 何が一番大切なのかを。


「橘さん」


 落ち着くためだったのか、心が重かったのか、僕の声には自然と溜息が混ざる。


「話があるんだ」


 僕は彼女の目を見据えた。


 橘さんは身体を強張らせる。何か言いたげに口をぱくぱくさせ、やがて覚悟を決めたかのように唇を結んだ。パイプ椅子に着席し、強く握った両拳を膝の上に置く。


「何なりと」


 頼もしい返答とは裏腹にその声は震えていた。……そうか、そうだよな。彼女なら察しがついていたはずだ。僕が何を考えているのかくらい。


 彼女は、”君”の次に僕の理解者だ。病的にしつこい性格も僕に良く似ている。作家と編集として僕らは名コンビだったと思う。


 彼女は、”君”の次に僕の恩人だ。僕が”君”を愛しているだけで生きていられるようにしてくれた。僕の歪んだ、いや、歪むしかなかった”君”の愛し方に寄り添ってくれた。


 だけどもう、終わらせなくては。


 風のように去られてしまう前に、一番伝えるべき言葉から口にする。


「今までありがとう」


 僕は今一度、”君”と僕だけの世界に戻らなければならない。


 僕のポエムを楽しみにしているのは一人でいい。読者は他に要らないし、世間に向けて本にする必要もない。


 全部削ぎ落としてこそ君に届く。であれば早急に全てを投げ捨てるべきなのだ。”君”のことだけを考えていた以前の僕に戻る。これが唯一のスランプ解消策。


「済まない。僕はもう、こうするしかないんだ」


 僕は橘さんがこの仕事をどれだけ楽しんでくれているかを知っている。どれだけ僕に尽くしてくれているかも分かっている。僕がポエム集の出版を辞めれば彼女の会社にどれだけ迷惑をかけるかも理解しているつもりだ。


 多くを傷つけ、多くを混ぜ返す。僕に今の立場と環境をくれた全ての人を裏切る。この選択は決して許されることではないだろう。


 だが、このまま停滞している訳にはいかないのだ。きっと”君”は今も、あの机の前で僕のポエムを待っているのだから。


「…………」


 長い長い沈黙が続いた。橘さんは口を開かない。頭上に視線を泳がせても、泣き出しそうに眉を歪めても、一向に言葉は出てこなかった。


 僕の方からもっと説明を続けるべきかとも思った。だが今は待つべきだ。彼女はまだ、いつものように相応しい言葉を懸命に探している。


 病室内に彼女の荒い息遣いだけが響く。そして彼女がやっと絞り出した声は、長考にまるで見合わないシンプルな回答だった。


「承知しました」


 背筋を延ばし、さっぱりと言い切った彼女の表情は、「晴れやかな自分」を無理矢理貼り付けたかのように清く歪んでいた。


 彼女が一体幾つの言葉を飲み込んだのか、僕には推しはかることすらできなかった。僕に供述を求めることすらせず、ただ凛とあろうとしている。


「ごめんなさい。私、見捨てられないように必死でした。それが先生のご負担になるって、分かってたのに」


 橘さんは瞳を見られてはならないとばかりに顔を慌てて伏せた。彼女が隠そうとしたせいで、皮肉にも僕は気づいてしまう。


「そんなのいいんだ。悪いのは──」

「わ、私今日はこれで失礼しますね!」


 橘さんは突如立ち上がり、荷物を引っ掴んで駆け出した。病室から飛び出そうとする彼女の背中に僕は何も告げられなかった。その勢いとは裏腹に丁寧に閉められた扉の音が、やけに耳に残った。


 僕が松葉杖をついてドアの外を覗いた頃には、長い廊下に彼女の姿は既になかった。

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