第三章

17.目覚め

 *****


 目を覚まして最初に感じたのは、異様な身体の重さだった。


 鉛でできているかのような布団をどうにか押し除けて上体を起こす。……何だ、これ? どこだここ? 僕はなぜ見知らぬベッドで寝ている?


 僕は左腕で後頭部をかこうとして、すぐさまギョッとした。大仰な管が腕にブッ刺されている……!


 なるほど、ここは病院か。僕は何らかの理由で意識とバイバイし、運び込まれてしまったのだろう。何が起きたのか全然記憶にない。というか、そもそも────、


「ん……?」


 周囲を観察していると、小さなボタンと書き置きが目に入る。「もし意識が戻ったらこのボタンを押してください」とのことなので早速連打してみた。僕の身に起きたことを説明してくれる誰かが必要だった。


 一分も経たずに病室の扉が開いた。医者と思しき女性が看護師を二名引き連れて、血相を変えて近寄ってくる。


「目が覚めたんですね! 良かった……!」


 女医は信じられないとばかりに感嘆の声を漏らし、かと思いきや即座に冷静さを取り戻して看護師たちに何か指示を出した。脈やら体温やらを調べられ始めたので、「本当に生きてるのか確認しろ」的な指令だったのだろう。


 女医が椅子をベッドの近くに持ってきて僕に向かい合うように座り、険しい表情とは裏腹に子どもに言い聞かせるようなトーンで語り始めた。


「さぞ混乱されているかと思います。状況を説明致しますので、落ち着いて聞いてください」


 僕は冷静であることをアピールするため、静かに一つ頷いた。


「あなたは交通事故に遭い、生死の境を彷徨いました。いえ、『境』と呼ぶのは語弊がありますね。私どもの感覚からすると境の随分先まで遠泳されていたご様子でした」

「えっ……⁉︎」

「フフ、でもご安心ください。できる限りの手を尽くしました。それに何より、あなたの驚異的な回復力のおかげで、境のこちら側に引き寄せることができました」


 女医はカルテを見せながら僕の症状を説明していく。聞けば聞くほど致命傷と思しき傷が増えていくのだが、どれもこれも二ヶ月以内に完治してしまったらしい。どういうわけか意識だけが戻らず、僕は三ヶ月ほど眠っていたとのこと。


 今回の事故で受けた傷の他に、以前にも大きな手術を受けた痕跡がいくつも見られたという。しかしその付近にどんな病気や怪我を患っていたのか推測できないくらい完全に回復しているそうだ。女医は「NASAに見つかったら実験台にされますよ」と冗談めかしながら僕の形状記憶人間っぷりを讃えていた。


 当然だ。僕は”君”の加護をこの身に宿すネオ人類である。多分六千フィート上空から地面に叩きつけられても「やん♡」くらいで済む。


「続いて事故についてご説明します。あなたが運転する車の単独事故だったため、他に怪我をした方はいません。物損についてもあまり被害はなく、唯一の例外はあなたのキャンピングカーです」


 医者は窓の外を指差した。キャンピングカーが一台。しかし遠くから見ても分かるくらいピカピカで、まるで新車である。


「例外……? 奇跡的に無傷だったという意味ですか?」

「いえ、ズタボロでしたよ。あれは保険会社の方が慌てて持ってきた新車です」


 僕が露骨に訝しげな表情を見せると、女医は改まって一から供述を始めた。どうやら僕の所持品には僕の身内や知り合いに繋がる情報が何もなかったらしい。唯一車内に保管されていたのが車の保険に関する書類だった。


 事故調査に入った警察が困り果て、ひとまず保険会社に連絡。すると僕は「あなたVIP! 超絶VIP! 何もかもを速攻で全て元通り以上にしますのでどうか踏んでくださいましプラン」とやらに入っていたようで、事故対応を何もかも代行してくれた挙句に車を同じメーカーの最新車両と取り替えてくれたそうだ。入院費も負担してもらったし、僕のためにこの部屋のベッドと空調と窓と床を最高級品に作り替えたとのこと。


「……と、ご説明は以上ですが、何かご質問はありますか?」

「あー……、そうですね、状況については理解しました。ただ、一点伺わなければならないことが」

「何でしょう?」

「僕は誰ですか?」

「えっ……!」


 どうやら僕には記憶がない。事故周りの記憶だけではなく、全てだ。自分の名前も分からないし、以前に大きな手術を受けたことも知らない。あと何だその保険。僕はどれだけVIPなんだ。


「記憶喪失……ですか。これは追加の検査が必要ですね」


 女医が途端に慌て始め、看護師たちに何やらと指示を出す。対照的に僕は何故か妙に落ち着いていた。大ピンチのはずなんだけどな。記憶が全部ないなんて── 


「いや……待てよ……?」



 記憶がない? じゃあ、さっき頭を過った”君”のことは?



 僕は”君”を覚えている。いや、正確には顔も名前も分からないし僕とどんな関係なのかも分からない。ぼんやりとした概念として”君”が居る。そんな感じだ。


 あと、僕は”君”が好きだ。それも死ぬほど。”君”のことを考えるだけで六千フィートくらいなら軽く舞い上がれそうな気がする。そうか、僕が今冷静でいられるのは、”君”のおかげで何も怖くなくなるタイプの脳内麻薬がビチャビチャ出ているからだ。


「先生、僕の私物はどこですか?」


 この想いの強さを鑑みるに、僕は”君”に関する物を大量所持・常時携帯していたに違いない。もっと君の情報が欲しい。


「車にあった物は全てそちらの棚にございます。ご自身のことを思い出すきっかけになるかもしれませんね……」


 いや、自分のことはいいんだ。僕は「“君”が好きな人間」という定義でもう過不足ない。


 僕がガサゴソと棚を物色し始めると、女医は検査の準備をすると言い残して足早に去っていった。ありがたいことにここは個室。”君”の顔写真か何かを発見して卒倒する姿を誰にも見られずに済む。


「ん、免許証か……」


 鏡に写した自分の顔と写真を見比べてこれが自分の物であると確認。ゴールド免許かつ更新したてのピカピカ免許が可哀想になるくらい、僕の写真はいかにもめんどくせぇと言いたげな表情をしていた。


 ひどく平凡な名前であることも分かった。声に出して読み上げても何も染み入らないあたり、僕は自分の名前にすらあまり興味がなかったことが伺える。こんなもんより肝心なのは”君”の名前だ。


 他には何がある? ……おっと、これは通帳か。


「な、なんだこれ……⁉︎」


 一体何桁なんだこの残高は⁉︎ 銀行は十進数に絶望して二進数を信奉し始めたのか……? 僕は一体何をしていたんだ。これだけの金を持っていてなぜ”君”に奉納していない?


 自分なんざ視野の外と思っていたがこれは流石に気になってきた。僕は多分普通の人間ではない。良い意味か悪い意味かは想像もつかないが、真っ当な生き方はしてこなかったはずだ。


 他には何が……。毒に興味があったのかフグの調理師免許。国語辞典と類語辞典という旅に携帯するには相応しくない本。大量のガムテープ。なんだこいつ。碌なもの持ってない。あ、でもこの襟だけプラスチックでできたシャツはすんげ〜カッコ良いな。


 そしてこれは……、便箋と封筒?


 何の気なしに触れた途端、全身に電撃が走った。何故僕はこんな大切なことを忘れてしまえたのだろう。僕は、僕は────、


「”君”にポエムを書いていた……」

 

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