第12話 TGA その5

 小児病棟で俺は患児の点滴をとっていた。こればかりはいくら医学が発達しようが、人間のスキルに頼るしかない。俺のスキルは、まあ中の中からやや上といったところか。細い静脈に24ゲージの留置針を入れるのだが、なかなか入らない。

「苦戦していますねえ~」

ほのかな香りがしてのぞき込んできたのは山中ナースだ。小児病棟用のパンツスタイルのナース服が似合っている。

「ハタナカ先生でも取れないなんて難しそうですね」

左手で患児の手を握り、手の甲にテンションをかけていたのだが、泣いて動くので固定は難しい。

「私が肘を抑えておきますね」

そう言うと山中さんは俺の横にしゃがんで俺がターゲットとしている側の手の肘をベッドに固定してくれた。俺と山中さんの前腕が触れ合う。

(おおっつ、ラブリー)

思わずその柔らかかつ優しい感触に仕事を忘れて、天を仰いでしまった。勿論握っていた患児の手を取り落としている。

「あ、わ、しまった」

すかさず患児の手を握り直したが、山中さんも一緒に握ろうとして、俺たちの手は重なってしまった。

「あっ」

「きゃっ」

「ご、ごめん。わ、わざとじゃないよ」

しどろもどろになってわけのわからないことを口走ってしまった。

「ハ・タ・ナ・カ、センセ~」

(うっ!)

部屋の入口から突如かけられた声に反応して振り向くと、病棟ナースの久地由紀子、林 愛花、大西アミがニヤニヤしながら覗いていた。

「先生、まだお日様は高いですよ~」

大西アミが端正な顔をニンマリさせて言葉を発した。

「なんか密着しすぎ~」

久地由紀子がグラマラスな胸をドアに押し付けて口を尖らせる。

「病棟風紀医員として、見逃せないわ」

林 愛花がスタイルのいい長身の脚を踏ん張って腕組みをして睨んでいる。

「あ、いや、これは、たまたまじゃん。君らともこれくらいくっついてするときもあるし…」

「え~たまたま?」

「君らともくっついて、って誰と~?」

「あたしはないわよ」

「あたしも~」

「えー愛花はこの間権田センセとくっついてたじゃない」

「あれは権田先生がビッグだから誰が隣にいてもくっついちゃうわよ」

「え~権田先生ビッグだって、エッチ~」

「何言ってんのよ、ユキコは」

「じゃ、くっついてみよっかハタナカくん」

「ちょっと、アミ何をどさくさに紛れて言ってんのよ」

「そうよ、この間協定結んだじゃないー」

「なんですか、協定って?」

「直子は知らなくていいのよ」

「そう言って、愛花は抜け駆けするつもり~?」

患児は泣き出すし、山中さんも参戦するし、そこへ点滴を取るのが遅いとのぞきに来た患児の母親までが騒ぎ出すし、俺は長いジャテンの手術で疲れてるし――。


館内の放送のスイッチが入った。一斉に皆の動きが止まる。

『シーピーアール(CPR)、シーピーアール』

無機的な音声がセンター中に響いた。

脱兎のごとく俺は部屋を飛び出た。CPR、救急蘇生要請だ。センターのどこかで心肺停止になった患者がいる――。どこだ?

放送は続いた。

『シーピーアール、ICU。繰り返します、シーピーアール、ICU』

「あ、ICU?」

別室から出てきて廊下の途中から一緒になった柳が素っ頓狂な声を上げた。

まさか、まさか――。


 ICUの中はすでに医者やナースでいっぱいだった。その人だかりの中で姿は見えないがICU副部長のオオガの声が聞こえる。

「胸骨圧迫代わって、ボスミン20倍希釈できたら持ってきて。心外の医者はまだかっ!」

最後のセリフを聞くまでもなく、俺と柳は人ごみをかき分けて中へ飛び込んだ。その中央にはジャテンを終えたばかりのベビーがいた。

「オオガ先生っ」

「おおっ、早く開胸心マしてくれっ!」

俺たちを見つけたオオガが叫んだ。俺と柳は白衣を脱いでオペ着になった。病院にいる間は白衣の下は常にオペ着をきている習慣だ。

「消毒と、開胸セットだっ」

見回して見つけた仲村美雨に俺は叫んだ。テキパキと動くICUナースたちを目の端に捉えながら俺と柳は清潔手袋を佩いた。手洗いをしている暇はない。とりあえず胸骨を開いて直に心臓をマッサージする必要がある。

「ハタナカ先生、イソジン」

大谷ケイが消毒液を持ってきた。

「ぶっかけてくれ」

俺が言う間もなく、ケイは小さな患児にボトルのイソジンをぶっかけた。白いなめらかな胸があっという間に茶色く彩られた。ベッド上は濡れそぼっている。

「セットがないなら、メスとクーパーくれっ!」

俺の叫びに反応して清潔クーパーが手渡された。柳がメスで皮膚縫合を切開したあと、俺がクーパーで胸骨縫合を切開した。小児は太めの吸収糸で胸骨を閉鎖するので容易にハサミで胸骨を再開胸できる。

「開胸器!」

ちょうど届いた開胸器で左右に開いた胸骨を固定し、手術が終わったばかりの小さな心臓を露出した。拍動がない――。

「心マ開始します」

俺と柳が交互に変色した心臓のマッサージを始めた。


「どうだ」

人をかき分けて入ってきたサワシタが覗き込んだ。慌ててきたせいか清潔キャップは歪み、マスクは紐が完全に結ばれてない。

「心尖部エリアの色が悪いな」

サワシタの呟きに俺と柳は一度マッサージの手を止めて心筋の性状をチェックした。確かにLADに灌流されるはずの前壁から心尖部にかけての心筋は血流が滞っている観を呈している。

「100分の1ボスミンショットしましたが、PEAですね」

CVラインから薬剤投与していたオオガ先生が報告した。

「蘇生に反応しない、となると器質的問題だな」

続いて発したオオガの指摘に、

「レフトコロナリーですね」

柳と俺が異口同音に叫んだ。

「たぶんvolume-filtrationとともに、繋いだレフトコロナリーがキンク(折れ曲がること)したか潜在的なステノーシス(狭窄)が顕在化したんだろう」

サワシタの断定的な口調に皆が頷いた。

「回路できましたでー」

 密かに人ごみの影でPCPS(perctaneous cardio pulmonary support: (経皮的)補助人工心肺装置)の回路を組んでいたヒゲおやじの声が上がった。


 ちなみに蘇生時にこの機械を使用する場合、機能的にはPCPSが名称としてふさわしいが、我々コンジェニチームでは一様に体外式の補助人工心肺装置をECMO(エクモ)と呼ぶことが多い。これは文字通りに訳すと体外式膜型酸素化装置にあたり、肺障害(呼吸不全)による肺の酸素化能が悪化した患者に使用するときの名称としてしっくりくるのだが。ここでは我がコンジェニチームの歴史的呼称に敬意を評してECMOで通させてもらおう――。


「はい、ごめんやっしゃー」

 人ごみが左右に割れて若手のMEたちとヒゲおやじがECMO回路を押して現れた。時間がなかったので無輸血プライミングだ。

「血ぃ洗ってる暇なかったから、このままですわ」

 まずは酸素化された血液を、体中の虚血に陥った臓器に灌流させるために緊急でECMO回路を装着しなければならない。

「よし、アオルタ送血、右房脱血で行くぞ」

サワシタの指示で開胸ECMO装着が開始された。


                 *


 30分後オペ室は沈黙に包まれていた。まるで灰色の靄がかかったかのよう。ティッシュ(手術台)上には勿論ジャテンを終えたばかりの患児がいる。15分前にICUで緊急開胸ECMOを装着して、そのままオペ室へ帰ってきばかりだ。幸いなことに乳酸やCK値は上がり止まり、瞬間的な全身の虚血状態は脱しつつあった。そこでハイブリッドの透視装置を用いて、ECMOフローを一度止めたうえで冠動脈の造影検査を行なったところだ。その結果を見てこの場を沈黙が支配した。

「LAD本幹が細すぎやね…」

小児循環器荏原医師がその静寂を破って発した言葉が更に空気を重たくした。そう、明らかに吻合した先の左冠動脈が全体に渡って細くなっていた。

「やはり壁内走行のコロナリーだったのが関係あるのでしょうか」

江原医師と造影検査を担当した小川女史が誰にともなく質問した。

「――わからん。しかし繋ぎ直すのは無理だ」

いつになく静かな声で応じた石神の言葉に皆の視線が集まった。

「細くなっている上におそらく攣縮もしている。過剰なカテコラミンのせいか、手術の侵襲のせいか。。。どっちにしろこのままでは心尖部から壊死に陥ってしまう」

サージョンの言葉に一同は声を失った。いつも自信満々の石神の言葉がテクニカルな面において的を得ているのは皆が認めるところだ。

「体は血が通っても、心筋がもたない――!?」

悲鳴にも聞こえる小川女史の言葉が更にその場に佇む医師、コメディカルの心に響いた。


「え、手術的に出来ることは他に無いんですか」

思わず口走った俺をジロリと厚いレンズ越しに見やった石神だったが、その後の言葉はなかった。

「ECMOでの管理を続けるしかないということか、とりあえず」

ICU医のオオガ医師が治療方針を麻酔医の仲田医師と荏原医師に確認した。

「せめてバイパスができればいいんですけどねえ」

 ドクターサワシタの発言に何人かが反応して顔を上げたが、言った本人の表情は暗かった。

「でも繋ぐ相手も細すぎるし…」

 そう、心筋を養う血管の途中に血流障害があるのであれば、その部分を越えたところに別の血流を作ればよい、いわゆる冠動脈バイパスグラフト(CABG)術である。   

 成人の虚血性心疾患ではメジャーな手術方法であり、人工心肺を用いないoff pump CABG(OPCAB:オプキャブ)や小開胸でLADだけにバイパスするMIDCAB(ミッドキャブ)などがmodification(変法)として行われている。近年ではカテーテル治療(PCI)が進化したため疾患に対するニーズはかつての数ほどはないようだが。そして小児に対するCABGはほとんど施行されていない。その血管の細さゆえに。

「相手が1mm前後では、な」

 理論的にはリーズナブルかつ唯一残された手法であっても、できることとできないことがある。さすがの石神も首を振った。


「じゃあ、iPS治療はどうですか」

素っ頓狂な声を挙げたのは権田だった。

「虚血心筋を再生と言わないまでも補助してあげれば?」

一瞬、オペ室の時が止まった。これはしかし、未確立の治療に対する不安と期待の思念が駆け巡った結果だった。確かに、でも!?

「まだ、心筋を作ったという報告はない、と思いますけど――」

遠慮がちに小川女子が、荏原医師の方を振り返りつつ言った。

「う~ん、可能性はあるのだろうが…。臨床的にどこまでできているのか」

腕組みする荏原医師に、今度は柳が質問した。

「でも数年前から心筋シートを阪都大学循環器・心臓外科で治験してますよね」

「確か、座和教授と宮河先生の教室だろ」

先進治療に詳しいICU吉田T医師が口を挟んできた。

「でもあくまでも大人のICMとDCMが対象だったと思うけど。小児で唯一治験をはじめようとしていたのが…確か、にしも…」


「西本先生っ!!」

荏原医師、小川女史、カワシタドクター、権田、柳、俺、そして石神の声が重なって一人の人物の名をコールした。みんな循環器に携わっている以上、この話題で避けては通れない巨人だ。と、


「呼んだか~」

渋い声が挙がり、オペ室のドアが開くと共に一人の男がのっそりと現れた。

――誰っ!?

コメディカルとICU、麻酔医師達が注視する中、LED無影灯の光が燦然と輝く頭毛のない叡智の詰まった広い額(か頭)が鷹揚に接近してきた。

「西本先生っ!?」

再度小児循環器軍団から声が挙がった。今度は確信と同時に、なぜここに?という疑問も満載の悲鳴、いや歓喜の声だった。

(え、え? 西本先生?)

さすがの石神も目を白黒させているように見えたのはあながち的外れではないだろう。

「ジーザス、アンビリーバボー」

 ドクターサワシタも驚いたときに無意識に発すると伝説になっていた、アメリカンイングリッシュが本人の気づかないうちにまさか口から漏れていた、とは。

 あまりの驚きと、巨人登場のタイミングであった。


「話は聞かせてもらった。CABGプラスiPS。小児への応用。やろう、やるしかないだろ」

西本からあっさりと発せられた宣言にオペ室内は唖然とした。そして――

「西本先生、なぜここに」

「本当にiPSは臨床で使えるんですか」

「誰がCABGを」

「そこまでiPSは進んでいるのですか」

「先生、オペ室ではきちんと帽子被ってくださいね」

一斉に質問や冷静な指摘?が飛び交った。それらに一つ一つ丁寧に答えつつ、ということはせず、曖昧に肯きながら西本は石神の前に立った。

「石神君、やるか」

「西本先生――。一緒にお願いできますか」

微かに石神が頭を下げた。声にならないどよめきがオペ室ないに走った。というのは――。

 かつて2人は国立循環器病センターで一緒に働いたことがあった。無論西本が年長であり、いわゆる石神とオーベン・ネーベン(師弟)関係だったというが、そこは唯我独尊の集団である心臓外科医たち。経験を積んで技術が進むにつれ、自分が一番という自負から、先輩・後輩は関係なく、良き仲間であった一方で、お互いがライバルであり日々切磋琢磨しながら黎明期の心臓外科、特にこの2人はまだ未知の分野であったコンジェニタールの臨床に勤しんできたのである。ある期間を過ぎると最早実力主義の世界であり、下世話に言えば手術が上手いほうが上。そして若くして卓越した技術で追随を許さなかった石神遼一は上下十年以内の同年代のコンジェニタールサージョンの中でも確固たる位置を締めていたのであった。その石神が自ら頭を下げるとは――。チームを組んでの付き合いの長いドクターサワシタですら目を剥いた。果たしてレジェンド西本英明の実力はいかに――。


 方針の決定したオペ室内は、鮮やかな色彩を取り戻したかのように動き出した。

 


 

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