第9話 TGA その2
新生児は生後肺高血圧がしばらく続く。術後管理のためにもこの時期を乗り切ってから心臓手術した方が血行動態は安定しやすい。その間、経カテーテルバルン心房中隔壁裂開術(BAS)を行い、左右の血流のシャントを十分に確保し、チアノーゼ進行を食い止める。また4D-CTを駆使して冠動脈の厳密な評価を行い、ジャテン手術の肝である冠動脈移植のシュミレーションを行なった。形態的には冠動脈洞1(sinus 1)から右冠動脈(RCA)が起始しており、sinus 2から左冠動脈(LCA)が起始しているノーマルタイプ。いわゆるShaher (シャヘール) 1型だ。問題の術後新大動脈弁となる現肺動脈弁は正常に比してやや狭小の73%オブノーマル。条件としては総合的に見て、イケルはずだ。後は新生児特有の組織や生体の脆弱性の問題。ノウハウを知り尽くした、ここ関西医療センターの手術部と集中治療部なら乗り切れるはずだ。
手術前のコンジェニチームだけのカンファ。繰り返し4D-CTを見ていた沢下ドクターがつぶやいた。
「もしかしたら、左冠動脈は壁内走行かもしれない…」
画像診断が進歩したとはいえ、検査が実際の生体における解剖構造をすべて反映しているかといわれると、いつの時代になってもそうではない。機器の精密な解像度は診断力を飛躍的に向上させたものの、やはりバグはある。それを臨床所見や経験値と照らし合わせて、総合的な診断を下すのは結局われわれ医師―人間ということになる。材質や器具が進歩して、どんなに精密な縫合や組織再建ができるようになっても医者自体が廃絶されないのは、このアナログ的な不可侵領域が存在するからであろう。徒弟制度という前時代的な遺物である外科医が存続する意義がここにあるのではないだろうか――。
「――なんだって」
小児循環器内科の荏原(エバラ)医師がずり下がったメガネを押しあげてモニターを見つめなおした。本日は部長の村中医師は出張のため不在。そこで副部長である荏原医師が小児循環器内科の責任者である。隣に位置する小川女子も一緒にのぞき込む。
「そうは見えへんけどなあ」荏原医師は首を傾げる。小川女史も反応なし。
「いや、オーストラリアのロイヤルホスピタルで同じようなコロナリー走行をしているTGAを見たことがあるんですよ」
ドクター沢下は3年間臨床留学していた経験から各種疾患の豊富なバリエーションを知っている。
「肺動脈が狭小だとココにスペースができるんで、その分コロナリーが通常と違う位置に開口して…」
最後はブツブツと独りごとのようになったが、みんな聞き耳を立てていた。
「いや、可能性は常にある」
石神がおもむろに発言した。
「だが、現時点では画像上はノーマルの判断でいいんじゃないか」
比較的マイルドにその場を丸めたことに一同驚いたが、これも現場を無数に見てきたサージャンの余裕だろうか。
「サワシタ、心に留めておく」
ようやく得心したように頷いた沢下ドクターに目を遣りながら、さらに石神がその場で尋ねた。
「他になにかあるか?」
すかさず柳が挙手して口早に告げた。
「事務からさきほど連絡があったんですけど、他病院から見学希望のドクターが来られるそうです」
これはよくあることだ。希少な手術はどこからか情報を察知して、周辺から見学に集まってくる。
「オーケー、いいとこ見せよう」
石神が立ち上がった。
「お願いします」
見送る荏原医師たちが軽く頭を下げた。
「行くぞ」
一斉に沢下、柳、権田、そしてオレが立ち上がった。いざジャテンへ。
*
無数のLEDを灯した無影灯が光をオペ場に与えた。清潔手袋を履いた両手を左右に開いて石神がサージャンの位置に立った。オペ室はシアター。そして主役は外科医。
スポットライトを浴びた石神がブロードウェイの舞台に立つアクターに見えるのはこれが初めてではない。が、その姿は神々しくさえ見えると言えば、言い過ぎだろうか。
前立ち(第一助手)沢下ドクター。第二助手オレ。麻酔科の位置する患児の頭の向うには経食道エコーのプローベを持った小川女史が立っている。その横には麻酔科仲多ドクターと吉田Jドクター。直介ナースは國生さん、外回りには室岡ナースと都築さんのダブルチームで臨んでいる。人工心肺担当の臨床工学士ヒゲおやじの隣に柳がデジタルカメラとデジタルビデオカメラを持って立っており、壁際の術野モニター操作板横には権田が大きな体を丸めて、セッティングを行なっていた。
タイムアウト、消毒が終わった。舞台が静謐に包まれた。
「TGAに対するジャテン手術、よろしくお願いします」
石神の低音での宣言に続いて手術室が一斉に動き出した。
「お願いします」
白い新生児の胸部正中に薄く皮膚切開のラインが入ったかと思うと、またたく間に胸骨切開、開胸、心膜つり上げと進み、大動脈と心臓がexplosureされた。見事なTGA、大血管転位だ。いわゆるd-TGA(dextra position)、aorta(アオルタ:大動脈)がPA(肺動脈)の右前に位置している。そして外見上はAo(aorta)基部より術前画像診断通りの冠動脈(コロナリー)が左右に起始している。
「ふむ…LCAが少し高位から出ているか。剥離をしっかりしないとキンク(折れ曲がってしまうこと)してしまうな」
「――ですね」
石神の呟きに沢下が同意した。
「しかし思ったよりLCAがhigh take offでしたね」
ドクター沢下の意見に、今度は石神が同意した。
「Ao基部の脂肪組織が発達していたから画像処理上、valsalvaからの距離が普通にみえたのかもな」
実際、患児の左冠動脈は通常起始するvalsalva洞より少し上に位置していた。すなわちほぼST junction付近であった。解剖学上、このような走行をしている時は大動脈の壁内を冠動脈が走行してから外へ出ていることが――少なくない。
「少し嫌な感じですね」
小声で沢下がコメントした。おそらく上記の意味を含んでのことだろう。
「経食でもわかりにくいですね」
小川女史が頭元から口を挟んだ。
「ま、開けてみれば全てがわかる」
話しながらも石神の手は寸毫の遅滞も許さず、Ao高位に送血管挿入用のタバコ縫合をかけ、Aoをテーピングし、沢下のフォローの下、SVCとIVCにもタバコ縫合を掛けていた。
「よし、ヘパリン。回路準備」
息つく暇も無く、俺は回路のエアー抜きをして、ヒゲおやじに合図して回路内循環を止めてもらって回路を切断し、送脱血の準備をした。その間、吉田J先生がsystematic heparinaization(ヘパリン全身投与)を行い、2分経過のコールをした。ACTも程よく伸びている。
「送血管」
短いオーダに反応して國生さんが最適の角度でカニューレを石神に手渡す。
一瞬の小切開の後、あっという間に小さなAoに送血管が挿入された。回路をつなぐ。
「圧OK」
ヒゲおやじに続いて石神がコールする。
「送血可能」
続いて数秒でIVCに脱血管が入り、ポンプ(人工心肺)オンとなった。左右肺動脈を可能な限り剥離し、後に肺動脈をAo前面に持ってくる(Lecompte:ルコン法という)、そのときにtensionがかからないように準備する。SVCに脱血管が入り、ポンプはtotal flowとなった。引き続きAo基部に心筋保護液注入のためのルートを挿入。
「Ao clamp, arrest(大動脈遮断、心停止)」
心筋保護液が注入され始めた。新生児は微妙な量と抵抗を感じるために機械による注入ではなく人的手押しだ(オレが今まさにシリンジをゆっくりと押している)。
局所的クーリング併用として、沢下ドクターがゲル状のアイスクーラーを心室周囲に置いた。かつてはカレースプーンで心室周囲にサクサクの氷(心筋保護液を凍らして砕いてシャーベット状にしたもの)を入れていたが、部分的に冷却の差が出るうえに稀に横隔神経麻痺や心筋障害をきたすことから、国立ハートセンター研究所にて長年の改良の結果、個々の心室形態にフィットした上、拘束障害を起こさずかつ均一に冷却できる、ゲル状の冷却アイテムが開発されたのである。しかし、こればかりはかつて『京大方式』と言われた、氷漬け心停止法が脈々と受け継がれているとしか言いようがない。冷やすということは組織にとって酸素消費量を抑えるため、虚血に陥った心筋を保護とするいう点では原始的だが確実だ。
次第に心拍動が緩やかになり、心電図が伸び始めた。アレスト――ようやく心内操作が始まる。
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