第10話 TGA その3 

 西本廣文はかつて日本を二分した論争の西の雄である。コンジェニの究極の疾患に左心低形成(hypoplastic left heart syndrome: HLHS エッチエルエッチエス)があるが、この心内修復にあたって、初回姑息術(準備手術)にNorwood(ノルウッド)手術がある。ドクターノルウッドが始めたオリジナルは、肺血流維持の方法にBTシャント(ブラロックートゥーズィッヒシャント=鎖骨下動脈―肺動脈短絡術)を用いていたが、西本は右室―肺動脈導管(RV―PA conduit)を用い始めた。ノルウッドの亜型としてノルウッド自身もそのような方法は記載していたが、西本はBTシャントでは肺血流の調節が難しいという自験例からこの方法を重ねたわけだ。そして当時の世界でも類を見ないほど、好成績を残した。

その一方でBTシャントを用いて十分上手くいくという東日本を中心とする報告もあり、結局お互いに、いや日本、世界中で切磋琢磨し合ってコンジェニの黎明期から創成期、熟成期へと時代がすすんだといっても過言ではない。


「―― しかし、時代には敏感でないと、な」

西本の呟きは、機を見て敏とする絶え間ない努力が更に術式発展や予後改善につながった原動力そのものであろう。時代は若手にシフトしているものの、機会があれば近郊の興味あるオペに顔を出すのが彼の日課であった。

「ふむ、今日はジャテンをしているのか――」

手元のリストにある関西医療センターの文字に目が止まった。



 順調に手術はすすんでいた。大動脈離断、肺動脈離断。危惧していた肺動脈弁輪径は意外と大きく、術後狭窄を心配する必要もなさそうだった。

「――しかし、アレスト下での状態だ。ここはvalve sparing(バルブスペアリング)でいくか」

石神の呟きに前立ちのカワシタが首肯した。

「そうですね、AR(大動脈閉鎖不全=逆流)も予防できますし」

麻酔科側から見ていた、吉田Jドクターが、同じく傍にいた小川女史を見やった。しかし小川女史も微かに首を傾けた。二人の視線は術野を石神の背中後ろに足台を置いて覗き込んでいた柳に向けられた。視線を感じた柳が、足台を降りて患者頭側へ回り込んだ。

「柳先生、バルブスペアリングって?」

吉田J先生の問いに、我が意を得たりと柳が説明を始める――。

「要は、弁輪径を大きくする術式の一つで、均等にSTジャンクションに切り込みを入れてそこに自己組織である、大動脈吻合部断端を縫い合わせるんです。それで立体的にも綺麗な冠動脈洞ができて、また弁尖自体も中央で合致するので術後cetaral(弁中央)からの逆流も減るということになります」


 特に冠動脈を移植する手術を伴う、ジャテン手術では冠動脈開口部(ostium: オスティウム)がある大動脈壁部分の少しマージンをとってくり抜き“ボタン”とするわけだが、それを元々の肺動脈弁+離断した上行大動脈中枢側との吻合=新大動脈弁+新上行大動脈~大動脈弓に至る、に吻合しなければならない。方法は色々あるが、例えば先に旧肺動脈弁と上行大動脈を吻合した大動脈ルートにパンチャーと呼ばれる、孔をくり抜く器械で吻合孔を二つ作り、そこに冠動脈ボタンを縫着するやり方が一つ。他には旧肺動脈に2か所切開を入れて(場所は元々の冠動脈を旧大動脈から平行移動させて、冠動脈がねじれたり引っ張られたりしないところ)、そこに出窓のように冠動脈が突出するように縫いつける方法(ベイウィンドウ=出窓)などがある。


「本当に、人間の体って不思議ですよね。冠動脈のostiumも冠動脈洞(coronary sinus:コロナリーサイナス)から出てるわけですが、その膨らみがないと、上手く拡張期に血液が流れないんですよ。その絶妙な流体力学が、非常に滑らかに形成されているんです。人体の神秘だなあ。神の創り賜う人間の体――」

うっとりとした表情で、吉田J先生と小川女史の体、胸の辺りに舐めるような視線を送って見回す柳に、二人の女医は思わず胸を両手で覆って顔を見合わせた。

「――ということで、そのvalve sparing方法は、生理的な冠動脈血流を保つにもちょうどいいし、弁輪自体も自己の組織のみで大きくできるということなんです」

 割り込んできた権田があとの話を引き取った。

「元々は大血管手術、重症な大動脈閉鎖不全と大動脈弁輪拡張症候群(aortic annulo ectasia)に対して自己弁温存手術の一つとして行われてきた方法です」

 なるほどー、と頷く女性医師二人の姿に権田も勢いづいて

「もっと詳しい話なら、今日の夜でも食事がてら勉強会でもしますか、この3人で」

静かに手術していたと思いきや、そば耳立てていたのは俺だけではなかった。

権田が視線を術野に戻すと、そこには目を剥いた石神とカワシタドクターの無表情な凝視

が待っていた。

「権田ぁ、偉くなったな。わかりやすい説明ありがとう」

石神の吐いたセリフが権田を直撃。

「あ、いや、吉田先生、小川先生、もっと詳しい話なら、石神部長が是非と…」

しどろもどろの権田に追い打ちをかけるようにカワシタドクターが声を掛けた。

「権田先生、余裕がありそうだから、課題の抄読会の担当ペーパーもう一つ増やしとくねー、よろしく」

 驕れるものは久しからず。

(お二方さん、詳しい話なら、この俺が…)

緩い思念を打ち破ったのはカワシタドクターの呟きだった。


「あれ、LCAのostiumと思ってたらただのリッジですね、これは…」

「なに」

石神の返答と共に、オペ室全員の意識が術野に集中した。

権田が天井にある術野カメラを操作版で操作してズームアップにする。

大動脈切開部の基部、すなわち大動脈弁直上の冠動脈洞、冠動脈ostiumがクローズアップされた。勿論手術に入っている我々3人は直視下で凝視した。

「――これは」

石神が呻いた。典型的な左右cuspから左と右の冠動脈が起始していると思いきや、左の孔に見えたのはただの大動脈壁の皺の影に過ぎず、実際の孔はなかった。

「壁内走行だ」

石神とカワシタ二人の声が重なった。

一瞬の沈黙がオペ場を支配した。

「――カワシタの言った通りだったな」

気を取り直したように石神が言葉を発した。

「だが、想定の範囲内だ。やることは一緒だ。行くぞ」

石神の一声で、再びオペが動き出した。


 冠動脈が大動脈の壁内をしばらく走ってから開孔していたらどうなるか。冠動脈の移植で最も恐ろしいのは、冠動脈が捻じれたり折れ曲がったりすることである。一般的によくある(あってほしくはないが)、成人の心筋梗塞という病態は冠動脈の狭窄や閉塞で起こりうる病気であるが、たいてい基礎疾患である糖尿病や高脂血症、高血圧などの影響でプラークと言われる粥状硬化が経時的に進行して発症する。誘引は寒冷であったり過大な運動負荷であったりするのだが、冠動脈の狭窄によりその時点で必要とする酸素量を十分に供給できないとき胸痛や肩こりなどの症状が発現する。

これに対して、物理的に一瞬で冠動脈の血流を遮断するという現象が起こればどうなるであろうか。一瞬で心臓が動かなくなるのである。そう、頓死である。心室細動など致死的な不整脈が介在するときもあるが、冠動脈血流遮断が解除されなければ待つのは死のみである。ジャテン手術の死因はそこに尽きるといっても過言ではない。壁内に冠動脈があるということは、同動脈のフリーに剥離できる部分が少なくなるということであり、術後冠動脈屈曲やそれによる狭窄・閉塞が突然起こる可能性が高くなるのである。実際は、この状況に応じた手術方法があるにはあるのだが(Mee法や二階堂法など)。サイズが小さいと勿論難しい。

「とにかく、剥離を可及的にして――」

カワシタドクターが確認した。

「つなぐ方法はパンチアウトがいいかもしれませんね」

「それをするにしろ距離が稼げればいいが。コロナリーボタン作成もLCA内腔を傷つけないように慎重に行こう」

珍しく石神の額に汗が滲んでいた。

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