第11話 TGA その4

 冠動脈の移植を終了し、旧肺動脈と切断した上行大動脈中枢側を吻合し新大動脈を完成。更に左右肺動脈を大動脈前面に持ってきて(Lecompte: ルコン法)、自己組織のみで冠動脈をくり抜いた後の旧大動脈基部と吻合し新肺動脈も完成した(Pacifico:パシフィコ法)。手術は淡々とすすんだ。

 しかし、誰もが知っていたが、アレスト下での組織のマージン(余裕)と血液が満ちたうえで、心拍動を始めたときの組織の張りは全く異なる。特に小児では心腔内に入るvolume量でまったく心臓の大きさや動きが異なってくる。結局アレスト解除して、動き出した心臓を見ないと果たして手術にて作り上げたdimension=立体構築が正しいかどうかわからないのである。壊れたパソコンを直して、作動するかどうかは電源をつけるまでわからないのと同じだ。ただし、パソコンは何回でも電源を切って修理を繰り返すことができるが、心臓はそうはいかない。何度も心臓を止めていると本当に動かなくなってしまう。アレストの許容トータル時間は4時間。心筋保護方法が改善された現在でもせいぜい6時間までが人的停止後の確実な心拍動再開を得ることができるタイムリミットであろう。果たして――。


 Airを抜きつつ心房中隔を閉鎖し右房を閉じて心内操作は終了した。アレストタイムは2時間ジャスト。

「よし、復温開始」

 石神の合図と共に人工心肺と患児下に轢いた温マットの設定温度が上げられ、患者に対する加温が始まる。あまりにも体温が冷えたままだと大動脈遮断を解除しても心臓は動かない。因みに冠動脈に心停止中に灌流する心筋保護液は冷却されているが、果たして4°C前後で速やかに心臓は止まるという。保護液の注入イコール実際心臓を止める役割ではないのだが(大動脈遮断による冠動脈血液灌流のストップが実際の心停止の原因だが)、4°Cでハートを止めるっていうニュアンスは、素敵な貴金属アクセサリーで貴女のハートを射抜くっていうおしゃれなネーミングに何か関係あるのかも――。

「――ハタナカッつ! おいっつ!」

 柳の怒声で我に返った。いつの間にかオレの背後に立って叫んでいる。

 ジロリと石神が俺を睨んだ。

「遮断解除の準備はいいかと聞いているんだがな」

 ――いつの間にか妄想の世界に入ったらしい。昨日緊張してあまり眠れなかった影響か!?

「ルートベントつないでいます、OKです」

 内心慌てていたが、冷静なフリをしながら返事して心筋保護液ルートをベントチューブに接続した。勿論チューブはまだ噛んだままで吸引はかけていない。これは大動脈遮断解除とともに流れるairを大動脈基部から吸引して頭を始めとする全身に空気塞栓を作らないようにするためだ。

「行くぞ。アオルタデクランプ」

 石神の宣言と共にMEのヒゲおやじが一瞬人工心肺フローを半減させ、石神がそのタイミングで上行大動脈を噛んでいた大動脈鉗子をゆっくりと外した。心停止の終了だ。2時間もの間塞き止められていた冠動脈血流が流れ始め、つないだ新しい冠動脈が張りを見せた。急速に心筋が赤色を帯びてくる。

 ――ドクン。

 一発心臓が拍動した。皆の視線がわずかピンポン玉のような大きさの心臓に集中する。

(頼む、動いてくれ)

 おそらく誰もがそう思っているに違いない。

 ――ドクン、ドクン。

 続けて新生した心臓が動き続けた。

「よし、ゆっくりフローを戻していけ」

 石神の額にも汗が滲んでいた。

「CVP(シーヴイピー:中心静脈圧)5」

 ヒゲおやじの声までが遠く聞こえる。

「よし、7まで上げてキープ」

 石神の指示に、回路チューブを噛んでいる鉗子をゆっくりと絞るように開けていくヒゲおやじもいつになく無駄口がない。一度急激に心臓が張ったら終わりだ。

 しかし皆の心配をよそに小さな心臓は動き続けた。

「コロナリーのキンク(捻れ・折れ)もないようですね」

 ドクターサワシタが鋭い視線を注ぎながら言った。

「アオルタへの吻合位置も最適だ」

「お、珍しくサワシタが褒めてくれたな」

 少し余裕の出てきた石神の言葉に大仰にサワシタがのけぞった。

「何を言ってるんですか、先生。僕はいつも先生のことを尊敬していますよ」

「・・・」

 復温も進み、快調に拍動は続いている。

「よし、ポンプオフの準備」

 吉田J先生がペーシングレートを少しずつアップした。

「AOO(エーオーオー)レート100です」

「よし、カテコラミンは?」

 すかさず仲田ドクターが答える。

「イノバン4ガンマ、ドブ4ガンマ、ミルリーラ0.3ガンマです」

「よし、1本脱血」

 コールと共にSVCの脱血管チューブを俺はクランプした。心臓への還流が増えた分、心臓に少し張りが出る。

「CVP7キープだぞ」

「アイアイさー」

 ヒゲおやじの口調もいつも通り滑らかになってきた。

「よし、ポンプオフ。脱血止め、送血止め」

 IVCの脱血管をクランプした。術野からはまだ出血する分は心臓のボリュームが失われるので、時々送血管からは血液を送らなければならない。

「CVPキープだぞ」

 再び石神が同じフレーズを口にした。モニターを睨んで慎重に送血を絞りつつヒゲおやじが応じている。

「ユキちゃん、エコー頼む」

 石神の声に、心臓をのぞき込んでいた小川女史が我に返ってエコー機器に取り付いた。

「LV良く動いています。Asynergy(アシナジー:動きの異常)ありません。ARなし。PAフローも左右良好に拾えます」

「コロナリーフローはどうだ」

 矢継ぎ早に所見を述べる小川女史に肯きながら石神が重ねて尋ねた。

「同じ角度では切れないですけど。あ、ライト(右)は見えました。流速の加速はないです」

「左は?」

 ドクターサワシタが口を挟んだ。

「オスティウム(開口部)がわからないんですが…。末梢は良好に流れてますし、LVの動きもいいです」

「ま、壁内走行で吻合したばかりだから見えにくいか…」

 石神の呟きに皆が(ふーん)とばかりに同意した。

「よし、サワシタ後は頼んだぞ」

 石神が手を下ろした。

「小百合ちゃん、ありがとう」

 國生さんに一言礼を言って、ついでに彼女の手を素早く握って石神は手術台から離れた。素早い早業に誰もが唖然としたが、はっきり言ってみんなにしっかり見られているとは流石の石神でもわかっていない。スマートなようで少し抜けているのが石神遼一、58歳だ。

「柳、入れ」

 ドクターサワシタの声に、ほいきた、とばかりに柳が手洗い場へ駈けて行った。


                 *


「いやあ、しかし今回はドクターサワシタの慧眼だったね」

 ICUのカンファレンステーブル周囲に集まった医師群の中から小児循環器科副部長の荏原が声を上げた。

「小川くんから連絡受けたときは、飛び上がったけどね」

「連絡って?」

 ICUのアンジェリーナこと大谷ケイが質問した。

「コロナリーが壁内走行だったってこと」

 すかさず柳が答えた。

「まあ、術前のシネ見たときから、なんかこれはオカシイぞって思ったんだよね」

 ニンマリとサワシタが一人で頷いていた。

「さすがですねえ~、サワシタセンセ」

 これもすかさずオペ場から申し送り係としてICU搬送にそのまま着いてきた都築萌が声を上げて賛辞を送った。

「お、都築さん。ま、わかる人にはわかるんだけど。都築さんもわかる人かな~。今度おいしいスペイン料理のお店に行って、詳しく教えてあげようか」

 俺と柳と権田が一斉に目を剥いた。おっと、テーブルを挟んで立っていた石神も、だ。

「ホントですかぁ~」

「やった~」

「ラッキ~」

 愛らしい萌のセリフにいつの間にか被って返事を付け加えたのは、なんとオペ場の番人、室岡ナース&草坂ナース。

「都築さん、何油売ってんの。帰って来るの遅いから草坂さんと探しにきたわよっ」

 室岡さんが腕組み仁王立ちで、はちきれんばかりのその豊満な?体を壁のように怒らせた。

「じゃ、サワシタセンセ、明日ハナキンだし、私たち予定空けておくから」

 振り返ってサワシタに流し目?を送りつつ一瞬で口調を変えるところが恐ろしい、番人たち。いやさすがです。。。

「と、いうことで、ヨ・ロ・シ・クぅ~」

 ん、少し恫喝入ってないか? その場の皆に戦慄が走った中、首根っこをつままれたウサギよろしく都築萌を引っ立てて室岡・草坂コンビは巨大な腰をフリフリオペ場へ戻って行った。

 振り返るとサワシタはあんぐりと口を開けたまま、真っ白になって固まっていた――。

「さ、さすがやな、サワシタ先生――」

 思わず関西弁でどもった荏原先生の言葉も空しく、そこには一陣の秋風が吹く場面しかなかったのであった。

(ご、ご愁傷さま~)

誰もが心の中でドクターサワシタのために祈っていた――。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る