第5話 TOF テトラジーオブファロー:ミッシングバランス

「ハタナカ先生、ファローの4つの病態ってなんだっけ?」 

いつもながら、ミスターハーフこと沢下ドクターの質問は時と場所を選ばない。ここは病院3階の職員食堂。我々はブッフェタイプランチのために並んで好きな料理皿を選んでいるところ――。

「心室中隔欠損、肺動脈狭窄、右室肥大、大動脈騎乗、です」

「じゃあ、ファロー5徴は?」

うっ、そうきたか。

「心房中隔欠損、ですよね」

いつのまにか、我々むさくるしきコンジェニ軍団の後ろにICUのナーシーズが並んでいた。スラリとした美人の大谷さんがルージュを引いた肉感的な唇を突き出して答えを紡ぎ出した。やはり和製アンジェリーナジョリーだ。

「当たり~。合格のご褒美に、大谷さん、向こうで僕と二人でランチ食べよう」

どさくさに紛れてミスターが誘っている。全くこの科の人たちは(部長をはじめとして)隙がないっ。

「大谷さあん、ここ空いてるよう」

間延びした声は先に着席したジャイアンこと権田か。ブルータス、お前もか。

ここはひとつ、俺も――。

「ハタナカ君、あとで5徴の時の病態の違い聞くからねー」

「あ、う」

機先をミスターハーフに制されてしまった。

「さあ、さあ」

すかさず金髪、柳も大谷さんの椅子の背を引いて如才無く応対している。

(お前ら、そのマメさを仕事にみせろよ~)

叫びたくなる衝動を抑えて、どうにか俺も流れに乗らねば。。。しかしいつのまにか権田の広い背中から無言の圧力が発せられ、俺にあっちに行けと追いやる雰囲気満々だ。

「あらあ、空いてるの、じゃあお邪魔するわね」

大谷さんと似ても似つかぬしゃがれ声と共に、圧倒的な圧力の黒い一陣の軍団が割り込んできた。呆気にとられた権田と柳の前に、そう、この場では救世主としかいいようのない傍若無人振りでオペ場の室岡さん、草坂さんたち熟年軍団が座り込んだ。

(な、ナイスです、室岡さん)

さすがのミスターハーフもあんぐりと口を開けている。

思わずニンマリした俺だったが、

「あらあ、ハタナカクンもいるじゃない」

「空いてるわよ、ココ」

強烈なヒップのひと振りで脆くも弾き飛ばされた権田(!!)の席が、俺の瞳に虚ろに映った。

「この間の夜は楽しかったわね」

ぐわあ、誤解されるようなこと言わないで下さい~。

「へええ、ハタナカ君、室岡さんたちと楽しい夜を過ごしたんだ?」

ICU48(フォーティーエイト)(ネーミング by 柳)の一人、可愛い系ナースの仲村さんが合いの手を入れてきた。

「ふうん」

大谷さんもチラリとこちらを見やっている。

「い、いやあ、手術の反省会をしたとき少し遅くなっただけで…」

なぜかしどろもどろに弁解する俺を尻目に

「行こ、仲村さん」

スラリとした後ろ姿が遠ざかって行く、全身で俺(たち)を拒否するオーラプンプンで。。。


「早く、食べようよう」

室岡さんの一言で現実に帰った我々は無言のまま着席してまるでお通夜のような食事を始めたのであった。むろん、熟女軍団は一方的にしゃべりたてていたが。。。



 本日の症例:1歳女児。疾患はテトラジーオブファロー、ファロー四徴症。

先に述べた4つの構造異常があり、成長と共にチアノーゼを呈してくる。基本的に心室間に欠損孔(VSD)があれば、肺血管抵抗の減少とともに、左室から右室への血流過多となり心不全を乳児期にきたすわけだが、この疾患は肺動脈狭窄があるため右室の庄が上昇して、容易に左室から右室への血流が流れなくなり心不全は自然にコントロールされることになる。しかし肺動脈が狭いということは、肺への血液量が少ないということであり肺が酸素を取り込んで赤くした血液が体へ回る量が少ないということであり、低酸素症状(チアノーゼ)を呈するのである。特に患児が走り回ったりして運動量が増えたときに、全身が要求する酸素化された血液が不足するため、患児は急に立ち止まってしゃがみこんだり、いわゆる蹲踞の姿勢(スクワッティング)を無意識にとり、血流量を増やそうとする。これがアノキシックスペル(無酸素発作)というファローに特徴的な症状の一つである――。


「ふーん。なるほどお。ハタナカクンの説明わかりやすい~」

目の前の仲村さんが少し感心したような口調で俺を見た。ここはICUのナースステーション。オペ患者入室前のオリエンテーションに行くという、仲村さんにつかまって疾患の病態を説明させられたわけだ。

「ていうか、わかりやすいと言われると俺もうれしいな。役に立った?」

俺の問いに、頷いたあと

「ICUって、ひっきりなしに色んな科の色んな疾患の患者さんが来るじゃない。プライマリーは一応つくけど、回転も早いし。なかなか疾患を深く理解する時間がないのよね」

愛らしいうさぎのような門歯をチラリとみせ、仲村さんは口をとがらした。

「じゃあ、今度勉強会でもしようか。知ってる範囲で教えるよ」

「えー、本当!? じゃあ、お願いするわ。でも勉強会っていいながら変なことを教えます~ってノリじゃないでしょうね」

いたずらっぽく睨むウサギちゃんに俺は真摯な態度で否定。

「きちんと教えますって。でもその後おつかれさまーってことで少し飲みに行くのもいいんじゃない?」

「じゃあ、それは考えておきま~す。じゃ、勉強会の方はよろしくね」

病棟へ向かう彼女に声をかける。

「じゃ、準備できたら日取りを連絡するよ」

小柄だが形のいい足を見せて歩いていく後ろ姿を見送る俺の顔は少しにやけているかも――。


「いやあ、危ないなあ。ファローのバランスのようだねえ」

突如肩越しに声がして俺は口から心臓が飛び出そうになった。

こ、この声は。。。

素早い体さばきで振り向いた俺の目の前に、鬱蒼とミスターハーフこと沢下先生が立っていた。

「な、なにが危ういんですか。バ、バランス?」

目を白黒させているだろう俺にミスターは仲村さんの後ろ姿を目で追いながらつぶやいた。

「ファローも肺動脈が細くなりすぎたら、チアノーゼがきつくなるだろ。かといって肺動脈狭窄がゆるいと早期に心不全になるし。左室がトレーニングされるまでは心内修復も危ういしね。時期だよ、時期」

た、例えがわかりにくい――。

「な、何の時期ですか?」

「ん~」

沢下ドクターが日本人離れした茶色い瞳で俺の顔をのぞき込んだ。思わず後ずさる俺。。。

「…オペ場の國生さん、ICUの大谷さん、そしておなじく仲村さん」

――えっ!?

「みんな可愛いし、美人だし、いいよねえ」

!?はっ!?

「色々君も八方美人だから、苦労しそうだなあ。いやあ、心配心配。バランスを崩すとリカバリーが大変だよ」

じゃっ、とばかりに手を挙げて去っていくドクター沢下の後ろ姿。一瞬幽鬼を見ているような気がして、俺はポカンと立ち尽くした。

「オペは14時出しだよー」

去りゆくミスターの声が遠くに聞こえた。


術者石神、一助手沢下、そして二助手俺。柳と権田は閉胸要員だ。

「じゃ、ファロー四徴に対する心内修復、始めます」

「お願いします」

オペ室内には小児循環内科の村中部長も顔を揃えていた。外来で患児を生後よりフォローアップしてきたからだ。心内修復、すなわち手術をして血行動態を正常化するには、左室と肺動脈の十分な成長が条件として必要とされる。疾患の特徴として肺血流が少ないから肺動脈の成長はよろしくない。また肺血流が少ないということは肺を介して左房、左心室へ還ってくる血液も少ないということであり、体へ血液を駆出するポンプである左心室は少ない血液を送るだけで済むのでこれも成長がよろしくない。小さい左心室のまま手術を行うとどうなるだろうか。正常化された心臓により今までよりより多くの血液が左心室へなだれ込んでくるため、小さすぎるポンプは破綻してしまうわけだ。つまり心不全に陥ることになる。

そこであまりにも肺動脈が狭小、左心室容量が小さいときは人為的に肺血流を増やす手段が必要となる。外科手術的に行うのは、シャント手術である。正式名称はBTシャント作成手術。人工血管を用いて鎖骨下体動脈と肺動脈に短絡道をつくる手術である。これにより肺血流は増え、チアノーゼは軽減し、肺動脈と左心室の成長が見込める。

一方内科的手段もある。肺動脈の血流は右心室の出口である肺動脈弁の下で規定されている。出口が狭いので右室圧が上昇する。すると右室の筋肉がぶ厚くなる。すると更に出口が狭くなる。。。心臓が収縮するとぶ厚い筋肉に押されて出口がどんどん狭くなることになる。これをベータブロッカーという薬剤の力によって緩めるわけだ。これでうまくいくとBTシャントをせずに心内修復手術を迎えることができる。今回の患児は、村中先生のタイトな外来フォローアップにより何度となくアノキシックスペルを乗り越えながら、手術まで耐えたわけだ――。


「メス」

無垢な皮膚に正中切開が入る。

「電気メス」

「コッヘル」

「ストライカー」

「麻酔科デフレートして」

静かなシアターにストライカーの振動音が響く。

「インフレート」

「電気メス」

「骨ロウ」

「メッツェン」

「はい、開胸」

「つり上げ」

心膜が開かれ、露出された心臓を患児頭側の麻酔科側から村中医師ものぞき込む。ここまでスペルなく管理している麻酔科の吉田J先生もたいしたものだ。俺がいうのもなんだが――。

「サラの心臓は綺麗だな――」

村中医師のつぶやきにチラと目をやり、石神は上行大動脈(アオルタ)とIVC(アイブイシー:下大静脈)にタバコ縫合を手早く掛けた。もうすぐポンプにのるので、俺はヒゲおやじに声をかけてrecirculationしていたヘパリンコーティング回路を早回ししてもらい、細かなエアーを吹き飛ばした。次いで回転を止めてもらい、チューブ鉗子で噛んだ後、回路チューブを切断する。

「ヘパリン、3ml」

石神のリクエストに目で答えた吉田J先生がヘパリンをCVルートより注入した。

「回路は?」

「できてます」

石神の問いにすかさず答えると

「なかなか早くなったねえ」

無言でいた1助手の沢下ドクターがつぶやいた。お、誉め言葉と取っておこう――。

「2分立ちました」

「ACT、OK」

吉田J先生とヒゲおやじのセリフが被る。

「いくぞ」

素早く術者と前立ち(1助手のこと)の間でアオルタは固定され、メスの切り込みが入る。噴出する血液がないように呼吸を併せて、術者と前立ちのドベーキー鑷子が合わされ、少量の出血を防ぐ。

「引っ張れ」

石神のチラリとこちらを見たアイコンタクトで、アオルタ基部をつまんだムッシュ鉗子を俺が軽くテンションをかけて引っ張った。

幾度となく繰り返された手技だが、この送血管を入れるという場面は、心臓外科の手術手技の最初のヤマ場であり、失敗は許されない。特にアオルタの細い小児においてはその部分に人工のカテーテルが入ることイコール、いわゆるアオルティックステノーシス(大動脈狭窄)という後天的な心疾患と同様の血行動態を人為的に作ることになる。心臓が駆出する血液が細くなったアオルタで規定されるため、全身へ酸素を含んだ赤い血液が十分に巡らなくなってしまう。さらに心臓にとっては出口が狭いわけであるから、後負荷増大となり、より圧を上げた収縮を必要とするため、早晩左室がへたってしまうのである。一言で言うと心不全をきたすことになる。人工心肺を降りた後に、この送血管があるために心臓が立ち上がらない、という現象は小児の心臓手術では少なくないイベントである。それだけにサイズの選定から挿入手技、挿入位置まで緻密にかつ正確に行う必要がある――。

「よし」

スムーズにカニュレーションが終わった。すかさずエアーを抜きつつ、俺の切った送血側の回路チューブを石神がつなぐ。

「送血可能」

「圧OK」

ヒゲおやじがきちんとカニューラの先端が大動脈内に入ったことを、圧力のモニターを確認してコールした。稀に中膜内へ迷入して送血と同時に大動脈解離を起こすことがあるからだ。一瞬の油断もできない。

これでもし血行動態がおかしくなっても、少なくとも機械(ポンプ)で体に血を送れるわけだから少し安心だ。

直介のツヅキ(都築)さん(この娘も3年目にして心臓外科から小児心臓外科へ抜擢されたプラス小柄ながらに目のクリッとした愛すべきナースさんである)は油断せずに次の脱血管の準備に余念がない。

「曲がりドベーキー」

沢下のオーダーにコンマ何秒かで反応したのと、石神の差し出した手掌に直ドベーキー(直ドべ)を渡すのはほぼ同時だ。続けざまに俺に筋鈎、沢下の左手に直ドべ、石神の右手にメスを手渡す。

(ほうっ)

一瞬、ドクター沢下の視線がツヅキさんに送られ、また術野に戻る。俺は片手に金属サッカ(吸引)を持ってIVC周囲の血液を吸って、心膜を肺側へ寄けてIVCを展開する。三方からテンションのかかったIVCに石神のメスが静かに入り、スムーズに脱血用のカニューレも挿入された。

「ポンプオン」回路に脱血側を繋ぎ、エアーがないことを確認した石神が静かな声で宣言した。

「了解」

応じたヒゲおやじの手元で回路チューブを噛んでいたチューブ鉗子が静かに開かれ、徐々に回路内を血液が回り出した。手術開始からポンプ開始まで17分。

人工心肺が勢いを増し、部分体外循環補助が始まった――。


 ファローの手術手技は基本的にVSDの閉鎖、肺動脈狭窄の解除の二点がメインである。VSDの位置は解剖学的に分類されているが、心臓外科医の視点からいうとKirkrin分類よりもSoto分類が有用であり、特にファローではperimembranous-outlet (ペリメン‐アウトレット)が頻度としては多い。更に立体的な孔としてmalalign(マルアライン)していることが多く、平面の孔を閉じるというより、段違いになった構造に渡る孔を閉じるというイメージとなる。勿論、三尖弁周囲から直下、右脚をぬけて左脚へ走る刺激伝導系を障害すると電気的心房―心室ブロック(AVブロック)となり、術後心機能に大いに影響するためリークなく、ブロックを作らず、三尖弁を歪ませず、VSDを閉じることは非常に高度な緻密性が要求されることとなる。

 第二の手技、肺動脈狭窄解除。肥厚している肺動脈弁下狭窄を削る。これは右房切開から三尖弁越しのアプローチと、右室切開しての心室側からのアプローチの二種類がある。二つを組み合わせたアプローチもある。右室を切開すると視野は広がるが、右室の機能は切られた分損なわれる。切開長が長ければ長いほど術後の心機能の落ち込みは著明になる。できるだけ右冠動脈の枝で、右室全面を横走する円錐動脈(コーヌスブランチ)を途中で離断しないように右室切開ラインを置くが、肺動脈弁下狭窄を解除するためにはぶった斬ることもある。更に切開した右室から内腔をみて、肥厚している心筋をスライシングする。これもぶ厚い筋肉がなくなるほど、狭窄は解除されるわけであるが、筋肉が薄くなるということは収縮力が低下するということになるので、程度というものがある。そしてこればかりは経験から得ないとわからない。

ミスターハーフこと沢下先生も何度か、この医療センターでファローのオペをしている(のを俺も見たことがある)のだが、このスライシングの程度はまだ会得していない(――ようである。ヒヨッコの俺が言うのもおこがましいが)。術中手技は心停止下に行うが、すべて終わって、大動脈遮断を解除して、さらに人工心肺を離脱したときにその効果はすべて白日の下に曝されるのである。すなわち――、不十分な狭窄解除では肺動脈―右室間に圧差が残り、心臓がへたってしまう。俺たちの言葉でいうと、デコンペってしまうのである。かといって、削りすぎると、これまた静脈圧が上昇し(正確に言うと、右心機能がイマイチなのでそれだけの容量負荷がないと働かない、結果として高い静脈圧が必要となって)、トータルとして心機能は落ちてしまう。人工心肺を離脱できたはいいが、術後長期に渡って強心剤(カテコラミン)を投与し続ける羽目になる。話は戻るが、ドクター沢下のファロー術後は、殆どの確率でセカンドポンプランとなってしまう。それは結果からみると心筋を削り足らないのであり、最初のポンプオフまではスマートな手術で、進行も滑るように進むのだが、最後の詰めで、再ポンプ、再アレスト、右室再切開と、1時間前に手術が戻ってしまう。バックトゥザフューチャーならぬ、バックトゥザパスト、いやフューアウアーズアゴウ、まるでタイムマシンかデジャヴオペレーション…。


「――おい、ハタナカっつ!」

気がつくと目の前に、その人、ミスターハーフこと沢下ドクターの彫りの深い顔があった。あ、色々考えているうちに次の心筋保護液注入の時間か。これも2助手の仕事。念のために言っておくが、以上の長々した考えは、走馬灯のごとくほんの一瞬の間の出来事である、あろう、たぶん。

「ハタナカ先生保護液足ります?」

直介のツヅキさんの可憐な声が俺を現実に還らせた。

「大丈夫です、保護液追加注入します」

30分おきの心筋保護。昔はこの保護液も粗悪であり、手術は上手くいっても心筋保護がイマイチでポンプオフ後立ち上がらずに失った症例もたくさんあったらしい。コンジェニもようやく黎明期から明けたばかりの1990年代が最盛期であり、様々な術式が生み出されまた適応も拡大していった歴史がある。このファローは複雑心奇形のなかでは比較的早期に術式が確立され、安定した成績を保持していたが、それでも各施設、各術者ごとに細かな手技の部分は異なり、それが成績に反映される。当センターでは再生医療の盛んな阪都大学心臓血管外科教室の流れを組み、右室流出路パッチにiPSで再生した肺動脈壁を用いる。これ自体が成長する内皮細胞を持ち、ずり応力を生み出し血流を滑らかにする。その結果術後の抗血小板薬は不要であり、またパッチが成長するため患児成長に伴って以前は必須だった流出路交換の手術(再手術・リオペ)率もほとんどゼロに近くなっている。その一方でリモデリングの進行のフォローアップは当センターでも厳重に外来通院にておこなっているが。


「よし、コンプリート」

石神が宣言した。すでに大動脈遮断解除後、人工心肺心拍動下に肺動脈パッチを縫い上げた。縫合ラインの出血も少ない。まるで元からあった肺動脈のような彎曲を呈してiPSパッチが蠢いている。

「復温は?」

石神の問いにヒゲおやじと麻酔科吉田J先生が頷いて、その答えとした。

「1本脱血」

SVCの脱血管が抜かれ、心臓に還るボリュームが増え、右心が張った。機嫌良く右室も動いているようだ。

「右室流出路、モザイク血流なし」

部分体外循環下では半分はまだ脱血されているので、完全な所見ではないが村中ドクターの経食道エコーの途中経過報告だ。この時点でモザイク血流=狭窄があったり、VSDパッチのリークや弁逆流があったら、とてもポンプオフはできない。

「カテコラミンは?」

「ドブ3ガンマ、ミル0.2ガンマです」

吉田J先生の答えに頷いた石神がヒゲおやじに背中越しに指示を出した。

「脱血ハーフ」

「ヘイヘイ」

「4分の1」

「ヘイ」

血行動態は変わらない。

「ポンプオフ」

「はい、噛んだ」

ヒゲおやじが回転数ダイヤルをゼロにして、チューブ鉗子で脱血管を噛んだ。俺もすかさず術野の脱血管を同様に噛んだ。

「狭窄、逆流ノットディテクト。エクセレント」

村中医師の弾んだ声が響いた。

「止血確認、圧測りして閉胸」

石神が鋭い視線でモニターを確認した後、俺とドクター沢下に指示を出して術野を後にした。



「――いやあ、今日こそ心筋切除のやり方をマスターしたよ」

沢下が俺たちを振り返って言った。

 患児をICUに連れてきて、一通り面会も終わり、ドレン出血量をチェックした後だ。俺と柳と権田は顔を見合わせた。

「確かに残す部分と削る部分のバランスが難しいですよね」

合の手の名人、柳が金髪頭を上下に動かしながら、さも判ったように言葉を発した。

「沢下先生はセカンドポンプが多いですもんね――痛てっ」

思わず口を挟んだ俺のスネを横あいから小柄な影が蹴飛ばした。

「本当に、今日はよく術野がみえましたもんね。サワシタセンセの展開がよかったからじゃないですか」

可憐な声でカバーしたのはツヅキさん。術後の患者チェックにオペ場からICUを訪室してきたらしい。

 誰だっ、という言葉を飲み込んで、彼女を認めた俺も慌てて柳以上に首を上下に振ってうなずいた。

「次のファローの直介も都築さんにお願いしようかな。勿論、僕が術者のときね」

 一瞬ジロリとこちらを見やったミスターハーフはにこやかにツヅキさんに言葉を掛けた。

「ぜひ、お願いしまあす」

返事を聞いてヤニ下がるミスターハーフを俺たち3人は複雑な気持ちで見やった。

「結局、上の2人って軟派だよね…」

ジャイアン権田のつぶやきが俺たちの気持ちを代弁していた。しかし、権田よ、お前も油断ならないことを俺は知ってるぞ――。


「都築さん、ナイスカバー」

ドクター沢下が上機嫌で去ったあと、気がつくと柳がツヅキさんのショルダートゥショルダーの位置に陣取っていた。

――おおっつ、油断も隙もない。敵ながら天晴なナイスポゼッションっ!

俺の心の叫びが天に届いたのか、都築さんがそのクリッとした瞳を俺に向けて口を尖らせた。

「もうっ、ハタナカセンセ、サワシタセンセの機嫌を損ねないでくださいね。ケッコーナースには厳しいんだから」

手厳しい言葉も、可愛らしさ満載の彼女の口から発せられると

「も、萌える~」

権田の呟きがまたしても俺たちの気持ちを代弁していた。

「ウンウン、わかった、わかったよ」

たぶん傍からみたら鼻を伸ばした若手心臓外科医3人が小柄な3年目のナースに頷いている姿は――

「ちょっ、キモッつ。そこの3人。彼女もウザイって言ってるわよ」

いつにもなく厳しい声が飛んだ。おっ、ICUのアンジェリーナジョリーこと大谷さんだ。今日はアップにした髪の項がまぶしいっ。

「彼女は仕事で患者さんを見に来てるの。早くどきなさい。」

おおっ、今度は颯爽としたアンジェリーナに叱られるなんて…

「ううっ、萌える~」

またしても権田の呟きに、初めて俺たち3人は意気投合した。3人で目を合わせて頷き合う。

「え~、もう上がりだから少しくらいICUにいてもいいんですよお」

口をとがらして思いもかけずツヅキさんが大谷さんに反撃した。おっ、これは…。

果たして大谷さんの隙のない化粧を施した美形の顔が少し引きつった、ように見えた。

(こ、この小娘がぁ~)

と思ったかどうかは知らないが、

「あら、ICUは分刻みで仕事をこなしているけど、オペ室は若い方でも悠長に仕事してていいのね」

カチンときたツヅキさん、少しクリッとした瞳が三角に吊り上がったか…

「朝から心臓外科の先生たちと、ずぅーっと一緒に働いてますからね。一瞬の気の緩みもなく。術後は無事に手術の終わった患者さんを見に来るのも仕事です」

唖然としている俺たちの方をツヅキさんが振り返った。

「ねー、ハタナカセンセ。今日はポンプオフ後も問題なかったし、私たちのサポートも息ピッタリでしたよね」

な、なにっ、矛先が俺にっ。果たして大谷女史、引き攣った(ように見える)笑顔で、

「あらあ、ハタナカ先生のお力で今日の手術は成功したと? それとあなたのおかげで? 術者の石神先生が聞いたらどう思われるかしら」

踏ん張った両脚のなんと美しいことか・・・いや、この怒濤の展開を収集できるのは。。。


「――確かに、都築君の直介はスピーディーだった。3年目とは思えなかった。ハタナカの2助手ぶりがよかったどうかは知らんが。まあ、今日は程よくインファンディブルムを削ることが出来たのと、肺動脈弁輪が十分な大きさだったので残すことができた。だから肺動脈狭窄も弁逆流もなく、いいバランスで血行動態を保ててるわけだな」

 突如颯爽と現れた石神がもっともらしく解説を始めた。

さすがに女性軍団も口を閉じて聞き入った。

この隙に、俺たち3人は少しずつ後ずさって場を離れた。

 後ろから肩に手が置かれた。思わず上げそうになった悲鳴を飲み込んで振り返る俺の目の前には小児循環器科部長の村中医師の姿があった。

「今日の患者はいいバランスで血行動態が成り立っているね。しかし――、彼女たちと君のバランスは危ういな。傍から見てると面白いけどね。では、グッドラック。患者を託したよ」

もちろん、手術が上手くいった患者への呼び掛けだったのだろうが、

「おい、ハタナカ。村中先生までに心配されてるぞ。お前、顔に結構女難の相出てるもんなあ」

柳が無責任な発言と共に、俺の顔をのぞき込んで言った。

「は? 女難?」

「そうそう、ハタナカ君って、意外と女性陣に目をかけられてるよねえ」

権田もしたり顔に頷く。


「ファローの肥厚心筋のように、削りすぎても、残しすぎてもバランスが悪くなるぞ。まあ、俺は私生活でも見事なバランスを取る達人だけどな」

 またしても突如背後に出現した石神遼一が銀縁のメガネのガラスをきらめかせて、本気とも冗談ともいえる口調で自信過剰な発言をした。

「ほら、俺を追いかけて…」

ツヅキさんと大谷女史がこちらに競うように向かってきた。

そして、見事に石神の前をスルーして俺の目の前に立ちふさがった。

「ありゃ…」

石神の呟きをかき消すかのように二人の女神?が異口同音に

「ハタナカ先生」

「ハタナカセンセ」

二人同時に顔を見合わせる。

「センセ、今日の手術の反省会をしましょう」

「ハタナカくん、ファローの勉強の続きがあったわよね。そうそう、お昼ご飯一緒にした時の約束よね」

え、お昼ご飯は室岡さんたちに囲まれて…。

勝ち誇ったかのような大谷さんを、悔しそうにツヅキさんが睨みつける。

「まあまあ、じゃあ、ハタナカは今日は大谷さんとの先約があるそうだから、都築さんは俺たちと軽く行きますか」

すかさず柳と権田が揉み手をするかのごとく割り込んでくる――。

患児は落ち着いてるし、まあ、コメディカルの女神たちに囲まれて嬉しい悲鳴だが、この顛末は果たして――。


ICU入口では村中医師とその部下にあたる小川女史がこの光景をみて微笑んでいた。

「いやあ、ハタナカ君も大変だね」

「ええ、ハタナカ先生ってなんか母性本能くすぐるんですよね。あたしも参戦しようかしら」

 小川女史の参戦宣言に目を丸くした村中医師。そんなことも知らない、俺たちはなんとか事態の収集をはかり(俺)、また都築さんをゲットしようとし(柳、権田)、更には威厳を(そして彼女たちを)取り戻すべく仲裁の格好をした石神との三つ巴の騒動は収まりそうもなかった。

 村中医師が誰ともなく再びつぶやいていた。

「グッドラック」

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