第6話 AVSD エーヴイエスディー:ゲートキーパー

 関西医療センター正門には、名物の門番(ゲートキーパー)がいる。名前は――知らない。が、俺が初めてこの門をくぐったときに立っていた、その人だ。門番という言い方は現代では時代錯誤も甚だしいが、《ガードマン》や《守衛》というより、この人物はまさしく門番と呼びたくなる雰囲気を醸し出している。その立ち姿を見ている限り(時間が許す限り)、全く微動だにしない。俺たち心臓外科医は朝早く、夜遅く、また泊まりも多いのが普通であるが、たまに帰宅する折に正門を通過すると、必ずこの門番がいる。そしておそらく俺の気の迷いのせいだろうが、例えばこっそり羽目を外して病棟のナーシーズや医局の若手と飲んだりして酔っ払って(病院に)帰ってきたときは、目深に被った制帽の下でニヤリとした笑みをみせる、ような気がする。

 昨日の夜も、ICUの美人ナース、和製アジェリーナジョリーこと大谷景子さんと飲みに行って(二人きりで!! うらやましいだろう、でもその後何もなかったが…)結局次の日(すなわち今日)朝早く通勤する自信がなかったので、そのまま医療センターに戻ってきたら、やっぱりゲートキーパーはいた。もう、深夜だったから、彼も夜勤だったのだろうか。

(おつかれさまです――)

 なんてモゴモゴと口の中でつぶやいて彼の脇を通るときに、やっぱりニヤリとされた気がした。そして今日、初めて彼の名前を知ったのである――。


                   *


 「で、今日のパッチ閉鎖はどうする?」

 石神の問いに、小児循環器科医師の小川女史がカンファレンスペーパーを見ながら発言した。

「VSDが浅いのでmodified one patch repair (モディファイドワンパッチリペア)でいいと思います」

 彼女の隣で小児循環器の村中部長もうなずいている。

 ――今日の手術症例は、AVSD(エーヴイエスディー)。房室中隔欠損。昔は心内膜床欠損症(ECD)といったり、共通房室弁欠損症(CAVC)という呼び方もあったが、現在はAVSDで統一されている。

 心臓は4つの部屋で構成されているが、この部屋の区切りが欠損しているのがAVSDである。二階建ての左右に2つの部屋がある家を想像してみてほしい。1階の天井(2階の床)と左右の部屋の間の壁が抜けていると、4つの部屋の行き来は自由自在となる。この家で言う、1階と2階の間には心臓で言うと右に三尖弁、左に僧房弁というドアがある。これは2階から1階への入口であり、一方通行となっている。不便な家だが、1階から2階へは決して行くことができない構造である。ここが抜けているということは、ルールを破って1階の人が自由に2階へ行くことができ、心臓で言う2階は《心房》と言うただの袋であるため、部屋の中の圧力は低く、むしろ1階と2階の間のドア=弁がないと、筋肉に囲まれた1階(心室)から容易に2階(心房)へ血液が逆流する現象が日常茶飯事となってしまう。これが世に言う『弁逆流』という病態であり、三尖弁に起こると『三尖弁逆流(三尖弁閉鎖不全)症』(TR)、僧帽弁に起こると『僧帽弁逆流(僧帽弁閉鎖不全)症』(MR)と言う疾患と診断される。それぞれが、それぞれの病態を呈するが、詳細は後日に譲るとして、AVSDに話を戻そう。

 なにしろ、1階(心房)と2階(心室)の間のしきりがないわけであるから、極端な話、三尖弁逆流も僧帽弁逆流も共に起こるわけである。さらに左右(隣の部屋同士)を隔てる壁もないから、左心系から右心系への短絡も起こる(左心系の方が右心系より圧力が高い)。結果として、心臓の中で無駄な血液がグルグル回って、肝心の体へは十分な血液が供給されなくなり、いわゆる心不全状態となるのである。右心系である肺は肺で、左心室から体へ送られるはずの血液が、逆流してきて水浸しとなり、また右心室へは大量の左心室からの血流が流れ込むので、その分右心室から肺へ送られる血液が多くなり、これまた水浸しの原因となる。肺は血液の高流量のため血圧が上がってしまう。これを肺高血圧という。我々小児心臓外科医は、この肺高血圧が完成してしまう前に心内修復術を行わないといけないのである。長年、左心系から右心系への血流を放置しておくと肺血管の器質的硬化が不可逆的になるまで進行して、肺高血圧が完成してしまう。いわゆるEisenmenger(アイゼンメンジャー)症候群である。こうなると心内修復はできない。


「パッチにはiPSパッチを使いますか?」

 村中医師が、石神に尋ねた。

「それが理想だと思いますが、まだ長期予後が不明ですよね…」

 ミスターハーフこと沢下ドクターが学究肌的なコメントを投じた。

「よし、コンサバティブだがゴアテックスパッチを使おう」

 石神が断を下した。

「あ、もう一つだけ」

 オペ室からカンファレンスに参加していた直介ナース、國生さんが付け加えた。

「今日の患児は病院関係者の身内らしいです」

 みんな一様に誰の? という視線を彼女に向けたが

「いえ、それ以上の情報はないですけど…」

 國生さんは首をすくめて小声で答えた。


「珍しいですね」

 カンファレンスが終わって、廊下を先に歩く小川女史に話しかけると、彼女は足を止めて振り向いた。

「あら、ハタナカ先生。ああ、関係者の身内ってこと?」

 さすがに勘がいい。院内の不文律として、あまりそういった情報は広めないし申告しないことになっている。患者側からすると、誰しも平等に、また医療従事者側からすると冷静かつ平静に治療に携わるためだ。誰それの関係者とか、知り合いとか、肉親とかいう情報を知ってしまうと、どうしても無駄な方向に力が入ってしまうのが人間だ。いっそのこと知らない方がいい――というのが、この関西医療センター総長の考え。しかし、今回それを侵して漏らす情報の意味は?

「でも、誰の関係者かは不明のままじゃない」

 小川女史は肩をすくめた。

「――でもね、ここだけの話だから言うけど――」

 小川女史の顔が近づいた。淡い香水の香りがする。

(わ、近い)

 思わぬ接近にドギマギしたが、女史は平然として話を続ける。

「これは総長からの情報(リーク)よ。よっぽどのVIPなのかしら」

「えっ?」

 近距離であるにもかかわらず、少し驚いて俺は顔を小川女史の方へ向けた。

「キャッ」

 思ったより二人の距離は近く、もちろん偶然だがお互いの吐息がかかりそうなくらい顔と顔が近接した。ニアミスというか、ミスではないのだけど。もちろん――。

「あ、あ、すみません――」

 反射的に謝った俺を、小川女史は少し驚いた表情で、軽く睨みつけた。

「もう、ハタナカ先生」

「し、しかし、あの総長自らそういうことを言うなんて少しびっくりしたから…」

 何か返事しようとした小川女史の言葉を、後ろから近づいてきた村中医師の声がかき消した。

「おーい、小川先生。今日のオペの経食(経食道心臓超音波検査)は先生にたのむよー」

「はーい、わかりました。じゃ、またオペ場でね、ハタナカクン」

 身を翻して、小川女史は村中医師の方へ小走りに走っていった。


(やれやれ。しかしハタナカクン――か)

 初めて彼女にクン付けで呼ばれたのは間違いない。

 これはもしや――。

「おい、ハタナカ先生」

 突然背後から肩に手を回され、タバコ、いや葉巻の臭いが俺の鼻についた。

「わっ!」

 立ち去ったと思われた村中医師ががっしりと俺の肩を抱き込んでいた。

「な、なんですか村中先生」

 一拍おいて村中先生が発した言葉は

「ウチ(の科)の小川君に手を出・す・な・よ」

親しみを込めたショルダーホールドだったが、メガネの奥の目は決して笑っていなかった――。


 オペが始まった。術者は石神遼一、1助手が今日は柳の抜擢。2助手にサポートそれをすべく沢下ドクターが入っている。権田と俺は外回り。特に今日俺は病棟担当でもあり、オペ中に病棟の患者にする処置や指示があれば、すべて俺が対応しなければならない。ICUで術後管理中の患者も俺がオンコール対応である。基本本日ICU日直の吉田T先生やオオガ先生が診てくれるが。


「AVSDに対する心内修復、始めます」

 石神の宣言とともに、メスが翻って患児の真っ白な胸部に正中線が入り、オペが始まった。直介ナースは國生さん。術者の要求に、滑るように器具が渡され、使われた器具が彼女の手元に戻り、また器械台の上に整然と並べられていく。

 ポンプに乗るまでに、全身麻酔下の心内をチェックすべく、小川女史が麻酔導入時に患児の口腔から食道内に挿入した経食道エコーのプローベを操っている。

「――治ってないか?」

 調子のいいときに石神の発するジョークに

「残念ですけど、まだしっかりと欠損孔と逆流はあるようです」

 ソツなく小川女史は答え、変わりない心内の異常を伝えている。

「麻酔がかかって、術前Ⅲ度あったMR(エムアール:僧帽弁閉鎖不全)がⅡ度にはなっていますけど――」

 麻酔により末梢血管が開くと、心臓にとってのafterload (アフタロード:後負荷)が軽減されることになり、心臓が体へ血液を駆出しやすくなる。(心臓の)前へと血液が行きやすくなるから、(心臓にとって)後ろ向き血行動態である弁逆流は減る、というメカニズムだ。

「逆流はcleft (クレフト:裂隙)メインです」

 小川女史の付け足しに

「よし、逆流ゼロにしよう」

 止まることなく石神は手を動かして、最速でポンプオンした。

 続いて、アレスト(心停止)。

 ここから心内修復が始まるが、心臓は文字通り止まるのでエコー係の小児循環器内科や麻酔科は少し手持ち無沙汰となる。

 小川女史はエコープローベを置き、石神の後ろ位置に足台を運んで、心内を熱心にのぞき込んだ。術者の肩越しからが一番心房内が見えやすい。

「どうですか、クレスト(VSDの辺縁)の高さは?」

 小川女史の問いに

「術前カンファ通り、浅いからダイレクトにいけそうだ」

 術野から目を離さずに石神が答える。話しながらも、切開した心房壁にステイスーチャーをかけ、場の展開を確実なものにしているのはさすがだ。以前、石神が言っていたが、石神の留学先の師にあたるsurgeon(サージョン:(心臓)外科医)は、ほぼ心内修復を一人で行えるほど、場の展開にこだわっていたそうだ。すなわち、前立ち(1助手)や2助手が不安定に器具を用いて展開するよりも、術者である自分が最も良いように支持糸を必要最低限、確実にかけて安定した術野で細かな手技を行う。筋金入りの職人芸、いや芸術家(アーティスト)たるべし、と。

 今の石神がまさしくそれであった。50代半ばという年代は外科医として脂の乗り切った時期であり、30代のガムシャラさ、40代の安定感の時期を過ぎ、経験から叡智を積み、そのテクニックは更に洗練さを極めつつあった。もっとも1助手を務める柳がまだ経験不足で、沢下ドクターのように痒い所に手が届くような場の展開が追いついていないため、そのようなモードに切り替えたのかもしれないが。

 VSDの下縁に非吸収の縒り糸を数本かけ(左脚(刺激伝導路)は勿論避けて)、共通房室弁の分割線と決めたラインに弁尖を下から上に糸を通し、弁尖を落とし込み過ぎないように糸をくくっていく。分割された左右の弁は僧帽弁と三尖弁となるべく、残る裂隙(クレフト)を縫い上げられる。

「ここで調子に乗るとS(狭窄)を作る…」

 石神のつぶやきは、我々若手にその手技をおしえるべくときどき発せられる。つまり、クレフトとは極端な話、引っ張るといくらでも出てきて、心地よい感覚でいくらでも縫い合わすことができるので、気がつくと弁輪が狭小になり、弁狭窄を作ってしまうということだ。

 アレスト中は、心臓内に血液がないためあらゆる組織がフニャフニャである(いつも――お前たち(ヤナギ、ゴンダ、俺ハタナカ3人衆)のモノみたいだな、と石神が助手に入っている俺たちに言う。俺たちのナニみたいって!?)。組織は非常に縫いやすい。そしてアレスト解除後に血液が充満しないと修復した弁や削った筋肉や閉じた孔の機能性は確かめることができない。この無血の世界で、いかに立体構造をイメージしてかつ血液が充満した状態で収縮した組織が機能するかを予想しないと、何度でも心内操作が繰り返されることになる。

「――よし、(心筋保護)追加」

 残るは心房中隔一次孔欠損のみという状態になった。すなわち家の2階の左右部屋間の孔をパッチで閉じれば終わりである。ここまでくると部分房室中隔欠損症(PAVSD)と同じ構造となり、一息つける。

 沢下ドクターが2分間かけて心筋保護液の追加注入をしている間、石神がこちらに視線を移した。

「手技を見るのは一度だけだ。次からは自分でできる、そして前立ちでも自分でやっている気持ちで手術に臨まないと…」

「追加量入りました」

 沢下ドクターの報告が石神の低音を遮った。しかし柳や俺をはじめ、小川女史までが次の言葉を待っていた。

 石神の拡大鏡とヘッドライトがキラリと揺れた。

「…淘汰されるぞ」

 冷やされた手術場室内の温度が、一瞬で更に冷え込んだ。極寒の白い世界に一人放り出されたような孤独感。生のための手術の周囲はまるで閉ざされた死の世界にあるようだった。これが小児心臓血管外科、コンジェニの手術――。

 すかさず、石神の迅速の手が動いて、予め作成していた心房閉鎖パッチが残る心房中隔欠損に縫いつけられていった。そう、ここまで到達するために彼もどれだけ努力を重ねてきたのだろう。

 いつの間にか俺は患児頭側のティッシュ(手術台)に両手を付いて、歯を食いしばって術野を凝視していた。踏ん張った手は震えていた。いつもは笑顔で話す麻酔科の吉田J先生も無表情であった。

 隣に小川女史がきた。

「――すごい」

 気が付けば復温もすすみ、またたく間にアレスト解除まできていた。

「デクランプ」

 石神の宣言と共に、大動脈鉗子が外され、緩やかに心臓が拍動を始めた。

 ドクン、ドクン…。

 新たな構造を与えられた小さな心臓が動き出した。

「リーク、ありません」

 再びプローベを手にした小川女史がエコー画面を見ながら報告した。

「カテコラミンは?」

 石神の問いに、われに帰ったような吉田J先生が応じた。

「ドブ3ガンマとミル0.3ガンマです」

 更なる復温とともに心臓の動きは加速していた。新たな産声を上げたかのように踊っていた。


「――いやあ、すごいもんだね」

 聞き慣れない声がしたので振り返ってみると、あまり手術帽とマスクが板についていない痩身の老年男性がそこに立っていた。

「総長?」

 吉田J先生のつぶやきで、皆が改めてこの人物を見た。

「これは、総長。珍しいですねオペ場にこられるとは」

 石神が声を発した。やはり総長――らしい。

「石神君、以前も君の手術を見たことがあるが、以前よりも凄みがあるね」

 少し首をかしげ

「それは誉め言葉と取っていいのでしょうか」

 石神が丁寧に答えた。

「手技は一緒かもしれない。だが、場を支配する――その域に達しつつあるのではないかね。その若いのも凍りついてたよ」

 チラリと俺の方を見た、と思ったのは自意識過剰か。

 薄く笑ったように見えた石神は、何も言わなかった。

「先生、ポンプオフしますかぁ」

 ヒゲおやじの声が響いた。

「温度は」

「OKです」

 型どおり、ポンプオフされ、脱血管抜去、止血作業となった。

「小川先生、ありがとう。サワシタ、後頼むぞ」

 安定した血行動態を示すモニターを見ながら石神が手を下ろした。

 総長に一礼すると、石神は術衣を脱いで手術室を出ていった。

「あの男もまだまだ進化するのお」

 総長が誰ともなしにつぶやいた。そして俺の方を振り返った。

「ハタナカ先生、だったかな。石神君も、勿論君みたいな時期があった。儂がオペしているときに目を皿のようにして見ていたよ」

「えー、そうなんですか」

 思わず口を挟んで、しまったとばかりに小川女史が首をすくめた。

「おお、君が小児循環器の美人女医さんの小川君か。村中くんから聞いておるよ。なかなか熱心に手術室にも顔を出しているらしいな」

「え、美人女医さんだなんて…」

 俺たちが止めるまもなく、やだあ、と反射的になんと総長の背中をバシッと叩いたシーンは、後々まで語り草になったのは言うまでもない…。

 ともあれ、AVSDの手術は滞りなく、いつもにもまして圧巻に終了した。


                  *


「ほう、あの門番、いやガードマンの方のお知り合いでしたか」

 今日のAVSDの患児の父親は、あの門番の甥にあたるらしい。林総長が村中医師に説明した。

「彼は、いわゆるこの医療センターの生え抜きの職員ですからなあ」

 総長は手術が終わって、まだ鎮静下にある患児に目をやりながら話した。

「というと、先生方より昔からこの医療センターに?」

 ICU副部長の大賀先生が発した問いに遠い目をした総長が苦笑いしながら答えた。

「大賀先生、このセンターの前身の関西地区小児医療センターはご存知かな」

 首をかしげる大賀に総長は言葉を継いだ。

「今でこそ、関西最大の総合医療センターですが、私が早朝として赴任する前はその関西地区小児医療センターを含めて、3つの小病院がありましてな…」

 その3つの病院が統合されて、この関西医療センター『KMC』になったらしい。そして築24年であった関西地区医療センターの創設時期からその門番であった『彼』は、KMC統合後にも勤務を引き続けているという。

「まあ、昔から若いドクターたちも夜遊びや、羽目を外した折に『彼』に散々世話になってますからねえ」

 村中医師も古株の一人であり、彼をよく知っているらしい。

「そういえば勤務時間中に、裏門から脱走を図った若手が『彼』に捕まえられた事件もありましたな」

「そうそう、脱走医師はどうしても隣町にくるアイドルの野外コンサートに行きたかったとかなんとか」

「でも結局、その熱意にほだされて、『彼』にむしろアリバイを作ってもらってコンサートに行けたという…」


 昔話に花が咲いている頃、タコ部屋で俺たちは打ちのめされていた。そう、今日の手術にだ。

「俺、まったくついて行けなかったよ」

 柳が前立ちを務めたものの、目の前で勝手に場の展開をされて立場がなかったという悔やみを何度も繰り返してつぶやいていた。

「俺は、あの雰囲気を醸し出す迫力に参った…」

 俺の言に権田も同調した。

「そうそう、吉田J先生や小川先生も圧倒されてたもんね」

「果たして俺にもあんなことができるのかなあ…」

 そこへ勢い良くドアが開いて飛び込んできたのは話題に上がっていた小川女史であった。

「やっぱり、みんなココだったんだ」

 どんよりした空気を敏感に読み取った小川女史が言った。

「あなたたちまさか、石神先生の手術でうちのめされてるんではないでしょうね」

「当然でしょ。あれだけのもの見たら」

 柳がふてくされたように言い、俺も

「…淘汰されちゃう、かもね」

 石神のきつい一言を繰り返していた。

「そりゃあ、経験値が違うし。目標が高いと励みになるじゃない」

 小川女史の言葉にも反応できない。


「おう、お前たちどこに行ったかと思えば」

 次にドアから顔を出したのは、当の石神本人だった。

「あ、先生」

 力ない柳の呟きに目をやった石神が、ニンマリ笑って言った。

「どうだ、お前ら。自分たちのヒヨッコさが身にしみてわかっただろう。まあ、俺は天才だからな。凡人にはいつまでも超えられないレベルがあるんだよ」

 あまりにも大人気ないセリフに吹き出した小川女史。

「石神先生、すごいのはみんな納得しましたけど、ご自分で言われますぅ?」

「この自信が、女たちの心を虜に…いてっつ」

 最後のセリフで女性を敵に回した石神が、見事に小川女子に(わざと)足を踏まれてのけぞった。

「じゃ、私忙しいので失礼します」

 勢い良くドアを閉めて出ていった廊下から

(まったく、すごいって思ったのに損したわ――)

 かすかに女史の嘆きと誉め言葉を口にした後悔が聞こえて消えていった。

 思わずコンジェニーズ俺たち3人は顔を見合わせて口元を緩めた。

「やっぱ、小川さん気が強ええよなあ」

 柳の感想が俺たちの心を少し軽くしたようだ。

「まあ、お前たちこれからも圧巻の手術見せてやるから。ついてこいよ」

 しばらく顔をしかめていた石神が俺たちをみて言った。

「ただし、外科医は腕で本当に淘汰されるからな、覚えておけ」


「あれでも俺たちのことを気遣ってくれてるのかな」

 石神が去った後の権田の問いに、俺と柳は異口同音に返事した。

「たぶんね」

 その後ICUに患児を見にきた俺たちは、安定したバイタルをみて安心した。


                  *


 ICUの面会時間が20時に終わる頃、のっそりと面会希望で入ってきた影があった。

「――あ、門番の人」

 権田がカルテを入力する手を止めて真っ先に気づいた。

「やっぱり関係者だったんだな」

 柳もチラリと目をやって立ち上がった。

「俺、説明してくるわ」

 看護師と話している『彼』に柳は気軽に近づいていった。

 遠目に見てると、二言、三言会話をかわしている。

「ほう、『彼』もコミュニケーション取れるようになったようだな」

 石神の声がした。視線は柳と門番=『彼』に向けている。

「先生、彼のことよくご存知なんですか」

 権田の問いに石神がニヤリと笑った。

「まあ、な。以前の病院からの知り合いだ。無口なので何が言いたいかよくわからんところがあったんだが…」

 石神の目が遠くをみる目付きになった。

「…よく、世話になったなあ」

 俺の頭の中で閃くものがあった。

「先生、昔センターから逃げ出した若手医師が、彼につかまったそうですね」

 ジロリと俺の方を見て石神が口を開いた。

「そりゃ、オレだ」

 ――やっぱり。あんぐりと口をあける権田を尻目に、おそらくムンテラをすべく石神も『彼』に向かって行った。

「本当に石神先生ってよくわかんないよね。。。」

 うめくように言う権田の肩に俺は自然と手を置いた。

「…ま、品行方正の真四角人間よりいいんじゃない?」

 人間が職業を選ぶのか、職業が人を作るのか――。

 今の俺にはまだ答えのない謎であった。


 門――モノや人の出入りを規定する場所・部分。

 門番――門を守る人。

 心臓の門は弁である。我々が修復・形成した弁は患者の一生を守る門となる。狭からず、広からず。

 そして人生における門というものを我々はくぐり抜けて進んでいかねばならない。いくつ門があるのかわからない。門は広いのか、狭いのか。そしてその都度門番がいるのかいないのか、スムーズにくぐり抜けるだけでは終わらない。時にはくぐらない、後に戻ることも必要なときもあるだろう。それが人生かも――しれない。


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