第4話 セカンドカンファレンス:リターントゥホーム~小さな命と共に~

「――もうすぐだ」

 つぶやいて、井上弘は廊下の壁の前で足を止めた。華やかな模様で壁を飾る壁紙は、必ずしも広くない分娩室の前の廊下をせかせかと往復する弘にとってすぐに眼前に立ちはだかった。

 ――間もなく俺と綾子の子が生まれる。

 二人の結婚は簡単な道のりではなかった。出会ったときから惹かれあったが、お互いの親がなかなか相手を認めず、この春にようやく説き伏せるような形で結婚できたのであった。

弘の家系は代々医者を輩出しており、兄の隆は帝都大学医学部附属病院の心臓外科助教授まで登りつめていた。帝大OBにあたる父の誇りであり、何かと引き合いに出される弘は肩身の狭い思いをしていた。兄の隆は医学部卒業時には婚約をしていたため30歳という現代では比較的若年に結婚し、1男1女を設けていた。妻となった女性は帝大医学部麻酔科教授の娘であり血統として申し分なく、それも父の眼鏡に十分叶っていた。

 弘も医学部を目指していたが、2度の受験の後医者になりたいという動機が希薄であるという自分の気持ちに正直に向き直り、興味のあった薬学の道へ進んだ。好きこそものの上手なれという言葉のとおり、高校時代までは苦手としていた勉強も大学在学中の薬学分野では熱心に励んだため地方国立大学において上位の成績で卒業することができ、国内一流の製薬会社に就職することができた。現在は営業課長として一般市中病院の総合内科の担当を任せられている。


「お前は、好きな道を選択して正解だったな」

 以前ポツリと酒の席で兄の隆に言われたことがある。

「兄さんこそ、もうすぐ教授に手が届きそうじゃないですか」

 小さい頃からスポーツ万能で勉強もできた兄を弘は尊敬していた。

「ま、長男には長男の使命があるからな」

 そのときは深く考えなかったが、兄の本当の気持ちは別の道にあったのではないだろうか、そんな考えがふと病院の廊下を行き来している今、弘の頭に浮かんだ。

 ――そういえば、小さい頃から兄は昆虫でも動物でも怪我をしていたり体液や血を出している相手を見たときは身を引いていたな…。

 そんな兄が外科医であるということには、確かに少し違和感がある。今まで思いもよらなかったことだが。いつも自信満々の兄に接していたからであろう。

(――本当は何をしたかったんだい、兄さん?)

 仕事上慣れ親しんでいる、病院の無機質な臭いと雰囲気が、医師である兄への思いを助長させるのであろうか。いつも仕事で病院内を闊歩するときは全くそんなことはないが。喧騒のない夜の病院は様々な思索を止めどもなく紡ぎ出してくれる。

 地位と家柄のよい嫁を手に入れた兄に満足したのか、弘は就職先までは父に口を挟まれることはなかった。しかし綾子との出会いの後、紹介がてら実家に連れていった後に呼び出されたときは猛烈な反対を受けた。はっきりと口には出さないが、家柄が最たる理由であり、また綾子の職業も父の気に召さなかったようだ。


 初めて担当になった市中病院で、すでに大手製薬会社一社の市場独占の感があった制酸薬の売り込み開拓を押し付けられた俺は、3か月が経とうというのに交際費のみ医者たちに剥ぎ取られ、無論売り上げは皆無の状態でほぼノイローゼになりかけであった。そのとき無愛想な内科医に我が社の薬剤をそれとなく使うように勧めてくれたのが、消化器内科外来担当の看護師、野島綾子であった。たまたまであったのか、外来で腹痛を起こした老女の症状を緩和でき、すかさず老女の口を通して感触の良さを外来医師に伝えたことが、採用のきっかけとなったが、そう言わしめた影の功労者は明らかに綾子であった。

「先生、田中さんがいつもの薬では腹痛が収まらないって来院されてます」

「大方、薬の飲み忘れか、用量間違えたんじゃない」

「しかし、田中さんはお年は召されてますが、しっかりされてて薬の自己管理も安心して任せられる、って先生がおっしゃっていたじゃないですか」

 その時俺は外来診察室の横の小部屋で、診察が終わってからのアポイントメントを約束していたため待機中であったが、思わず聞き耳をたてた。

 ――あのキビキビとした看護師さんなかなかしっかりしてるな。

 実はツンケンした古参の看護師が多い中で、ときどき会釈を返してくれるだけで密かに好意を持っていたがますます目が離せなくなった。

「先生、かなり痛がってらっしゃいますので、処置室で横になってもらいますね」

 医師の生返事を待たずして野島看護師は老女を支えて待合室から処置室へ向かっている。すかさず俺は、老朽化して建てつきの悪い処置室のドアを開けて、支えて待った。

「あ、ありがとうございます」

 野島看護師のお礼に、目礼して応じたとき、痛みのせいか老女が大きく体勢を崩し床に前のめりになった。反射的に支えた俺の手と野島看護師の手が触れあった。意外と老女は体重があり、女性の支えだけで簡易ベッドに運ぶのは苦労しそうだった。

「野島さん、私が運びます」

 思わず名前を発した私に少し首をかしげたが、

「じゃあ、お願いします。田中さん、こちらは病院に出入りされている製薬会社の方だから、少し手伝ってもらいましょう。私たちと一緒で、お互いに病気を治すために働いているから何も遠慮することはないですよ。ね、そうですよね、井上さん」

「すみませんねえ」

 老女がお礼をつぶやいていたが、俺の頭は野島看護師が俺の名前を呼んでくれたことでいっぱいになっていた。

「いえ、私も医療従事者の端くれですから。。」

 モゴモゴと反応した俺を見て野島看護師が目元に笑いを見せた。


「井上さんは大京製薬の方でしたよね」

 老女が簡易ベッドに横たわり、野島看護師が血圧や脈拍などといったバイタルを一通りとったあと俺の方をみて尋ねてきた。

「あ、そうです、けど。よくご存知ですね」

「3か月前から一生懸命こちらに顔を出されてますものね。私も先生が井上さんのところの薬を使ってあげたらいいのになあ、って思いますけど」

「いや、あの、野島さんにそう言っていただけるだけでもう、十分です」

 しどろもどろに答える俺に野島看護師は不思議そうに続けた。

「ダメですよう、看護師に言われたくらいで満足してちゃあ。何の売り上げにもならないでしょ。そうだ。田中さん、先生呼んできますから待っててくださいね」

 パタパタと廊下を去っていく彼女を呆然と俺は見送った。

「…本当に、いいお嬢さんですねえ。あら、看護師さんのことお嬢さんなんて言ったらいけないわね」

 横たわったタナカさん(という老女)が俺の方を見て上品に微笑んだ。

「いつもこの病院では彼女の笑顔に元気をもらっているの。あら、先程はありがとうございました。重いおばあちゃんだったでしょう」

 病院に出入りしているが、患者さんと話したことがなかった俺はドギマギした。またお礼を言われたことは嬉しかった。

「いえ、少し落ち着かれたようですね。よかったです。早く先生が来られるといですね」


 遠くから複数の足音が聞こえてきた。

「…じゃあ、一度イラックスを使ってみようか。野島くんがそこまで言うなら」

 ――ん? 我が社の制酸剤の名前が聞こえたような。

 本日の消化器内科外来担当の中村医師が、少し肥満体の体をゆすりながら処置室に入ってきた。ジロリと俺の方を見てつぶやく。

「ほう、最近のプロパーは診察室まで無断に入ってくるのか」

「先生、井上さんは田中さんを運ぶのを手伝ってくれたんです。他の医療従事者がみんな忙しそうでしたから」

 皮肉が伝わったのか、何も言わず中村医師は口を曲げて田中さんの方に体を向けた。

 背中では

(この、プロパー風情が)

 と語っているのは間違いない。俺は思いっきり牛のような背中に向けて舌を出した。

 気づいた野島看護師がクスリと笑う。

「田中さん、いつもの薬きちんと飲んでいるそうだから、それで効かないのなら少し薬を替えてみようかね。井上君、君のところのイラックスを処方してみるが、効かなかったら即やめるからね」

「あ、ありがとうございます」

 好悪の感情は別として、素直に頭を下げることはできた。短期間では効果が望めるか不明であるが、胃をリラックスさせるという、安易なネーミングから医師はともかく患者には受けがいいはず、という販売戦略のまずは一端を開くことができたのは事実だった。

「さて、野島くん。君の推薦もあったことだから、この薬を使うとして、お礼に今日の晩ご飯でも付き合ってもらおうかな」

 ギロりと分厚いメガネ越しに油ギッシュな額と浮腫んだ(ように俺には見えた)嫌な視線を野島看護師に向けた中村医師に、すかさず俺が割り込んだ。

「いやあ、中村センセイ。本日はどうもありがとうございました。イラックスを処方していただいた第一号でありますので、本日は我が社がかねてより用意させていただいております、京都の料亭で勉強会が漏れなく付いています。仕事の一環ですので、よろしくお願いします。本日17時にお迎えに上がります。ご参加は医師の先生だけと決まっていますのでよろしくお願いしますね。では」

 一気にまくし立てた俺に気圧されて、うなづいた中村医師を尻目にウインクを野島看護師に送って、タナカさんにも一礼して処置室から退散した。まあ、これで今晩は野島さんはあの中村医師に困らされることはないであろう。勉強会ウンヌンは出まかせなので、俺の懐が個人的に痛むだけだが、野島さんが助かるならオッケーだ。弾む足取りで出て行った俺は、見事に病院前の駐車場で転んだ――。


 昔の記憶が蘇る。結局タナカさんの腹痛は改善し、以降イラックスが快進撃を続けることができたのはどう考えても野島さんのおかげであった。ある日思い切って、お礼と称して野島さん一人の時をみはからって菓子折りを渡すことに成功。密かなお礼のやりとりの後に2人で食事OKの返事をもらったときは緊張しすぎて、食事前にイラックスを10錠も飲んで下痢になったほどだった。そう、俺にはもはや生涯の伴侶は綾子しかいなかった。

 しかし封建的な父は医師の家系に看護師が混ざることをきらい、あの手この手で俺と綾子の結婚を止めさせようとした。綾子の実家は兵庫県の山奥の農家であった。何度か綾子に連れられて訪ねて、その自然が気に入った俺は極端な話、製薬会社をやめて農業を本職にしてもいいと思った。それを止めたのは兄の隆であった。

「弘、俺は綾子さんは素敵な女性だと思う。結婚には大賛成だ。しかし、そのためにお前が仕事をやめるとなると、彼女がきっと身を引くに違いない。ここはお前が時間をかけて親父を説得するしかないぞ。それがお前の彼女に対する思いやりだ」

 そうして、3年かけて父を説得した。彼女を理由に仕事ができないなどというレッテルを貼られないために、仕事は必死に働いて出世コースに生き残った。ようやく実家には何も求めない、結婚式にも父は参列しないという条件のもとで結婚にこぎつけたわけだ。兄が尽力してくれてグアムでの友人だけを集めた結婚式を開いてくれた。さすがに親が来ない結婚式に綾子のご両親をはじめ、親族を集めることはできないので友人だけの結婚式とした。

「ありがとう」

 隆兄の言うとおり、結婚してから綾子が発した言葉には万感の想いが詰まっていた、と思う。完全に親の了解を得たというわけではなかったが、そのために綾子と俺の絆は揺るぎのないものになったと言ってもいいだろう。


「井上さん、いらっしゃいますか」

 女性の大きな呼びかけに我に返った弘は、緊迫した雰囲気に嫌な気がした。

「先生から説明がありますのでこちらに――」

 説明? 赤ちゃんが生まれる直前だったはずだ。俺と綾子の。しかし産声が聞こえない。

 まだ生まれてないのか。初産なので時間がかかると聞いたが、まだ子宮が開いてないのか。

 看護師か助産師かの導くままに、小部屋に通された弘の前に、綾子の産科主治医である早田先生がデスクに控えていた。こころなしか、明かりの織り成す陰影のせいか早田先生の表情に曇りが見えた。

「井上さん、赤ちゃんのことです」

 おもむろに切り出した口調は重かった。

「先ほど生まれました。おめでとうございます。23時25分です。男の子でした」

「――私には産声がきこえませんでしたが」

「そう、生まれてすぐ挿管して人工呼吸器管理になりました。現在NICUに入っています」

「え、挿管? NICU?」

 思わず弘は耳慣れぬ言葉をオウム返しに繰り返した。挿管って気管にチューブを入れて呼吸を補助することだよな。なぜ? しかもNICU? 新生児集中治療室? 一体何が――。

「お子さんは、出生直後よりチアノーゼがありました。先天性心疾患が疑われます。今、小児循環器医師が心臓超音波検査を行なっているところです」

「先天性、心疾患?」

聞きなれない言葉に弘は戸惑った。

「生まれながらに心臓に構造異常がある病気です。色々な疾患に分類されますが、なにぶん専門性が高いので、なかなか確定診断はつきにくいのですが――」

 歯切れ悪く早田医師が言葉を搾り出したとき、部屋の電話がなった。

 すかさず立ち会っていた看護師が応対し、早田医師に受話器を渡した。

 二言、三言話した後、受話器を置いた早田医師が弘の方に向いて言った。

「どうやら、右心系に負荷がかかっているらしい。はっきりとは見えないが肺静脈の位置がエコーでは描出されないので、十分な赤い血が体に回っていない状態だと思われます。だからチアノーゼを呈しているのですな。診断と治療については循環器病センターにヴィジュアルカンファレンスをかけて相談してみます」

 言われた意味が半分以上不明であったが、

「よろしくお願いします」

 頭を下げるしかなかった。そうだ、綾子は? 綾子は無事か?

「そうそう、奥さんは元気にされているよ。出血も少なかったし。今は軽い鎮静剤で眠ってもらっている。あまり混乱させないほうがいいからね」

 立ち上がった早田医師は

「また、状況が進展したら連絡します」

 背中越しに言って、足早に部屋を出ていった。


「もう少し、待合室で待っていて下さいね」

 看護師が気の毒そうに弘を部屋から送り出した。

「奥様が目覚めたら、ご面会していただきます。ただ、赤ちゃんのことははっきりするまで言わないほうがいいと思います。私たちの方からきちんと説明したほうがいいですから」

 残された弘の頭が回転し始めたのは数分たってからであった。

 ――まずは、隆兄に連絡しよう、と。


                 *


「綾子さんが無事で何よりだったな」

 意外と早く隆が病院に現れた。

 1時間ほど前に連絡したときは少しの沈黙の後に

「――よし、そっちに行く」

 という短かな反応を示して電話をきられたが、迅速に動いてくれたようだ。

「――早かったね。仕事は大丈夫?」

 弘の問いに、顔をのぞき込むようにして隆は答えた。

「ばか、可愛い甥っ子の一大事だろ。命優先だよ」

「…兄さん…」

 ようやく感情の噴出孔が見つかり、弘が嗚咽を始めた。

「大丈夫だ。たいていの病気は治る」

 医師の隆が言うと心強い。

「さあ、綾子さんを見舞いに行くか」


 まだ夢現の綾子の枕元に2人が立ったとき再度弘の呼び出しがかかった。

 一緒に部屋に入った隆に、早田医師が不審気な視線を浴びせた。

「こちらは?」

「あ、兄です」

 詳しく説明する前に素早く名刺を差し出した隆が挨拶を引き継いだ。

「兄の隆です。弟夫婦がお世話になっています。帝大で心臓外科医をしています。で、診断はついたのでしょうか」

 名刺を一読した早田医師が尊敬の眼差しで隆に応対した。

「心臓専門ですか。これは心強いですね。おそらく赤ちゃん、先生の甥御さんにあたるわけですか、は総肺静脈還流異常だと思われます。専門病院での治療が必要なので今、ベッドの空きのある病院を探しているところです。ここいらで言えば循環器病センターか、関西医療センターになりますが…」

「総肺静脈還流異常…、本物ですね…」

 隆兄のつぶやきから事の重大さはなんとなくわかったが疾患自体は弘には不明。。。

 早田医師に電話が入り、数分やり取りしたあと弘と隆の方に向いて言った。

「循環器病センターは現在ICUが満床で、新規の患者が取れないそうです。残る関西医療センターも手術中とのことで、担当の小児心臓外科医が手術に入っているため連絡取れないそうで…」

 弘を絶望感が包んだ。俺と綾子の子は祝福されない運命にあるのだろうか。

「関西医療センターなら、なんとかなるかもしれません」

 隣で挙がった隆の声が弘のマイナス思考を打ち破った。

「兄さん、なにかツテでもあるのか」

 早田医師も抱いたであろう、疑問が弘の口から発せられた。

「――石神遼一。関西医療センター、小児心臓外科統括部長。…俺の大学時代の同級生だ」


                  *


「あーあ。タルいよなあ」

 大きく伸びをした金髪頭(柳)がこっちを振り向いた。

「おい、夜食に寿司でも取ろうぜ」

「また100円寿司ィ~?」

 ジャイアン(権田)が眺めていた術書から目をあげて口を尖らせた.

「俺たちには100円寿司くらいが丁度いいと思うけどな。極上寿司なんか上の先生の奢りじゃないと値段も厳しいし、ましてや味なんかもわかんないし」

 ハタナカの答えに珍しく金髪も同意する。

「そうそう、俺たちゃ質より量だぜ」

「でも、普段質素なぶん、たまには贅沢したいよね~」

 グルメな? 権田はジャイアンのあだ名に相応しい巨体を揺らしてまだ不平を口に出していたが、出前を取るため、外線のかかる室内電話機へ向かった。

 と、権田が手にする前にその電話が鳴り響いた。

「――っ、おっと」

 ピクリと手を動かしたが殆ど動じず、権田は受話器を取った。

 二言、三言会話をして受話器を置く。

 注目する俺と金髪の視線を受け、権田が答えた。

「緊急搬送。トータルだって」

 ひとまず寿司はお預け。久々のトータル、トータルアノマランスプルモナリーヴェインリターン(TAPVR)、総肺静脈還流異常だ。


                  *


 本日生まれの男児、出生体重は2850g。近医の産婦人科医院からの搬送だった。出生前診断はなく、出生後にチアノーゼを来して心臓超音波で診断された。搬送後すぐに4D-CT施行となった。立体的に心臓を構築する3D-CTは2,000年代半ばより普及していたが、現行の4Dでは時間軸が追加され心臓でいうと単位時間あたりの血流を評価することがリアルタイムで確認出来る。すなわちかつては心臓カテーテルを行なって計算していたアウトプット(心拍出量)が簡便に評価でき、また今回のような肺静脈といった比較的緩やかな血流も評価できることからその血管が立体構造・生体のメカニズムとして狭いのか広いのか、特にコンジェニチームにとって緊急オペの適応なのかどうかが診断できる検査となっている。

 すでにCT撮影室の隣に位置するコントローラー室には小児循環器内科、集中治療部、麻酔科、CEさん(というかいつもの髭おやじ)、そしてミスターハーフことサワシタドクターといった各科関係者がひしめき合っていた。

 コンジェニ若手3人に気づいた小児循環器内科、小川女史が鈴を転がすような声で教えてくれる。

「予想通り、ピーヴイオーよ。準備次第オペね」

 ピーヴイオー、PVO。Pulmonary vein obstructionの略。文字通り取ると閉塞ということになるが、実際は機能的狭窄である。肺循環は肺動脈から静脈血が肺へ流れ、肺(実際は肺胞か)で酸素化されたのち動脈血が肺静脈を介して心臓に戻ってくる。その経路として左右の肺から2本ずつ出た肺静脈が心臓の裏面に位置する左房に還流してくる形態を取る。まるでカニの手足(4本だけど)が出てるようなイメージをしてもらえばいい。そしてその左房へ還流した動脈血が左室へと流入して、左室のぶ厚い筋肉の収縮と共に全身へ駆出されることにより人間は動くことが出来るわけだ。トータルはその左房へ還流すべき肺静脈がどこかへ行ってしまっている状態であり、腕頭静脈に還流していればDarling分類のⅠaであり、上大静脈に還流していればⅠbタイプとなる。ちなみにあと心臓内へ還流した場合はⅡ型(これもaとbがあるが)、腹腔内の静脈系へ還流していればⅢ型となる。

「で、何型?」

 目まぐるしく動く画面を凝視しながらハタナカが質問を飛ばす。

「Ⅰa。バーティカルヴェインが腕頭に入るところで狭窄しているわね」

 小川女史の返事に、放射線科所属のサッカーマニアの技師向井くんが被せるように言葉を継いだ。ちなみに彼はプロサッカー1部リーグに属するガンバルンバ関西の熱烈なサポーターだ。

「肺実質は完全なリンパ管腫だね。術後酸素化に苦労すると思うよ」

 確かに肺野条件にした肺実質のイメージは本来なら一様に明るく見えるはずの部分が、ま逆のびまん性に暗い像を呈していた。肺へ血流が行かないぶん、リンパ管からのリンパ液を少しでも酸素化させようという生体の生存への本能の結果である。

「まるで大雨のあとのフィールド状態だね」

 ひっきりなしに誰かの発言が飛び交う。

「こりゃ、術後HFOの出番かな」

 舌なめずりをするようにICU副部長の大賀先生がつぶやいた。彼も術後管理のマニアであり特にカテコラミン(循環作動薬)のカクテル(組み合わせ)にこだわっている。最悪、どんなに落ち込んだ血行動態でも微妙なカテコラミンカクテルにより蘇らせるとの専らの評判だ。

 ――オオガはゾンビでも血を流す、と。

 もちろん、外科的修復は終わっており内科的な治療範囲内での話であるが。それでもすごい。以前ポンプから離脱できなかった低心機能単心室症例を、麻酔科へ指示してα作動薬とβ作動薬を破格の20ガンマずつ投与することにより機械的補助循環(デバイス)なしで手術室を出さしめたエピソードは語り草となっている。


「普通の陽庄換気では酸素化持たないぞ」

 大賀先生の隣に座していた麻酔科の吉田先生(女)がいちいち頷いている。彼女は熱烈な大賀先生フリークだ。何度もオペ室で大賀マジックを体験したらしい。

「いや、大賀先生。これはARVCの出番でしょ」

 口をはさんだのはモジャモジャヘヤースタイルと不精?髭が充満した、これまた吉田先生(男)。ブラジル留学の履歴があり、もちろんあだ名はブラジリアン。ちなみにファストネームにより先の麻酔科吉田先生(女)は『吉田J先生』と呼ばれ、このブラジル先生は『吉田T先生』と呼ばれている。吉田T先生はICUのナンバー3。呼吸器メカニズムの専門。

「たぶん、術後ECMOつきでしょ。抗凝固効かしている状態でハイフレクエンシーのHFOだと頭、出血しませんか」

 呼吸メカニズム専門のブラジリアン吉田T先生ならでは発言。ARVCは低気道内圧、高持続呼気終末陽庄による陽庄換気の一種で肺保護に優しいとされている。

 一瞬目と目を合わせた大賀先生と吉田T先生の間に火花が走った――ような。。。吉田J先生は隣でオロオロしている。

「とにかく早くオペしたいよね~」

 能天気な声がこの勝負?に水を差した。コントロール室内の空気はどこ吹く風といった様子のミスターハーフことサワシタドクターだ。これが計算づくの発言としたら、恐ろしい。

「うちの村中部長と石神先生がムンテラに行くって言ってたけど」

 小川女史が、後を引き継いだ。

「もう、30分くらい経つけど…」


                *


 石神遼一は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。ムンテラを終えたばかりであったが、患児の祖父にあたる人物の言葉が気に食わなかった。

『――疾患についてはよくわかりました。手術もおまかせします。やはりウチの家系にそぐわない嫁がこの疾患を呼び込んだのでしょうな』

『遺伝子は関係ないよ』

 隣で石神の同級生であった井上隆が諌めたが遅く、患児の父である隆の弟という弘が激怒して立ち上がっていた。

『父さんは何もわかっていない、出て行ってくれっ!』

 爆発した剣幕にも動じず祖父にあたる老医師は言葉を続けていた。

『これでわかったろう、弘。所詮医師の家系に田舎の娘が入ったのが間違いなんだ。お前の勢いに押されたが、なぜ儂もお前たちと縁を切らなかったのかな。我が一族の恥だ。隆の旧友であるという先生が手術をしてくださるというから、今回の手術まで見届けるがその後のことはお前たちで処理してくれ』

 石神も立ち上がろうとしたが、隣の村中医師に止められた。ダンディーな口ひげが柔和な表情を醸し出している、この小児循環器内科部長はいつも激昂する石神のストッパーであった。むしろ村中医師のおかげで性状直情な石神が冷静になり、クオリティの高い手術手技を引き出しているといっても過言ではないだろう。


『井上さん、先程もお話しましたが、これは遺伝的なものではありません。母親のせいでもありませんし、本当に誰にもコントロールできない領域で、ある一定の確率で発生するものです。我々としましては、早期に診断することができ、また外科的な治療も速やかに行うことができるということは幸いなことだと思っていただければ…』

 村中の心のこもった言葉に息子の弘は、救われたような表情を浮かべたが、井上老医師はそっぽを向いていた。

『――とにかく、患児は一刻も争う状態なんだ。チアノーゼの時間が後々の中枢神経障害を引き起こすかもしれない。俺は、いや、私は手術の準備がありますので、失礼っ!』

 席を蹴って立った石神の背中で村中の言葉が聞こえた。

『井上さん。生まれてきた子供に罪はありません。我々が出来ることは全力で命を救って上げることではないでしょうか。――きっと赤ちゃんも我々の助けを待っていると思います。みんなで力を併せて共に戦うんです。医者も親も関係ありません。人の命を救うという崇高なことの前では皆平等です――』


                 *


 手術時間3時間50分。人工心肺時間43分。アレスト時間23分。驚異的な速さで手術は終了した。いわゆる左房と共通肺静脈腔切開部を側々吻合しない、suturelessテクニックで肺静脈血の還り道を心房へ作成した。石神の得意な手技の一つである。人工心肺離脱後は、再生医療研究の一環で発見された線維芽細胞非増殖因子を冠静脈より逆行性に心臓に投与して、手術を終了した。将来起こりうる吻合部の再狭窄を予防するためである。まさに手術と再生医療が一体化した高度先進医療の一端であるといっていいであろう。


「2、3日で肺うっ血像は消失します。あとは一時的に上昇した肺高血圧が下がるのを待って人工呼吸器から離脱できると思います」

 石神が弘と隆に説明している側ではブラジリアン吉田Tが人工呼吸器の設定を細かく指示していた。結局high PEEP+low tidal volume 換気設定で肺保護メインの呼吸管理を行う方針となっている。

「結局肺にとってはどういう管理がいいんだ?」

 井上隆医師の質問に石神が口を開く前に吉田T医師がここぞとばかりまくしたてた。

「新生児では振動換気では脳出血のリスクがあります。ましてや心臓外科の手術のあとではそのリスクは3倍に跳ね上がります。そこで経肺庄を可能な限り下げて、代わりに肺胞虚脱を防ぐためにhigh PEEPとした…」

 熱い説明をどこ吹く風に、無理を押して車椅子で面会にきていた、患児の母親である井上綾子が、オペ看・國生さんとICUの当日管理リーダーである大谷ナースの説明を受けていた。父親である井上弘氏も付き添って聞いている。

「しかしこんな小さな子に心臓の手術ができるんだなあ」

 弘の感嘆に綾子もインファントウォーマー内の我が子を見つめながらつぶやいている。

「頑張ったね。体の色も見違えるみたい」

「十分に酸素が体に行き届いているんです。これからは痛みやストレスに対する赤ちゃんのシグナルを私たちが見つけてお世話していきますね」

 大谷ナースが長身のスラリとした背筋を伸ばして綾子を見て微笑んだ。

「手術中も泣き言ひとつ言わず、頑張っていたわよ」

 國生さんの言葉にすかさず

「そりゃ麻酔してるもの。術中に泣いたら大事だ」

 大賀副部長がきちんとツッコミの手を入れ、国生さんはペロリと舌を出した。


「ふーむ。終わりよければ全て良しか」

 ヒゲをしごきながら少し離れた場所で村中医師が見守っていた。

「…あんた、勝算はあったのかの?」

 患児に近寄らず、井上老医師が村中医師の隣に立って聞いてきた。村中は視線を患児の眠るインファントウォーマーに注いだまま答えた。

「先生も、医師としてお分かりになると思いますが、世の中にはどう人事を尽くしてもくつがえせない病気は、あります。我々が経験してきた昔でも、医療の進んだ現代でも。しかし、だからといって可能な人事は尽くすのが我々医師の勤めです。結果がわかっていても、わからなくても。間に合うか間に合わないか、予後がどうなのか。経験則でしか話せないのが現実ですが、今回我々は総力を上げてあなたのお孫さんの救命に努めました。そしてこの光景が結果の全てです」

 井上老医師は村中の言葉を受けて、目を細めてICUを見渡した。

 ブラジリアン吉田Tと人工呼吸器の前で討論している隆がいる。

 赤ちゃんの前で微笑ましく談笑している綾子とナースたちがいる。

 それを見守る弘がいる――。

 そしてICUの入口付近に腕を組んで壁に寄りかかっている手術着を着た男がいた。

 ――確か執刀医の石神といったか――。

 こちらを見つめているので、軽く会釈をすると、向こうも会釈を返してきた。

「あの男は本当に一直線です。手術前のお話の席でお分かりになったと思いますが」

 村中が井上医師の視線を辿って言葉を継いだ。

「単純な男です。しかしだからこそ命を守ろう、救おうとする気持ちは本物です。人間なので失敗もします。しかしだからといって手を抜いたりはしません。結果がどうであれ受け止めなくてはいけない。そのためには全力であたるしかない。我々は全員でサポートします。各科の敷居などありません。それぞれが出来ることを全力で行なっています。そして患児にとっては、なによりもあなたたち家族皆さんのサポートが最も重要です。本気の家族さんの願いが我々の力となり、患者さんを救う力になると信じています」

 老医師が一瞬うなだれたように、村中には見えた。

「…儂は――」

 老医師の言葉をかき消すように、隆と弘が揃ってやってきた。

「父さん」

「親父…」

 言葉はなかったが、3人の視線が絡み合い、村中には3人のわだかまりか何かが吹っ切れたような気がした。老医師の言葉は聞き取れなかったが、きっと――。


「さあ、これからはICUが主戦場ですよ~、皆さん」

 ブラジリアン吉田Tが陽気にモジャモジャヘアーを振って宣言した。

「早期抜管といきますか」

 大賀も張り切っている。

「その前に、家族揃っての面会よ」

 ICUのスラリ美人大谷ナースが腰に手を当てて踏ん張った姿勢でドクターズを宥めている。

「へいへーい」

 吉田Tと大賀が肩をすくめて笑いを誘った。


                 *


「いやあ、上手くいってよかったな」

 金髪・柳が徹夜の疲れもなんのその、といった表情で話しかけてきた。

「肺リンパ管症でまだ呼吸が安定しないかもよ」

 吉田J(女)が口をはさむ。ハタナカも思わず頷いた。

「しかし、やっぱコンジェニの醍醐味だよなあ。風前の灯火の命を外科手術で治す、これ以上痛快なことはないよなあ」

 誰ともなしにつぶやいた独り言を聞いていたようだ。

「お前らも、そのために修行してるんだろ」

 いつの間にか隣に来た石神がニヤリと頬を歪めてニヒルに笑った。

「僕もで~す」

 すかさずミスターハーフが口を挟んでくる。

「いい、病院、いいチームだな」

 同級生だという井上隆氏が石神に話しかけてきた。

「ああ、最高だ――」

 という、石神の返事を期待していたが返事はない――。

 不振げな表情で目をやったコンジェニチームが見た光景はいつもの…。


「大谷ちゃあん、術後の管理について今日のアフターファイブ2人でどう?」

 ICUが誇る和製アンジェリーナに真っ向からそっぽを向かれた、我が部長の姿であった。。。


 患児のバイタルは安定している――。

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