第2話.VSD ヴイエスディー;ビギニングオブザコンジェニ

 目の前に緑色の人工の壁がそびえ立っていた。20階建ての巨大総合病院。壁面は緑色に彩色されているが都会での自然へのカモフラージュといったところか(そうも思えないけど)。よくもまあ、都心にこんなに広大な土地を見つけたものだ。2つ先の駅からでも、圧倒的に視界に飛び込んでくる『関西医療センター』の巨大な文字。

中央の前面鏡張りの建物が本館であろうか、巨大な噴水から放射線状に延びるプロムナードが入り口へと続いている。その左右にもスタイリッシュなビルが林立しており、これまたスタイリッシュな紺と灰色の制服を着たガードマンが後ろ手に組んだ手をピクリとも動かさずに彫像のように自動ドアの前に佇んでいる。

 ――ガードマンって警察官の天下りが多いんだよな。

 何とはなしに、それも誰から聞いたかもわからないミニ知識が脳裏をよぎった。

どうりで立つ姿も決まっているわけだ。ふーん、もと警察官? いかにも隙がなさそうに見える。

 ――俺だって学生時代は武道やってたんだぜ。ほら。気?らしき念をガードマンに向かって送ってみた。が、彫像は動かない。と、アホなことをしている暇はないので、そのままレンガ調のタイル張りの小道をセンター入り口の方へ歩いていく。視界に入った時点でそのガードマンにジロリと一瞥をくれられた。まるで(小僧、遊びじゃないんだぜ)といった感じ。俺の気も意外と効いたのかも…。

 陽光がガラス張りに反射して内部がわかりにくい巨大な自動ドアが開き、俺は病院内に吸い込まれていった。


 「おお、来たか。」

 受付で聞いたとおり、エレベーターで4階まで上がり、医局と書かれたドアを開けると右手にこじんまりとした応接間があった。木目調の小さなテーブルとそれをはさんで対面するように置かれた小さなソファー。座っている人物が声を上げた。

 銀縁の細身のメガネが光り、書類から顔を上げた男が声を発した。立ち上がると俺と同じくらいの背丈だが、筋肉はしっかりついてそう。半袖のKCから浅黒く日焼けし、発達した前腕と上腕二頭筋が見えた。

「早速、今日から働いてもらうぞ」

 年齢50代半ば、髪は短く意外と黒々している。関西医療センター小児心臓血管外科部長の石神遼一だ。国内唯一の心臓外科のメッカ、国立循環器病センターで小児心臓外科の症例経験を重ね、更に各地の大学病院で腕を磨き、5年間の米国留学を経て40代で小児専門病院の心臓血管外科部長に抜擢された人物だと聞いている。先輩数人を差し置いてこの新設センターの小児心臓血管外科部長に引き抜かれたことは、年功序列を重んじるこの世界においては異例の人事異動であった。先日東京であった学会ですでに一度挨拶は済ませていた。


「よろしくお願いします。今日の午前中は院内コンピューターやシステムのオリエンテーションに出席するように事務に言われていますが」

 俺の返事に、さも意外だと言う表情が浮かんだ。

「お前、ここに手術しに来たんだろ? コンピューター触りに来たのか?」

 ポイントマイナス1。頭からやり込められてしまった。若くしてトップに立つ人の反応に食らい付いていくしかない。

「――もちろん手術をしに来ました。事務仕事は実践しながら覚えていきます」

 0.5秒で返事を返す。

「事務には俺のほうから言っといたから。すぐにオペに入るから、ちんたらオリエンテーションなんかやってる暇はありませんとな」

 先手必勝。すでに相手は先を行っている…いきなり事務方が敵となってしまった。新米にはやりにくいんだよな。しばらくは事務の言うとおりにしておきたかったのに。 

 言うだけ言うと、石神は立ち上がり、手にしていた書類をテーブルの上に放り投げた。

「10時からオペ。3か月男児、VSD、high flow PH。ASDとPDAもあるトリプルシャントだ。オペレコみてウチのやり方確認しとけ。オペ場で皆に紹介してやる」

 慌てて書類を手にした後、視線を戻すと、すでに取り付く島もなく医局の奥に歩み去った背中は、まだ俺にとって敵か味方か判じかねる偶像だった。


 9時55分。オペ室11番に俺はいた。すでに部屋の中央に位置する麻酔器では麻酔科の医師がテキパキと動いており、また手術台から2mほど離れた壁際には人工心肺が設置されており、そこにはperfusionist(人工心肺を回す臨床工学士(CE))2人が、それぞれ忙しそうに動いている。また、部屋を出たり入ったりしているオペ場看護師が時折うさんくさげに俺の方をチラリと見る。

 ――どこに行っても最初は落ち着かないな。

 飛んでくる視線に負けじと、目をそらさないようにこちらの視線をぶつけ(俺は怪しくないんだ)というメッセージを送るが、マスクから除く目のきれいな看護師は逆に不信感を倍増させた様子で、しばらくドアの向こうに消えて姿を現さなくなった。

 ――勝った。今度着たら歯をむき出して耳をバタバタさせちゃおうかな。なんて、何の益にもならない優越感を持ったとき、ドアの向こうからさっきの目の澄んだ看護師に引き連れられてあと2人の看護師が入ってきた。3人でこっちを見て内輪で話し始めた姿には、俺も到底太刀打ちできずに、それ以降しょんぼりと視線を合わすことすらできなかった。元々気が弱いんだよな、俺。特にあの目の澄んだ看護師さんはマスクに隠されているとはいえきっと美人そうだから余計に参るな…。


「新しい先生やろ?」

 少し気弱になった俺に声を掛けてきたのはCEの一人であった。目を上げると(オペ場なのに)マスクもせずにひげ面をさらしてニタリと笑うオヤジがいた。

「石神先生から聞いてるで」

 薄汚くても百万の援軍を見つけ、口を開こうとした瞬間、

「お願いしまーす」

 どやどやと患児が移動用の小ベッドに乗せられて数人の看護師と医師とに連れられて入ってきた。すかさず、ひげ面CEも澄んだ目の看護師たちも自分の持ち場へ戻って行く。患児は声高に泣いており、あやされながら手術台へと乗せかえられた。手際よく麻酔医がマスクを当て、吸入麻酔を始める。2人の医師が左右に分かれて手背に末梢ルートを確保するため駆血帯を巻いた。一人は身長180cm以上、胴回りも1mはありそうな巨漢。もう一人はオペ帽子から除く長髪が金髪の細身。背丈は俺と同じ170cmくらいか。小児心臓外科チームは新たに俺を入れて5人いると聞いているが、そのうちの二人であろう。麻酔医はブルーのスクラブ、外科医はグリーンのオペ着を着ているので判別は容易である。左手に末梢ルート、右橈骨動脈にAラインを確保し、麻酔医が手早く挿管をした。続いて右内頸静脈より中心静脈(CV)ルートを取りにかかっている。


「もしかして、今日から来られた先生ですか」

 入室後視線を感じていたが、オペ着を着た金髪ドクターが話しかけてきた。

「あ、はい。ハタナカです。よろしくお願いします」

 意外と丁寧に声を掛けてきたので、思わず声がうわずってしまった。

 格好わりー…。先手必勝のはずが…。

「僕は柳です。よろしくお願いします。コンジェニ3年目です」

 卒後7,8年目か? それとなく値踏みする。なかなか美男子だ。目は鋭い。むむ、できそうな奴――。関西弁ではなさそうだ。

「彼は権田。僕より学年は3コ下だけど、学生時代に休学してニュージーランドにラグビー留学してたから年齢的には2コ下。成人は2年間経験があるけど、コンジェニは今年から。」

 金髪の柳が、忙しそうに患児の体位を取っている、もう1人の巨漢外科医を紹介してくれた。

 聞こえたのか、野生の勘なのか? その権田氏がチラリとこちらに視線をとばして軽く会釈をしてきた。こちらも頭を下げる。 

「まあ、はじめてならとりあえず今回は見といて下さい」

 柳はそういうと、権田の仕事を手伝いに行った。

 なるほど、ラグビー出身か。ガタイがどうりでいいはずだ。いかにもオールドブラックスで勇壮に踊っている方が似合いそうな雰囲気だ。名前も権田というより剛田、ジャイアンがふさわしい。もしくは巨人ゴリアテってとこか?

 そうこうしているうちに患児はCVルートが取り終わり、体位は固定され、小児循環器内科医により経食道エコーが挿入されていた。


 手術室のドアが開き、石神が入ってきた。いいタイミングだ。チラリと視線をこちらに遣り、柳と権田に声を掛けた。

「よし、手洗うぞ」

「はい」

 異口同音に応じた2人は石神に続いて手洗いにいった。

 患者の消毒は? と感じた疑問は次に手術室に入ってきた人物によって解決された。

 ―― ゆらり、という形容詞がふさわしいか。気のせいか音もなく自動ドアがスライドし、もう1人のドクターが入ってきた。

「―― 消毒しよう」

 ギョロリとした目を剥いて、彫りの深い顔がこちらを見た。

「新しい先生?」

 コンジェニチームの残る1人か。少しハーフっぽい感じ。

 イソジンを綿球の入ったピッチャに静かに注ぎながらドクターハーフは俺に質問を投げ掛ける。

「何年目?」

 ―― 3年目です。

「コンジェニは?」

 ―― 初めてです。

「ふん、どうして?」

 ――これはコンジェニを選んだ動機か? こんな場面でなかなか一言では説明できないが…。とりあえず、石神先生に憧れて―― とでも言っておこうか――。

「―― わかった。まあ、頑張ろうね」

 なにをーっつ。答えてねーよ。俺の話聞いてないし。どうでもいいけどとりあえず話を継いでいただけかいっ。心の中でムンクの叫びを発しつつドクターハーフをねめつけたが、彼はどこ吹く風で消毒を終えて周囲に敷いたガーゼを除去している。

「これで、いいか、な」

 また期待しないで俺の同意を求めている。かなり自己中心的な人物だ。

「サワシタ先生、親分来ましたで」

 ここでひげ面CEの声が割り込んできた。名前、ゲット。意外と普通の名前だ。

「ああ、そう。石神先生、僕も手を洗いますか。」

 ミスターハーフことサワシタドクターが、手洗いを終えて再度入室してきた石神に声を掛けた。

「今はいい。ポンプオフしてから入ってくれ」

 清潔な両手を眼前に掲げながら大またで入ってきた石神が答えた。そのままコーナーで清潔術衣を着ている。続いてジャイアンと金髪が入ってきた。チームが揃った。


 5分後、清潔覆布を掛けられた患児の前に3人の男たちが立っていた(と、ついでに俺も手洗いして4人目として密やかに)。

 患者確認のタイムアウト終了。きらり、と無影灯の光が石神の装着した拡大鏡に反射した。眼球の動きは把握できず、無機的な表情が手術室を見回した。

 ―― 一瞬、手術室が静まり返る。麻酔医が、CEが、外回り看護師が、直介看護師が次の言葉を待つ。言葉なく、石神が麻酔医を見遣ると、こちらも無言でうなずく。

「お願いします」

 石神の低く、透る声が、止まっていた時間を動かしはじめた。一斉に手術室に色が着いた。

「お願いします」

 全員の声が和して、手術が始まった。俺の最も好きな時間。しかし今まで一般外科で経験してきたものと、明らかに違った。この始まりが俺のコンジェニの時間の始まりであった。


 手術は圧巻だった――。無影灯にfocusをあびた患児の白い胸が、石神の操るバウムメスで一直線に開かれた。皮下まで一気に線が走るが、出血はない。ついで電気メスにより胸骨表面まで進み、剣状突起から胸骨切痕まで道が確認された後、ストライカー(いわゆる胸骨ノコ)にて胸骨は一刀両断された。素早く石神の手が踊り、胸骨と胸膜の出血が止血される。手術開始後3分には開胸器が開かれた胸骨に掛けられ、心膜に覆われたheartが拍動とともに皆の目の前に露出されていた。金髪が開胸の手伝いをしている間にジャイアンはCEより人工心肺の回路をもらい、術野に固定している。

 一瞬目を放した隙に、心膜は切り開かれ、吊り上げられ、拡張した右房と右室が確認されていた。上行大動脈から送血管、下大静脈(IVC)から脱血管が挿入された。

「ポンプオン」

 石神の低い声が体外循環開始を宣言した。ここまで20分。かなりのスピードである。

 果たして俺にこんなことができるのだろうか。

「やってることはいつも同じ。慣れとイメージ。あとはセンス」

 人の考えを読んだように、石神が声を俺に投げ掛ける。反応している余裕はない。上大静脈(SVC)に脱血管を追加し、フルポンプにした後、大動脈遮断、アレスト(心停止)までスムーズに進んだ。急速に部屋の温度が低下する。心筋保護液の注入と氷を用いた局所冷却にて心電図の波形はフラットとなった。

「アレストです」

 麻酔医とCEの声が重複した。

「よし。IVCスネア、右房切開、FOよりベンティング開始」

 流れるような手さばきで心房は縦切開され、ステイスーチャーで開いたまま固定され、卵円孔(FO)からベントチューブが左房内に挿入された。

 金髪が金属べラにてよけた三尖弁越しにVSDが確認できる。しかし実際は教科書のシェーマと異なって立体的な構造物の隙間に見え、クリアな孔としては見えづらい。

「VSDがすぐにわかるまでに15年はかかる」

 またしても人の考えを読んだかのごとく石神がつぶやいた。金髪と俺が覗き込もうとすると石神の容赦ない叱咤が飛ぶ。

「お前らが見ようとすると場が乱れる。術者のみが見ればいい、見るなっ」

 金髪はふてくされたように元通りの姿勢をとって場の展開に全力を挙げる素振りを見せたが、俺は更に体を乗り出して心房内を覗き込んだ。周りが目を剥いた。場が凍った。


 賛否両論。果たして外科医の世界は以前の如く徒弟制度でいいのか。年功序列で上のもののみオペを許されるのならば、若い者の実践の場に臨む機会は失われていく。2010年代より急速に携帯メディアの普及が広がり、技術的な画像は万民のものとなった。かつては師のもとに弟子のみが盗み得た技術を、言うなれば世界中のテクニシャンの技を寝転びながらポテチをかじってYouTubeで習得することが出来るようになったのだ。無論、テレビや映画のように単に見るだけでは身につかないのは当然だが。その結果、キツイ・キタナイ・給料が安い(だったっけか)、とにかく3Kとか言われて一部のマゾ的な変態(失礼、外科医の皆さん)のみが選択してきた外科の世界、特に心臓血管外科、中でも特にコンジェニの希望者数はドッと減ったのはナチュラルコースであった。門を叩いて顔を少しでも突っ込まなければ、垣間見ることさえ不可能であった世界が、ネットという世界で少しの代金と引き換えに1日でほぼ奥義と言われる深い部分までサーフィンできるのであれば、誰しもが自分の職業として考える前にその方法を取るのは自明の理である。果たして、労働力となってきた腰掛けヤローたちがいなくなり、本気で働いている人には非常に労働環境が厳しくなってしまった。

 さらに追い討ちをかけたのが新プライバシー保護法と伝統技術継承のための特許改正法である。あまりにも手軽に見ることができるようになった各界の伝統技術を再度その歴史的経緯を含めて価値を認識するためにべらぼうな特許料金を要求することが認められ、それこそ徒弟制度が復活してしまった。師の技は、結局弟子となって耐えて盗み得るしかないと。一瞬でこれらが頭をよぎった―――わけではないが、少しのチャンスでも実物を目に焼き付けたい。目に焼き付けろ!


 「痛っつ」

ドベーキー鑷子の背中が俺の左手の甲を叩いた。思わず呻いた。

 「術者の心を乱すな」

石神の低く抑えた怒声が聞こえた。皆の動きが止まった。人工心肺のみ回り続けている。

「しかし――」

「VSD、大きさ8mm。ペリメンアウトレット。パッチ準備」

 俺の反論は虚しく、次の指示にかき消された。思わず動こうとした俺の左手に、そう、叩かれて瞬間に腫れた左手に、そっと手が重なった。

(!?)

 目を上げた先に直介看護師の澄んだ瞳があった。一瞬だった。ほんとに重なったのか、という触れ方だった。誰も他には気づいていない。が、言いたいことはわかったつもりだった。これでも外科系の飯を数年食べてきている。ここは我慢しろと。無言の助言に従うしかなかった。

 オペは進む。

 VSDの閉じ方は術者によって異なる。というか、徒弟制度の特色強く残っている外科の世界では自分が学んできた一派(施設というべきか)、師匠に大きく左右される。三つ子の魂百までとはやっぱりよく言ったもので、幼い頃の刷り込みというべき手術手技は最初に見た術者のそれがほぼ6割以上の確率で受け継がれる。なぜ『ほぼ』で60%しか継承されないのかって? 基本的に医師という人種は変態である。もとい、変わり者が少なくない。すなわち一期一会の出会いである師匠とのめぐり逢いはそれこそ運命と言っても過言ではないのではないか。正しいか正しくないかはこの際大きな問題ではなく、自分に合うかどうか、である。医師としての進む道はそこで≪これだっ!!≫というモノに出会うかどうか、それに尽きよう。まあ、どんな仕事であれ同じであるが。好きな食べ物、好きな音楽、好きな異性、とあげればきりがないが最初の印象が全てでありその人の一生を決めるのである。さて――。


 石神のVSD閉鎖方法は連続法であった。すなわち心室中隔という複雑な壁に空いている孔を閉じるわけであるが、材料としては閉じる布と縫い付ける糸が必要である。閉じる布(パッチという)は不織性のダクロンやポリテトラフルオロエチレン(PTFE) という舌を噛みそうな合成素材などが使われる。このPTFEは縫って布にしたものでなく、素材を吹き付けることによって面にしたもので、要は漏れる縫い目孔がない。撥水性がありスキーやスノーボードのウェアの素材として一般的にも使用されており、医療工学分野では人工血管の素材となっている。これらのパッチをモノフィラメント糸で縫いつけていくわけだ。ただ、これが全てではない。これだけならば裁縫の得意なそこいらのオバチャンのほうがよっぽどうまいわけで、先天性の心臓手術が外科手術の中でも特に保険点数が高くて病院に多大な利益をもたらすほどの技術料を要求すると知った日には、オバチャンたちは日々の家事やパートをほっぽり出して、このパッチ縫合術施行に群がるであろう。もちろん手術に臨むためには下地というか、なにより医者であることが絶対条件であるが、ただそれだけではなく外科医全員が必ずしもこの手術が満足にできないわけがある。

 心臓は電気生理で動いている。すなわち心房にある洞結節(とうけっせつ)から発電された電気信号がHis束、房室結節という中継点を経由してプルキンエ線維、左脚、右脚と心室へ伝導して心収縮を発生させる。心電図というのはこの電位を胸壁からひろったものであり、これによって簡便に心臓での電気の流れやすさや流れにくさが提示されることにより不整脈や心筋梗塞などの心疾患を診断することができるのである。さて、VSDだがその孔はどこにあるのか、部位により分類されるが最も頻度的に多いのが心室中隔膜様部である。そして本来なら房室結節からの電気信号が一本化されて心室へ伝導する部分である。では同部位に孔があったらどうなるのか。電気信号が途切れる? 世の中にはそのような心疾患(不整脈)ももちろんある。先天性の房室ブロックと呼ばれるもので、何らかの理由で心臓の上の部屋(心房)からの電気刺激が下の部屋(心室)に伝わらない(ブロックされている)。心室が動かないということは、心臓が収縮しないということなので、血液が体に駆出されない。血圧はゼロ。はっきりいって死んでいる。この場合、治療方法はただ一つである。みんなも聞いたことがあるであろう、そう、ペースメーカーの植え込みである。これを体内に入れることにより機械的な信号が発生して心臓を動かすための情報分野を担ってくれるわけである。不整脈にも色々なパターンがあり、例えば心房の自己ペーシング機能はしっかりしている、しかしブロックである、また心室の心筋の機能も問題ない、というのであれば、心房の信号を感知して同数の刺激を心室へ与える機能をもったペースメーカーで治療完了ということになる。他の場合も色々あるが、それはまた後日…。


 話がペースメーカーにのめり込んでしまったが、VSDの話に戻ろう。そう、その電気の通り道に孔があったら? なんとうまいことにその孔を迂回した経路ができているのである。人間の体は摩訶不思議、というかなんと適応能力の高いことよ! そしてようやくここで最初の問題に戻る。なぜそこいらのオバチャンが孔をパッチで塞ぐように縫うことができないのか。答えは、そう、迂回した電気の通り道を縫ってしまうからである。心不全の原因は、VSDを閉じることによりなくなった。しかし手術によりブロックを発生させてペースメーカーを植え込む必要ができた、という図式は非常に喜ばしくないのである。孔は閉じた、不整脈も起こらない、これが真の心臓外科医(コンジェニ)であろう。かつて心臓外科手術の黎明期においては患者の命を救うことが最優先であり(当然か!)、ブロックが起きることは単なる合併症のひとつであるとみなされていた。しかし無事に手術が可能となった現代では、ブロック発生は心臓外科医の腕のバロメーターのひとつであり、術後全例ペースメーカーという時代はとうの昔に過ぎ去ったというわけだ。必然的にブロックを作る心臓外科医は淘汰され、いなくなってしまった。

 そして解剖学的に解明された刺激伝導路であるが、実際に心臓を見てそこを避けつつパッチを縫合していくテクニックというのは、会得するまで10年はかかると言われている。VSDの孔の位置、刺激伝導路の走行、なんと会得に時間を要する世界であろうか。しかも見取り稽古とはいえ、相手は小さな心臓であり顔をつっこんで見ることができるのは術者のみ。長く、険しい道のりの始まり、であった。

 ――とにかく、VSDは閉じられ、ついでにわずかに歪んだ三尖弁の前尖と中隔尖間の形成を行い、型どおり心室内の空気抜き、心房中隔欠損直接縫合閉鎖、アレスト解除となった。除細動を必要とせず、心臓はサイナスリズムで拍動を自然に再開した。経食道エコーでVSDがしっかりと閉鎖されていることを小児循環器内科の小川女史が確認してくれた(もっとも彼女の名前を知ったのはもう少し後だが)。


「小川先生、コンプリート?」

 思わず背中を撫でられたような、ゾッとする声を石神が発した。

「エクセレントです」

 これまた鈴が転がるような愛らしい声で小川先生が答えた。手術場にホッとした雰囲気が流れた。どうやら手技終了時の決められたやり取りらしい。マスク越しでもニンマリした石神の表情が見て取れた。

「よし、後は止血閉胸任したぞ」

 石神はバイタルが安定しているのをみてティッシュ(手術台)に背を向けた。

 代わりに一助手の金髪が術者側に立つ位置を変えた。

「雪ちゃーん、少しお茶でも飲みに行こか」

 清潔手袋を外してガウンを脱ぎつつ、いわゆる“手を下ろした”状態の石神が小川女史を見て声をかけた。これも決められたコースなのか? 思わず患者より目を話して、麻酔科側に経食道エコープローベを持って立つ『雪ちゃん』に目をやったが、マスクに隠れた涼し気な目元は冷ややかに

「もう少し心機能のフォローしますので」

 と素っ気なく答え、本気で石神はがっかりした様子。ここばかりは思わず金髪と目が合って、二人してうなづいていたのであった。

 人工心肺離脱は問題なく、止血、洗浄、胸骨閉鎖まで30分で金髪と権田と俺の3人で無事に終了。サワシタドクターは結局手洗いせず外から見てただけ。コンジェニ素人の俺相手に、なかなか金髪もやるではないか。

 手術室の隅では、石神が外回りのナースをしきりに今晩飲みに行かないか口説いていた――。創部を縫合し終わり、手を下ろした俺はドッと疲れが出て思わず座り込みそうになった。かなりの緊張を強いられてたのと、それに加えてゴッドハンドの軟弱豹変ぶりに…。


 30分後俺たちは集中治療室(ICU)にいた。術後レントゲン撮影でも問題なく、手術室より患児をICUに運び、ICUのドクターやナースたちが忙しく点滴や人工呼吸器を繋ぐさまを見ていた。バイタルは落ち着いており、強心剤(カテコラミン)も少量のみの使用であった。

「親、入れてくれ」

 石神が満足そうにICUナースに指示した。

 マスクを付け、清潔ヘアキャップを被った両親が入ってきた。石神の、手術は成功です、今のところ順調です、という説明に涙ぐんでいる。

 ―― なるほど、相手は小児だが、説明や今後のコミュニケーションの対象は親だな。大人相手と勝手が違う。手術された子供の痛みを代弁するのは親であり、対処して落ち着かせるのは子供の体と、親の精神状態か…学ぶべきことは多い。

「本当に、ありがとうございました。」

 両親が次の面会時間まで退室したあと、石神が俺を振り返ってニヤリとした。

「これがコンジェニだ。」

 俺のコンジェニ生活の始まりだった。

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