第5話 尋ね人

 シルアリンは背の高い木だ。


 実を取るためには木を揺すって落とすか、よじ登らないといけない。登ったなら当然、降りる。降りられるわけだ。


 木のてっぺんと窓の位置がほぼ同じだから、ここから木を伝って下に行けるんじゃないだろうか。


 この窓も体を横から通せば抜けられるだろう。さすがに飛び降りるのは危険だけど、木をうまく使えば。


 いや、無謀か。


 幹に移動する前に枝が折れる気がするし、失敗して落ちたら大怪我をすると思う。だいたい外に出たところで、どうやって敷地を出るのか。


 この窓から見えているのは塔の裏側だ。どうやら見張りはいないようだけど、崖が脱出を阻んでいる。飛び降りて無事でいられる自信はない。


 記憶にある塔の表側は、壁に囲まれていた。門は閉まっていると思うし、たぶん見張りもいるはずだ。


 やっぱり、逃げられない。


 ニカもこういうことを考えただろうか。


 なにを思ったんだろう。ニカはこの通路で一晩を過ごし、なにを思い、どう考えて、姿を現したんだろう。どうして広場じゃなくて――


「胸が痛いの?」


 両肩がゾクリとして、首の皮膚がピリピリと逆立った。「え」と漏らした声に怯えが滲んでしまう。時計を力いっぱい握って持ち上げた。


 電流が流れたのかと思ったし、その前に感傷を責められたような気がした。レフの問いかけは、それくらい冷たく聞こえた。


 レフはふしぎそうな目をして言葉を付け足した。


「胸を押さえてたから」


 ああ、と息を吐いて頷く。姿勢を変えてあぐらをかいた。


 そういうことか。心臓のあたりをさすっていたのは完全に無意識だ。


 そっと時計から手を離した。拳をつくって胸に押し当てる。


「たまに痛くなるんだ。心臓……なのか、ただの筋肉痛なのか、よくわかんないけど。たいしたことじゃないよ。ほっとけば消えるし……」

「いつから?」

「いつ……いつだろう」


 一年前からだ。この通路にはじめて入った日、そのあとからだ。


「動いてると痛くなる?」

「いや、関係ないと思う。動いてても、じっとしてても……」

「今は? 今も痛い?」


 心配してくれているんだろうけど、レフの眼差しはまっすぐすぎて怖い。見られたくないものまで暴かれる心地がする。


 むりやり笑顔をつくって首を横に振った。


「今は平気。すぐ消えるんだよ。だから心配いらない」


 ふーん、と首をかしげたレフは、視線を窓のほうに向けた。


 窓の前を独占しているのは自分だから、レフを照らしているのは緑の光だ。通路を歩くには充分なアンバインの照明だけど、月光にくらべると暗い。そのうえ、緑色のきらめきは徐々に数を減らしていた。


 レフは顎や耳の裏をさすりながら何かを考えているようだった。「うーん」と唸っていっそう深く首を傾けてから、まじめな顔つきで振り向く。

  

「エルタンはこの収容所に来てどれくらい?」

「え?……二年だけど」

「二年かあ」


 レフが顔をしかめた。


「痛いのって、原因は心臓じゃない気がするなあ。僕は医者じゃないから断言はできないけど。でもさ、心と心臓はつながってるんだよ。たかが夜のトイレで目を潰されるような場所に二年もいたら、そりゃ痛くなるって思う」


 心と心臓。


 心臓と――命。


「さあ……どうだろ」


 下を向いて口を閉じた。


 そうかもしれないと思ったけど、それならそれで、話題にしたくない。


 思えば痛むのはいつも、いやなことが頭をよぎったときだ。


 ニカと別れてから。左目を失ってから。オレクと口をきかなくなってから。


 それが原因で痛んでいるっていうなら、これでいい。


 月光を浴びる床を眺めた。


 アンバインは平らに整えられていて、裸足で歩いてもこうして座っても特に違和感がない。宝石であることを忘れてしまう。


 自分の足裏がすごく汚かった。


 使い古して捨てる前の雑巾みたいだ。こんなに汚れた足できれいなものを踏んでいたなんて、もっと早く気づくべきだった。


 もう全身が汚い。汚くて臭くて、最低な人間。宝石でつくられた道を歩いていいわけがなかった。


 いけないことをしたんだ。踏んではいけないものを踏みつけた。


 そっと盗み見れば、レフの足は汚れていなかった。そりゃそうだよな、と目をそらす。


「そうだ、シルアリン食べる?」


 励ますつもりなのか、お気楽な調子でレフが言う。


「取ってあげるよ。僕は何個も食べたからね。美味しかったよ?」


 シルアリンの甘酸っぱい味が口の中によみがえった。


 早くここを出ないといけないんだけど。だけど。


「……食べたい」


 毎日の食事は代わり映えしないし不味いし、果物なんてまず出てこない。食べられるものなら食べたい。


 一個ぐらい食べても平気だろう。どうせ上は真っ暗なんだし、アンバインが次に起きたときに移動すればいい。


 座ったまま動いて場所を譲った。


 レフが窓枠を踏む。横を向きながら上半身を外に出した。


 落ちるんじゃないかと思ったけど、レフの体は安定していた。ゴゾイア人にしては身長も高いほうだし、体も弱ってないから力もあって、きっと余裕なんだろう。


 片腕で体を支え、もう片方の手をめいっぱい、伸ばせるだけ伸ばして枝を引っ張り寄せたようだ。体勢を戻したレフの手にはシルアリンの丸い実が握られていた。


「どうぞー」


 どうも、と返事をして両手を差し出す。ずしりとした重みが手のひらに載って、それこそ宝石を受け取ったと思った。食べられる宝石だ。


 変色している箇所があるけど、鼻を近づけたら軽やかな香りがふわっと押し寄せてくる。熟れすぎているだけで、腐ってるわけではなさそうだ。


 ヘタがついているほうを下向きにした。産毛だらけの皮を縦に裂いていく。皮はやわらかいけど、途中で千切れないように気をつける。皮とヘタをくっつけたままにしておくのが上手な剥き方だ。


 唾液が溢れて止まらない。


 現れた黄色い果肉にかぶりつこうとしたとき、レフがよけいなひとことを言った。


「ちなみにねえ、きょうの僕のトイレはこの窓でした」

「はっ?」


 笑いをこらえているようなレフの顔と、夜気が入ってくる窓を瞬時に見返した。


 ああそうか一日中ここにいたんだもんな、と納得するのと同時に、笑いたいような怒りたいような、むず痒い気持ちが押し寄せてきた。


「あのさあ、なんで今それ言うんだよ。食べるとこなのに」

「大丈夫だって。シルアリンにはかかってないよー」

「そうかもしんないけど、そういうことじゃなくて。想像しちゃっただろ。さっき俺そこに手をついてたし。なんとなくこう、いやだろ」

「あー、そこね、かかっちゃってるかもしれないんだよなーって思いながらエルタンのこと見てた」

「はああっ?」


 悪びれもせずにレフが笑い声をあげる。冗談にしろ本当にしろ、ちょっとひどくないか。


「おまえ性格悪いな。食べるときに言うなって」

「食べてる最中のほうがよかった?」

「もっと悪い」


 あんまりいい気分じゃないけど、だからって食欲は失せない。かぶりついたシルアリンは、舌の上でやわらかく崩れた。


 熟しているからか、酸っぱさより甘さのほうが強かった。口の中いっぱいに味がひろがって、喉から胃に落ちていくのがはっきりとわかる。二口目のために口を開けたら、唾液がこぼれそうになった。


 家族三人で暮らしていたころ、近所にシルアリンの木があった。年に二回も実をつけるし、手を加えればほぼ一年中味わえる。特にごちそうだと思ったことはない。


 だけど、このシルアリンはごちそうだ。


 爽やかな香りが鼻の奥を強く刺激した。慌ててレフから顔をそむける。


 今だけは右目を見られたくない。アンバインの眠り具合が気になっているふりをしながら、こみ上げてくる涙を乾かした。


「甘いでしょ?」

「うん」

「この通路に住めそうな気がしてこない?」

「食料調達とトイレが同じ場所じゃなければ」


 あはは、とレフはとぼけた様子で笑った。


 皮と種をヘタにくっつけたまま食べ終える。それを窓の外に放り投げてから、深まる闇をあらためて眺めた。


「上のアンバインが起きるのっていつだろ。日付が変わる前に戻らないと……」

「日付が変わる前にぃ」


 歌うような調子でレフが告げる。


「外に出てさぁ、あの川に飛びこんだら助かるよ?」

「出れないし。仮に出れたとしても、あの崖は危ないだろ。飛び降りたら岩にぶつかるかもしれないし、無事に飛び降りられたとしても泳ぎ切れるようなショボい川じゃないから無理」

「あ、泳ぎはできる?」

「できるけど、体力ないし、対岸までとか絶対に無理」

「そっかあ。じゃあ早く出口を見つけて川に行こう」

「聞いてた? 無理って言ってんの。人の話を都合よく無視すんなって」

「無視してないよ。提案してるんだよ」

「朝からこの通路を探検してたんだろ? 出口なんてあった?」

「外に通じる出口は見つけてないね。でも扉ならあったよ。もうちょっと下まで行くと、こっち側にある」


 レフが窓の反対側を指さした。


 とたんに真っ黒な手で胸ぐらをつかまれたように気分が悪くなった。背筋が寒くなるのを感じながら、早口で問いかける。


「それ、その扉を開けた?」

「うん。でも外じゃなかったからすぐに閉めた」

「誰かに見られた?」

「ちょっとしか開けてないからわかんないけど……誰かいても気づかなかったと思うよ」


 息を吐いた。


 いやな感じに心臓が脈打っている。かすかな痛みをやり過ごそうと、もういちど溜息を吐く。


「ふーん?」


 レフが怪訝そうに目を細めたとき、周囲のアンバインがすべて眠った。まだ下に続く階段には光が残っているけど、それもじきに消えるんだろう。


「上の扉は八階。じゃあ下の扉は?」


 月明かりのむこうからレフが問いかけてくる。


「……三階だよ」

「それは設計図で知ったの?」

「そうだけど……」


 ニカの姿が眼裏に浮かんだ。


 血の気のない白い肌、細すぎる体。気が弱そうな見た目なのに、実際は肝が据わっていた。その体が赤く染まって、動かなくなった。


 忘れてはならない。自分が卑怯で最低なやつだっていうことを。友達なんて名乗る資格もない。


 ねえ、とレフが話しかけてくる。


「じつはさあ、この塔で会えるかなと思ってた人がいるんだよ。知ってるかな? ニカ・トーリシュっていう名前の人なんだけど」


 息を止めた。


 喉の奥がふるえて、吐き出す息と一緒に声が出た。「え?」という、間抜けな声が。


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