第13話 心咎め

 怪物の舌をレフがひねる。


 なにかがこすれる音のあと、激突する音が轟いた。反射的に耳をふさいで肩をすくめる。


 支柱が床板を押し上げたんだろう。暗緑の夜空が復活した。


「びっくりしたあ」


 隣でレフが笑う。驚きと楽しさとが綯い交ぜになったような声だ。


 レフの笑い声はあたりに響かず、闇に吸い取られて消えた。たったいま聞こえたばかりの轟音も、すでに何事もなかったように静かだ。残響がない。


 ここの壁は音を吸収してしまうんだろうか。そういえば上の通路でも話し声は響かずにスッと消えていた。


 防音については詳しくないけど、なんらかの工夫がされているのは確かだろう。隠し通路をあくまで隠すため、大きな音が漏れないように。


「開いたね。あんなにエルタンが苦労して開けた扉がすごく簡単に」

「それでいいんだよ」

「どうして勝手に閉じるかなあ」

「さっき俺がおりるとき、腰がつっかえたんだよな。もう落ち始めてたんだと思う」

「そうなんだ?」

「床板の重さで支柱が沈むんだよ、きっと」

「勝手に閉じたら大勢が一気に通り抜けるのはできないね」

「あー……、ここからみんなを脱出させるってこと?」

「うん、選択肢のひとつだよ。ちょっと時間を計ってくれる?」

「時間? なんで?」

「ついでだから可能性の調査。この鍵をまわしっぱなしにしてみるから、それでずっと開いてるか試したい。そうだなあ、五分でいいかな」

「わかった」


 電池切れがどうとかレフが言っていたから不安になったけど、時計はまだ動いていた。


 日付が変わったのは五分前。レフに教えるのはさらに五分後。それを確認してから、あらためて周囲を見渡す。


 階段の横では壁がせり出していて、どうやら支柱はそのむこうにあるらしかった。壁に囲われている。だから支柱を押し上げる装置も輪郭すら見えない。


 床は煉瓦のようだ。壁の下側も煉瓦造りだけど、アンバインから上はちがう。触れてみた感じでは土壁だった。でも防音のこともあるし、きっとこの壁の中にいろんな工夫が詰まっているんだろう。


 明かりはほのかで頼りない。上の通路より格段に暗く、光が届かないところは黒に染まっている。


 ユトマイアがある理由はなんだろうか。


 上と下のちがい。仕掛けの有無。こっちの通路にはなんの仕掛けもないことを表している。


 それとも、宝石だらけにするには予算不足だったから。


 アンバインとユトマイアを並べたほうが、見た目がきれいだから。


 思いついた理由はどれも正解に思えるし、物足りないような気もする。


 アンバインは夫婦の絆を示す宝石。ユトマイアは、ありふれた岩石。ありふれた光――いや、どっちも自分自身で光ることはない。


「レフのひいおじいちゃんは、ここを出るときランタンかなにかを持ってたんだろうな」

「だと思うよ」

「じゃあ、ここのアンバインが目を覚ましたのは百年ぶりか」

「誰も来なかったなら、そうなるねえ」

「どんな気持ちなんだろ。ずっと眠ってて、動けもしないで」

「なんにも考えてないんじゃないかな?」

「レフが逃がしたあのアンバインも?」

「あれはきっと、故郷を目指したんだと思うよ」

「遠いだろ」

「東を目指すんだよ、かならず。帰巣性がある」

「そんなの誰が調べたんだ?」

「昔の伝て人」


 ふーん、と口を閉じる。


 アンバインはメスだから、女性。じゃあユトマイアは男性?


 考えすぎか。深い意味なんてないのかもしれない。


 一分が過ぎていた。日付が変わってから、もう六分――七分になった。


 今頃きっと、看守たちは目を吊り上げている。


 部屋長は叩き起こされただろうか。オレクも起きているだろうか。


 自分もレフも戻らない。それがこの収容所に与える影響は、どれほどのものだろう。


 ひょっとしたら、とばっちりで死ぬ人がいるかもしれない。失踪の協力者だと疑われて。もしくは看守の腹いせで。


 ニカを、踏みつけて。


 今また、誰かを踏みつける。


 足の裏がチリチリと痛んだ。これでよかったんだろうか。なにか、まちがえてるんじゃないか。


「床板、動いてる?」


 レフに言われて目を向けた。わかりにくいけど、さっきより閉じているように見える。


「落ちてってるかも」

「鍵に変化はないんだけどな。あ、そうだ」


 レフはいったん怪物から手を引き抜いて、もういちど舌をまわした。再び石がぶつかる重い音がする。


「これを繰り返してればいいのかな」

「壊れるかも」

「え、ほんと?」


 焦った様子で振り向くレフに、「さあね」と返した。本当にわからないからだ。


 レフは眉根を寄せて「うーん」と唸り、すぐに吹っ切れたような笑顔を見せた。


「きっと平気だよ。だってダータムは扉の守り神だし」

「ダータム?」

「これ」


 レフが手元の怪物を示す。


「魔除けの獣ダータム。ゴゾイアの神の化身だよ」

「へえ……知らなかった」

「ダータム信仰は王国でも一部の地域だったからねえ」

「魔除け? で、扉の守り神?」

「これと同じような鍵が家の玄関に使われてたみたいだよ」

「それ気になってたんだけど、鍵の部分って獣のべろだよな?」


 そうそう、とレフは明るく答える。


「ダータムの武器なんだよ。牙はないけど長い舌を隠してるんだ」

「そうやって握ってたら武器を封じてることにならない?」

「攻撃する必要がない人にはなにもしないってことだよ。悪いやつが来たら舌を伸ばしてたちまち搦め捕っちゃうんだって」

「ふーん……じゃあ、設計したゴゾイアの大工がそこの出身だったってことか」

「かもしれないねえ」


 ゴゾイアの神が守護する隠し通路。


 ゴゾイアを嫌う帝国の中にあって、帝国の大貴族が、ゴゾイア出身の妻のために建てた塔。


 牢獄のふりをした脱出路。それを百年ぶりに輝かせたのは、レフじゃないし、自分でもない。


 指先が痺れた。秒針の動きがぎこちなく見えてくる。


 この時計は、ニカの死とつながっている。


 首輪も、レフも、この場所に来ることができたのも。


 ニカから始まったことだ。ニカがやったことの行く末を、ニカだけが知らないまま進む。


 足の裏から頭のてっぺんまで、全身がぞわぞわと落ち着かなくなった。


 気をつけてね、と微笑んだニカが目に浮かぶ。階段の途中でお互いに背を向けた。何段かのぼって振り向いたら、ニカは立ち止まってこっちを見上げていた。


 緑色の闇にたたずむ姿が、ひどく寂しげに見えた。それでもにこりと笑って手を振ってきたから、片手で応えた。


 見かけほど弱いやつじゃないから大丈夫。きっとすぐに戻ってくる。


 そうやって、ニカをひとりにした。


 もしもあのときニカと離れなければ、一緒に謎を解いて、ふたりでここに来ることができたんだろうか。


 それともどっちかは結局だめだったんだろうか。


 どうしようもない衝動が突き上げてきた。


 ニカだ。ニカのほうだった。ここに来なくちゃいけなかったのは。


 こんな、卑怯で最低なやつじゃなくて。


「エルタン」


 名を呼ばれて肩が震えた。居心地の悪さを見透かすような声だった。


「ここを出たら仲間と合流するよ。この囚人服じゃ出歩けないから着替えて、街に戻る予定」


 難しいはずのことをさらりと口にする。ユトマイアの光にほんのり照らされるレフは、楽しい旅行に出るみたいな顔をしていた。


「――合流って、ここをいつ出られるかわからなかったのに、仲間が待機してるんだ?」

「さっきの手紙で書いたからねえ。もうすぐ出られるかもって。事前に約束してあるから、塔のまわりの三カ所で待ってくれてるはず」


 それと、と語気を強くする。


「情報提供者を連れてくってのも書いたから、エルタンも一緒に来てね」

「え……俺の意思は?」

「どうして? いやなの?」

「どうしてって……いや、いいんだけどさ。どうせ行く当てはないし、いいんだけど。なんかこう、相談もなしに決定してるってのが気になる」

「気にしない、気にしない」


 ああ、そう、と投げ遣りに答えて苦く笑った。


 レフの強引さも気になるけど、それ以上にひっかかったことがある。


 手紙を書いた時点では、出口探しに協力する話は出ていなかった。


 それなのにレフは、すでにそのつもりだったということだ。協力するにちがいないと見通していた。


 あるいは、誘導された。


 協力したくなるように仕向けられた。レフとの会話を思い返すと、だんだんそんな気がしてくる。


 それを確認するつもりはなかったし、いまさら怒ることでもない。レフの思惑がどこにあろうと、結局のところ選んだのは自分だ。


 ここに来るべきなのはニカだった。でも、ニカはいない。ここに立っているのはレフと、自分だ。それはもう、変えようのない現実なんだ。


「あ、五分過ぎてた」

「はーい、確認してくる」


 上の通路のアンバインはほとんど眠ってしまったらしい。床板がどうなっているのか、はっきりとは見えない。


 レフは階段を軽快にのぼった。「おー、開いてる!」とうれしそうに報告してから、またおりてくる。


 これで、オレクたちがこの通路を使う可能性が残った。それがいつになるのか、本当にそんな日が来るのか、まだ信じ切れないけど。


 伝て人に協力すれば、少なくとも最低な人間からは脱却できる。


 卑怯だけど、最低じゃない。そうなれるはずだ。


「それじゃ、行こうか」


 レフはそう言って、光の帯が示す通路を見据えた。ここから先は設計図に描かれていない。


「行くしかないけど。本当に外に出られるのか、ちょっと不安」

「そうだねえ。だめだったらほかの方法を考えよう」


 レフは腕を上げて背をそらし、体をほぐしながら歩き出した。鼻歌でも口ずさみそうな雰囲気だ。


 この悠然とした態度はすこし憧れる。怯えも恐れも後ろめたさも身の内に隠して――いや、力にしてしまいたい。


 通路はひたすら下り坂だった。


 進むほどに狭くなり、並んで歩くのが厳しくなる。ごく自然にレフが先頭に立った。


 行く手のアンバインがすでに眠っている。壁にはユトマイアの白い光だけがぼんやり残っている。そんなことが続き、やがてユトマイアも見えない真っ暗闇へと踏みこんだ。


「不安だから背中をつかんでて」


 不安の理由をレフは説明しなかったけど、言われなくても理解できた。


 互いの姿がまったく見えないうえに裸足だから足音もない。歩調を合わせるのが難しいせいで、知らないうちに二人の距離が開く。あるいはぶつかる。どちらかに事故が起きてもすぐに対応できないかもしれない。


 背中をつかむのは、命綱みたいなものだった。


 たまに強く引っ張りすぎて、「首が絞まるー」と注意された。いや、だって、ほんとになんにも見えなくて怖いから、ついつい力が入ってしまう。


 レフは両手で周囲を探りながら歩いているようだった。速度もゆっくりで、ときどき立ち止まる。もしかしたらへっぴり腰で歩いているかもしれない。


 おっかなびっくり進む自分たちを想像したらおかしくて、笑いが込み上げた。レフも一緒に笑い出した。


「この道、どこに出るんだろう」

「ひいおじいちゃんは、隠し通路を出たあとは森を歩いたって言ってた」


 この塔は崖の上に建っている。切り立った崖の下は川だけど、崖そのものは森とつながっている。


 捕まって塔に連れてこられたとき、その森を通った。


 それほど深い森じゃないから、近くの街からついてきた見物人に罵られながら歩いた。逃げたかったけど、鎖で拘束されていた。


 ゴゾイアの民を捕らえる鎖。あれを冷血の鎖と呼んだのは、伝て人だった。


 母が頼った伝て人は口をそろえて「冷血の鎖から遠ざけてやる」と言ってくれた。でも結局は、逃げ切れなかった。


「じゃあ、森に出るってこと?」


 伝て人だって、完璧じゃない。


 だけど仲間が待機してると言っていたし、レフも平然としているし、きっと帝国民に見つかって指をさされることにはならない。


 それよりも、自分の体力が心配だ。森まで歩き通せるだろうか。


「そうかなあって思って、できる限り調べてきたんだけどね。それらしい場所は見つからなかったんだ」


 真っ暗闇の空間から返事が流れてくる。前を行くレフの声は、すこしだけ遠く聞こえた。

 

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