第10話 蔑視
反射的に退いたけど逃げられなかった。
棒が胸をかすめて顔に迫る。のけぞったら顎の前をすり抜けた。首が強く引き寄せられ、一歩大きく進んで踏みとどまる。
首輪だ。首輪を引っ掛けている。下を向こうとすると顎にトゲが触れた。
「これが導入されたのは先月だな。最初の一人に選ばれたわけか。おめでとさん」
首輪がまた引っ張られた。足が自然と前に動いて、看守の体で視界が埋まる。
面長の顔が覆い被さるように見下ろしてきた。そばかすだらけの薄笑いだ。
めいっぱい仰向いて視線だけを下げれば、トゲ付きの棒を握る太い腕と、締めたベルトに乗っかる下腹が見えた。
看守の腹が、顔の真ん前だ。埋めることのできない体格差がそのまま力の差として迫ってくる。
「何階のやつを使うか相談中って聞いてたけど、結局八階なんだな。どれ、時間は?」
首輪に懐中電灯を当てて、看守が目を細めた。
「三十分……を切ったところか。三十分後もここにいたら電気ビリビリ、倒れたところを規律違反で拘束できるってわけだ。さあて、どうしようか」
光が顔の前でくるくると動く。目をしばたたかせると、看守は足を思いっ切り踏んづけてきた。
「いっ……!」
息を止めて歯を食いしばった。
足音がしない靴でも靴底は固いらしい。襲ってくる痛みと熱は強烈で、骨が砕けてもおかしくない気がする。
自由なほうの足に体重をかけた。首の後ろにかかる痛みが増したけど、すこしでも看守と体を離したかった。
「べつに前倒しでも変わらないよな? 移動の特権なんてどこの階から始めるかってだけで結果は同じ……あ、これ教えちゃいけないんだっけ。あーなんだっけ、人捜しだっけ?」
首輪を引っ張っていた力が緩む。棒は角度を変えて、今度は顎の下を突いてきた。
突いては離れ、離れては押しつけられる。トゲがない部分だから刺さりはしないけど、繰り返されるわずかな痛みはひたすら不快で、冷や汗が噴き出した。
「そいつの部屋に行って確認したか? 本当に行方不明? もう戻ってたりして」
顎の下を何度も小突いていた棒が、強く押し当てられた。限界まで上を向いても逃れられないどころか、むしろよけいに圧迫してくる。
ほんのちょっと下にずれたら喉仏だ。トゲで引っかかれるのも、棒の先で押しこまれるのも、考えるだけでぞっとする。そうなりそうなら、さすがに抵抗しよう。
看守の動きに注意を向けながら、両手にそっと力をこめた。
「一年前は本当に面白かった。あの生意気な脱走者」
首輪の話から、またニカの話に戻った。
どうしてだろう。わざと聞かせて脅すため? それとも、首輪とニカにつながりがある?
「その日のうちに八階まで戻さないといけないから、ひとり五分ずつ拷問して終了ってことになったんだ。俺は三番目。五人のうちの三番目だ。あ、いやいや、俺がやったのはありきたりなことなんだけどな」
光の隙間から、看守が首を振ったのが見えた。急に親しげになった声が気持ち悪い。
「指の関節を逆にしてやったんだよ。真っ白な顔がさらに青白くなって、息もハアハアいってた。五分じゃ足りなくてな、ちょっと延長して、それでも四本だ。残りの指をやったのは確か、五階か六階だな。折ったんじゃなくて潰したって言ってたっけなあ」
力をこめた手が、固まった。
わずかに折り曲げた指がそのまま硬直する。それ以上の力は入らなかったし、だけど力が抜けたわけでもなかった。動かせなかった。
「五番目の看守は蠟を垂らしてたな、傷口に。あのチビさあ、さっさと白状すればいいのに、叫び声すら出さねえの。でも泣いてたんだぜ? ボロボロ涙をこぼして我慢してんの。あの強情さは滑稽だったわ」
懐中電灯の光が揺れる。笑い声に合わせて揺れ動き、右目の上で止まった。視界が白く染まる。
「同じ八階ならおまえも見たのか? あのガリガリの小人ちゃん、最後までちゃんと服は着てた? 四階では裸にされたって聞いたけど」
まさぐるように光が円を描く。チラチラと見える看守の顔がゆがんでいた。溶けたように変に伸びて、縮んで。
「階段の鍵を隠し持ってないか調べたって。全身くまなく念入りに。そりゃそうだよな、飲みこんでればケツから出てくるもんな」
看守はヒヒヒと嗤った。どす黒くて汚い声だった。
言いたいことはない。やすやすと言葉になるような
ニカに対するこいつの嘲笑が、形にならない振動だけを生んでいた。腹の底で渦巻いてうごめいて、ますます冷えていく。
醜悪な笑顔だ。体は大きいのに顔は細くて骸骨みたいに見える。見苦しくて滑稽、とニカなら言うんだろう。
思った、かもしれない。拷問されながら、心の中でニカはこいつらを「滑稽」だと罵っていたかもしれない。
滑稽っていうのは、あれは、そう言って笑い飛ばすための、ニカなりの強がりだったんだと思うから。
「ところでさっきの質問だ。三階に来たのは偶然か、行けと言われたからか、それともほかの理由か?」
「……ぐうぜん、です」
口を開けたら棒がさらにめりこんで、えずきそうになった。
「そこの階段から来ただと? 囚人は使用不可なのに、なんでだ?」
底冷えのする問いかけだった。
二階におりるほうじゃなくて、四階に行くほうの階段が常に封鎖されているってことだろう。そこを使ったと自分は答えてしまった。
「――く、首輪は特例だって……四階の看守さんが……」
舌打ちが聞こえた。
「それはさぞかし気分がよかっただろうな? 特別扱いされて、自由に移動できて。あー、気に食わねえ」
棒がグリグリと動く。
ねじこむように動かされたから位置がブレて、顎の骨にぶつかった。うっかり舌を噛みそうになったけど、えずくよりはいい。
「おまえらには希望も喜びも不要」
だから教えてやる、と看守は凄みをきかせた。
「移動の特権なんてのは、なるべく離れた階で時間切れにするためなんだよ。規律違反で捕まえて、居住階まで歩かせながら罰を与えるための餌だ」
唾が飛んできた。降りかかる息も臭い。
「見回りだらけの夜勤は退屈だからさ、囚人を使って遊ぼうぜってことになったんだ。一年前のあれ、お気に召した看守長がいてな。どの階が参加できるかは首輪次第――ってことだけど、どうせ再現するなら、やっぱり三階から始めないとだめだと思うんだよね、俺は」
足を踏み続けている靴が、こすりつけるように動いた。皮膚がよじれて破けるような激痛に、息が乱れる。
呻き声をあげるかわりに目を閉じた。長めのまばたきだ。文句を言われる前にまた光を見る。
「それにしても失踪者ねえ。一年前の脱走と関係してるのか?」
三十分の前倒し。本来ならまだ三十分ある。これを理由にどうにかして解放へ持っていこう。どんなことを言えばいいだろうか。
「なにか知ってるなら言ったほうがいい」
レフを探している、というのを使おうか。
失踪は事実だし、発見することは自分に与えられた仕事だ。それをギリギリまでやらせてください、とお願いする。責任感を出すのがいいか、泣き落としで懇願するのがいいか。
「あのチビが誰にも見つからなかった理由とか、どうだ? 今すぐ教えるなら、規律違反のお仕置きが軽くなるようにしてやってもいいぜ?」
自分の主張だけじゃ弱いな。一蹴されるかもしれない。
こいつに関するなにかも盛り込まないと。いったん見逃すことがこいつにとって価値のあること、あるいは前倒しで始めることの不利益を伝える。それってなにかあるのか。なんだろう。
「あれ、だんまり? おまえも? なにか知ってるから言うのをためらってるってこと?」
この棒、どけてくれないかな。しゃべりにくい。
「いえ、知りません……あの、まだ時間が、あるので……さがしに――」
なにしてるんだ、と声が聞こえた。
骸骨顔が振り返る。通路の角から別の看守が現れた。
「ああ、いや、こいつ、首輪なんだよ。でももう三十分もないから、早めに始めてもいいかと思って」
「首輪なら、なにかしら指令を受けているはずだ。邪魔をするのは看守側の違反だな」
毅然とした声だった。それにくらべて骸骨看守はどことなくうろたえている。
「違反って、そんなのさあ……」
「首輪は、しつけであり褒美だ。指令を全うできれば咎めなし、できなければ処罰。決まりを破るのは囚人であって看守ではない。時間前に拘束すれば、ほかの階から抗議が来るだろう」
「黙ってればわかんないって」
「報告の義務を全うする。看守長たちが決めたことを破れば、罰を受けるのはおまえだぞ」
あーそうですか、と首輪から棒が引き抜かれた。踏まれていた足も軽くなる。
うつむきながら顎に触れた。痛みはしばらく残りそうだけど、血が出ている感触はない。
足は赤くなっているように見えた。出血してるのかどうか、はっきりとはわからない。目がおかしかった。
まばたきのたびに変な色の染みが空中で泳ぐ。懐中電灯を浴び続けたせいだろうか。
「悪かったな、首輪なのに足を止めさせて」
あとから現れた看守は、そう言って階段を指し示した。
「下に行くだろ? 一階までおりて外に出るつもりなんだよな? どうぞ。行けばいい」
含み笑いでこっちを見ている。
変な色の染みが視界を妨げるせいで、顔の全体がよく見えない。目だけが見えたり、口だけが見えたり。こいつもこいつで化け物みたいだ。
階段は使えない。それなのに「どうぞ」って。
決まりは守るけど助けるつもりはない、ということか。反応を見て楽しみたいんだろう。
「人を捜してるんです」
背中をまるめたまま顔だけを上げて、控えめに訴えた。
「まだこの三階は捜し終わってないので、もうすこし捜したいんです」
「手伝ってあげようか?」
含み笑いの看守が優しげな声を出す。
そんな提案、のめるわけがない。きっと日付が変わるまでくっついて監視するつもりだ。
「八階の看守長に言われてるんです。見回りの邪魔をするなって。だから、ひとりで捜します。下に行くときは鍵を開けてもらいに看守室へ寄るので、そのときはお願いします」
なるほど、と看守は微笑んだ。今度は階段と反対側の通路に手のひらを向ける。
「そういうことなら、どうぞ」
早く仕掛けを解きたいけど、いったんこの場を離れるしかない。「ありがとうございます」と頭を下げて歩き出した。
痛めつけられた足を動かすと違和感があったけど、気にせず急ぐ。
不服そうな骸骨と、なにかを企んでいそうな悪い笑顔とが、光の染みで細切れにされながら眺めてきた。
誰もいない通路に小走りで逃げこむ。
看守たちは追いかけてこない。取り逃がすことは絶対にない、と思ってるのかもしれない。
推測は、たぶん当たってるんだ。この時間帯はすべての階段が封鎖されていて、移動するには看守に頼まないといけない。だからあいつらは追ってこない。
歩調を緩めた。
遊びだとかなんだとか、聞いたばかりの話は頭の片隅に追いやる。最優先で考えるべきは、たったひとつのこと。
視界を邪魔する変な染みは消えかけていた。足はまだ痛くて歩きにくいけど、出血がないことは触れて確認した。
あくまでレフを捜しているふうを装いながら、来た道をゆっくり戻る。
階段前の通路には、もう誰もいなかった。
壁を横目に見ながら歩いた。立ち尽くす気にはなれない。また看守に見つかるのはごめんだ。
階段のはるか上には窓がある。かすかな月光を頼りに上へと進んだ。
四階が見えたところで立ち止まる。金網で行き止まりになっていた。向こう側にも看守の姿はない。
柱のそばで身を低くした。
ここなら四階からも三階からもすぐには見えないはずだ。でもすこし体を傾けるだけでこっちは三階を見下ろすことができる。
時計を持ち上げた。暗がりにいるから細かい時刻は見えない。でもなんとなくの針の位置ならわかる。
日付が変わるまで、十五分程度。
急がないと。レフが待っている。
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