第9話 探索
木の板が触れあうような軽い音がした。
扉の取っ手は開け閉めするときの補助として握る類のものだから、押すか引くかすればいいだけ。そう思ってまずは押してみる。すぐに固い抵抗が返ってきた。
押す力を強くしても、逆に引いてみても、びくともしない。さっきの音は鍵が開いた音じゃなかったのか?
「それね、横に動かすんだよ。僕も最初は押しちゃった」
「へえ……」
肩越しの助言に従い、今度は横に引いた。すべるように動いたから、慌てて力を抜く。細い隙間から耳を澄ました。
足音も話し声もしない。だからって油断はできない。音をたてないように、慎重に隙間をひろげた。
見えるのは床と壁だ。設計図どおりなら階段のそばの通路に出るはずだった。
自分が通れるだけの幅を確保して、そろそろと顔を出す。
左側に無人の通路がのびていた。別の通路とも交差していて、少なくともふたつの部屋が見て取れる。どっちの部屋も天井付近の小窓が闇に沈んでいるから、看守室ではない。
右の暗がりには階段がある。上に行くほうは途中で折れ曲がり、下に行くほうは金網で封鎖されていた。
ここから下に行くために利用できる階段は、遠回りをしたところにあるんだろう。八階ではそうだし、作業室がある六階も、通過するだけの七階でもそうだから。
脱走者を発見しやすくするためだと聞いたことがある。階段が離れていれば、上の階から来た脱走者は大きく移動する。看守やほかの囚人に目撃されやすくなる。
自分の耳にもはっきり聞こえるくらい、動悸がしていた。
――出て、解いて、戻ろう。
息を殺して扉から出た。
振り向くと、人懐っこい眼差しが待ち受けていた。緊張感のまるで感じられない笑顔に、思わず苦笑いを返す。
扉の外側に取っ手はないけど、かわりに窪みがある。そこに指を引っ掛けて動かし、手を振っているレフを隠した。
仕掛けを解けなければレフとはきっともう会えない。待ちくたびれたレフは三階にみずから出てきてしまうかもしれない。
――さっさと解こう。
後ろ向きに歩いて扉から距離をとった。
この壁には窓がない。天井の蝋燭も三台のうち一台しか灯っていないから、かなり暗い。だけどもっと暗いところから出てきたおかげか、わりとよく見えた。
絡みあう蔓草の絵を背景に、壁の下半分にだけ半円形の鏡のような図柄が横一列に描かれている。壁の下半分、とは言っても天井が高いから、鏡のてっぺんは身長より上だ。
鏡の輪郭は草花をかたどった枠で装飾されていた。絵ではなく、彫刻。花も葉っぱも本物みたいに立体的だった。曲がりくねって交わる茎の形は、背景の蔓草とも似ている。
この彫刻が隠し扉の境界線を隠していた。扉そのものが鏡の絵になっていて、扉と壁の境目は彫刻の陰になっている。
隠し扉は左から三番目の鏡だ。通路のほぼ真ん中、やや左寄り。
扉を閉めるのに使った窪みもひとつじゃない。鏡の中――装飾された枠の内側にあったり、隣の枠とのあいだにあったり、一定の距離を置いて横に並んでいる。
反対側の壁にも模様が描かれていた。
ただし、彫刻はない。壁一面に蔓草だ。でも横並びの窪みはあった。
合言葉はどこにあるんだろう。
八階では扉と反対側の壁にあった。壁の下側だ。ここでもそうかもしれない。
近寄ってしゃがみこんだ。
隠し扉の正面にあたる部分を舐めるように見つめる。ついでに床も見た。ここの床は煉瓦だ。六角形のタイルのように形が異なるものがあるかもしれない。
交差する通路のほうに向かいながら、念入りに調べた。
なにも見つけられないまま端に辿り着く。通路からちょっと顔を出し、誰もいないのを確認して出発点に戻った。今度は階段側へ、じりじり移動していく。
階段には照明がないから、端へ行くほど暗みが増す。見落とさないように顔を近づけ、指で触れて違和感を探した。
蔓草の中にも余白部分にも文字は見つからないし、あやしい煉瓦も見当たらない。
どこだ?
しゃがんだまま歩いたせいで足腰が痛くなっていた。立ち上がって腰に手を当てる。
溜息をついて天井を仰いだ。
塗装は白色だろうか。もし天井に文字が隠されていたら絶望的だ。この暗さじゃ見つけられない。
揺らめく灯火に目がとまった。
この通路に吊り下げられた燭台は全部で三台、そのうち真ん中のひとつだけに蝋燭が刺さっている。
蝋燭の上にはキラキラと光る傘があった。あれは火明かりを反射してより明るく照らすためのもので、蝋燭を消してもあの傘だけは残光を放つ。
帝国生まれの道具だとニカが教えてくれた。
なんとかっていう岩石の欠片を混ぜこんであって、それが光をよく蓄えながら反射もするらしい。
同じような役割を果たす素材はほかにもあるけど、この石のほうが低予算で製作できるから、ゴゾイア王国でも広く普及したという。
だけど、電気のほうが何倍も明るい。
蝋燭とちがって下向きに設置できるから、あんな傘を取り付けて明るさを強める必要もない。そんなことをしたら眩しすぎるはずだ。
この塔は時代から取り残されている。
中にいる人間は入れ替わるのに、建物の時間は停滞している。まるで眠っているかのように。眠りながらたまに目を開けるアンバインのように。
あの設計図は挑戦状だ。
百年前の大工が残した渾身の謎かけ。ニカもレフも辿り着けなかった最後の扉。でもゴゾイアの姫は、つまりレフの遠つ
ここまで来てわからないなんてことになれば。
息を吐いた。
下を向いてそっと静かに、細く長く吐き出す。緊張も焦りも一緒くたに打ち捨てるつもりで息を吐いた。
大丈夫。絶対に解ける。早く解いてレフと合流する。
顔を上げた。視界が鮮明になった気がする。目はひとつしかないけど、ひとつあれば充分。
隠し扉があるほうの壁を見つめた。
蔓草と鏡――鏡は本物じゃないから、蝋燭で生まれる影を映すだけ。装飾で切り取られているだけの、半円形の壁。装飾は隠し扉を隠すためのもの。横に引いて開けるからこその縁取り――
「ちがう……」
草花の彫刻が、くっきりと浮かび上がって見えた。
鏡じゃない。
この半円形の図柄は窓なんじゃないだろうか。だから、蔓草。この壁は屋外の風景。
これが窓だとすれば、糸がつながる。
三階の隠し扉は八階とちがって、横に引いて開ける。隠し通路にあった窓と同じ開け方だ。つまり、あの窓を模しているってことじゃないか?
壁の下半分にあるのも、糸のひとつかもしれない。
隠し通路の窓は足元にあった。それを暗示しているんだ。きっとそうだ。
しかも、これは閉まっている窓だ。隠し通路の窓は閉まっているのが正しい、そういう意味じゃないか?
これだけの手がかりを見せているなら、文字も仕掛けもこっちの壁にあるのかもしれない。
近くでよく見ようと足を踏み出したとき、不意に視界が白んだ。
「そこで何をしてる?」
怒気を孕んだ大声に血の気が引く。
毒々しい光に捕まった。不気味なほど大きな人影が近づいてくる。足音がしない。なんでだよ。革靴じゃないのか。足音があれば気づけたのに。
「消灯時間はとっくに過ぎてるぞ。どうして部屋にいない?」
すこしだけ後退りして踏みとどまった。逃げられないし、逃げようとするのは逆効果だろう。
「名前は?」
「……エルタン・プローティーです」
「八階?」
看守は名札を確認し、眉をひそめた。「規律違反だ」と言い出しそうな雰囲気だ。
「あの、八階の看守長に言われたんです。人を捜せって。特別にどこの階を捜してもいいって、あの、首輪をもらって」
慌てて説明したけど、細い声しか出てこない。自分で思っている以上に緊張している。次はどうしよう。どんな返事が来る? どんなことを言えば切り抜けられる?
看守の視線が首輪に移った。
「――で?」
どうでもいいような口振りで、光を顔に向けてくる。とっさに目をそむけたら、「おい」と苛立った声を浴びせられた。
「横を向くな。顔を上げろ。目を閉じるな」
眩しいからいやだけど、しかたない。反抗すれば問答無用で仕置きをされてしまう。
「こっちの目は? ちゃんと開けろよ」
光がわずかに左へそれた。
「ごめんなさい……あかないんです」
「くっついてるのか? まあ、崩れてるもんなあ。気持ち悪くって逆に見ちまう。不細工な顔にはちょうどいいおめかしか?」
唇の片端を上げて看守が嘲笑った。
ぞろり、と、胸の奥でなにかが動いた、気がした。すぐに蓋をする。
首輪の話が無視されたのはどうしてだろう。
特権が通用しない? この看守の個人的な理由? 特権自体が嘘だった?
「どうやってここまで来た?」
「階段を、つかって……」
「そこの階段?」
「はい」
「使えたのか?」
どういう意味だろうと考えて、はっとした。
封鎖用の金網。
いつも夜は出歩かないから知らなかっただけで、階段は夜になるとすべて封鎖されてしまうんだろうか。
だけど階段のほかに八階から移動する手段はない。そうでないといけない。
「使えました」
「ふーん? 三階に来た理由は?」
「上から順に捜して、見つからないからどんどん下に……」
「誰を捜してるって?」
「新入りの人です」
「で、どうして三階に?」
言葉に詰まった。なぜ同じ質問を繰り返すのか。どう答えるのがいいんだろうか。
黙っていると、看守は腰から棒を引き抜いた。
振り下ろされる光景がまざまざとよみがえった。とっさに足を後ろに引く。力が入らない。転びそうになるのを必死にこらえた。
棍棒と言うには細い棒だけど、紛れもない凶器だ。細かい突起が瞼を削り、額から頬にかけても抉り、激痛と暗闇をくれた。
看守はトゲのついていない根元部分を自身の肩に当てた。口元をゆがめて見下ろしてくる。
「八階の脱走者が三階に侵入してきたことがあった。一年前だな」
誰のことを言っているのか理解したとたん、足の震えが止まった。今度は重石でもつけられたように身じろぎひとつできなくなった。
「そいつもやっぱりここにいた」
からかいの気配が声に宿る。
胸が騒いだ。いい話であるはずがない。聞きたくない。
「幽霊みたいに白い顔でボーッと壁を見つめてたよ。話しかけても返事をしねえの。それどころか睨んできやがった。だから罰を与えたんだけどな、あれは面白かった」
「は……?」
看守は棒をぐるりと回転させた。二度、三度と空気をかき混ぜながら、速度を上げていく。
「いつ抜け出したのか、どうやって誰にも会わずに三階までおりたのか、なんにもしゃべらなかった。爪を剥いでも、逆さ吊りにして叩いても――まあ、それが面白かったんだけど」
看守が笑う。息を吸いながら笑って、勢いのついた棒をこっちに突き出してきた。
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