第2話 隠し扉
ばかやろう。
あいつ、あの巻き毛。
会ったら絶対に文句を言ってやる。自分勝手に他人を巻きこむんじゃねえよ、って怒鳴ってやる。
よろめきながらやっとの思いで立ち上がった。
向かう場所は決まっている。足取りを追うなら別れたところからだ。そこがあのトイレだということも気掛かりだった。
消灯時間まではもうすこしある。それでも廊下に出ている人はいない。
トイレに続く通路は闇に包まれていた。ここの天井にも蝋燭を設置する台が吊り下げられているけど、使われているのを見たことがない。
通路の先はほのかに明るい。まだ感覚のおかしい手足を動かして、まっすぐ暗闇を抜けた。
ここはちょっとした広い空間になっている。通路やトイレの出入り口に扉を取り付ければ、それだけでひとつの部屋になるだろう。
トイレ前の広場、となんのひねりもない名前で呼ばれている。こんな時間でもここだけ明るいのは、窓があるからだ。右の壁にひとつだけ、円い窓がくりぬかれたように存在している。
トイレの中にも窓はある。だけど広場よりも段違いに暗い。小窓からさしこむ明かりがすべてで、本来ならあるはずの蝋燭照明は取り外されている。
だったら看守長が机に置いている電池式の照明、ああいうのをここにも置いてくれればいいんだけど、たぶんそんな日は来ない。
便器がひとつと壺がふたつ。仕切りはない。
本来は一人用のトイレなんだと思う。出入り口の扉もあったはずだ。それがいつ頃からか今のように開放的なトイレに変貌した。
自分がここに来たときはすでにこの状態で、便器の隣に置かれている壺も便器だと聞かされたときには戸惑った。掃除が大変で開放的すぎるこのトイレにも、今は慣れた。
レフが隠れていないか、いちおう確認する。
便器の底にはもともと穴があいていて、ここから落ちれば地下の下水槽に真っ逆さまだ。確かに姿を消せるけど、足を突っ込むぐらいしかできないから可能性は低い。
こんな場所で消えることはできない。隠れることもできない。
だけど、この場所の近くには――
「やめろよ……」
気づいたんだろうか。あの扉を開けたんだろうか。ここに来たばかりの新入りがあれに気づいて、意味もわかったっていうなら、すごいことだ。
だけど、ばかだ。
「ばかを連れ戻さないと」
連れ戻したあとの言い訳も考えないと。どこにいたのかを正直に言おうものなら、なぜそんな場所を知っていたのかと看守に問い詰められるだろうし、絶対に無事ではいられないはずだ。
「ほんと最悪……」
トイレから出た。
時計を見たら消灯時間になっていた。オレクたちはもう寝ているだろう。
部屋の明かりは消さないといけないけど、廊下の照明をすべて落とすことはない。だから闇の通路はかすかな明かりへと続いていた。どんよりとした蝋燭の明かりだ。亡霊でも出そうだった。
足音が聞こえていた。
通路の先を見回りの看守が横切る。首輪という横暴な贈り物をくれたやつとは別の看守だ。
通り過ぎるかと思いきや、懐中電灯がこっちに向いた。
射貫かれて目がくらむ。この光は暴力だ。殺気だった様子で駆け寄ってくる不気味な影に、条件反射で体が萎縮した。
「ん……首輪か」
看守はそう呟いて、途中で引き返していった。虫けらを見る目だった。
ゴゾイアの民が隔離されているのは帝国民がゴゾイアを恐れているからだ。
それを教えてくれたのはオレクだった。あいつは今でこそ無口だけど、知り合った当時は饒舌なやつだった。
ユーアノス帝国とゴゾイア王国は大昔から因縁深い関係で、ゴゾイアが滅んだあともお互いに嫌悪してきた。
国土を失ってもゴゾイアの民は滅びない。今もまだ「民」であるとの意識を持ちながら、ゴゾイア人は独自の情報網を使い、帝国内で助けあって暮らしてきた。
ユーアノス人はゴゾイア人を下等な存在として扱った。同じ国に暮らしながら、「帝国の民」とはあくまでユーアノス人だけだった。
容姿の隔たり、異なる神への信仰、王国を滅ぼした奇病が帝国の仕業だったという噂、その病こそゴゾイアの民が劣等であることの証だという帝国民の言い分、栄華を誇る大帝国と、その富に頼るしかない亡国の民。
歩み寄れない理由はいくつもある。けれど一番の理由は、帝国側がゴゾイアの情報網を恐れたこと。
そう語るオレクはどこか複雑そうな顔をしていた。ゴゾイアの情報網を誇りに思う反面、それが足枷になったことを恨むような。
二十年前に滅びた王国を復興するために、あるいは新しい国をつくるために、ゴゾイア人はいずれ組織だった動きで帝国をひっくり返すつもりなんじゃないか。
そういう危惧から発令されたのが帝国民保護政策。もともとあった監獄や矯正施設などを利用して、帝国はゴゾイアの遺民たちを収容することにした。
悪の芽は早めに摘むべし。
閉じこめておけば害などない。
帝国にはびこる染みを一掃してしまえばいい。
とはいえ野蛮なゴゾイアと同類にはならない。武器を持たぬ人間を殺害するなどもってのほか。清廉たるユーアノスの民の目に触れぬ場所で働いてもらうだけ。
帝国民保護政策を噛み砕いて言い表せばこうなる。
だから収容されても殺されることはない。死因は不慮の事故や病気のみ。
行き過ぎた体罰や飢餓で死ぬことを、ここの看守たちは口が裂けても「殺害」とは呼ばない。
見苦しいよねえ、と笑った声を思い出す。
オレクの話を一緒に聞いていたあいつ。病的なほど白い肌と、ひ弱そうな細い体。
ニカ。
ニカ・トーリシュ。
虐げることで優位に立とうとするやつらは見苦しくって滑稽だ。ニカはそう言って喉の奥で笑った。目尻には涙がにじんでいた。
そのニカが教えてくれた、この階から人知れず消える方法。
トイレの中じゃない。外。出入り口の横に続く壁。高窓のはるか下に
よくよく目をこらせば見えてくるものがある。誰かが残した道案内。あるいは罠。
かつてこの建物が貴族の所有物だったときの名残で、壁には幾何学的な紋様が描かれている。でも壁まで掃除することはないから、黒ずんだ染みと茶色い汚物じみた手垢がこびりついていた。
その汚れ、いや、紋様に紛れるようにして、ひっかいたみたいな傷がある。小さいし足元にあるから簡単に見落としてしまう傷だ。
この傷に気がついた人が過去に何人いただろうか。そのうえ意味までわかった人が何人いただろうか。
わかる人にしかわからない、これは文字だ。
自分には読めない。ニカには読めた。
看守の足音が消えるのを待った。
目は自然と光に吸い寄せられる。高窓から見える夜空に星を探してみたけど、なにも見えなかった。でも今夜はとりわけ明るい気がする。月が出ているのかもしれない。
風のにおいをかいだ気がした。記憶の中にある外の空気。髪の毛をなぶっていく、あの感じ。
いやな感じ。
二度と手に入らないものを想像してはいけない。なにも感じるな。なにも。
心臓がまた痛んだ。ほんの一瞬、つねられたような痛み。
電流を食らったせいもあるだろうけど、もっと前からこの痛みはある。原因がなにかなんて考えない。不安が増すだけだから。気にしない。もう慣れた。
息を深く吸いこんだら顔の左側も痛んだ。目元を中心に皮膚が引きつった気がする。――これも、慣れている。
急ごう。あの巻き毛、レフを連れ戻すんだ。
窓の下で文字を探す。ひとつ、ふたつ、みっつ……合計で六個。一直線の等間隔に並んでいる。
でたらめな図形にも見えるこれらの文字は、ゴゾイアの民が大昔に使っていた文字だという。現代の文字の原型であると同時に、今も占いで使用する文字。ニカの母親は占い師だった。
ニカによると、これは数を表しているらしい。数字ではなく文字だけど、数としても使うことができるんだと教えてくれた。
占いで使う文字は全部で二十四。このすべての文字が一から二十四までの数字と対応している。
文字は神がひとつずつ人に与えたという話があって、対応する数字は贈られた順番なんだとか。
その最初の六文字がこの壁に刻まれている。だけど順番どおりではなく、バラバラに。左から四、六、一、三、五、二、となっている。
そして、床。
同じ大きさのタイルを敷き詰めた床は、壁際だけ形や大きさが不揃いで乱れていた。その乱れたタイルのなかに、六角形のタイルが隠れている。二本の指が入る程度の大きさで、ちょうど文字の真下にひとつずつ。
わざわざ記憶を揺り起こさなくてもしっかりおぼえている。ニカが教えてくれた、正しい順番。
自分の罪が増える気がして忘れることができなかった。忘れてはならないと呪いのように言い聞かせてきた。
こんなふうに使う日が来るとは思ってなかったけど。
心音が高鳴る。でも痛みはない。
大丈夫だ。できる。
一番目の文字の前でしゃがんだ。六角形を指でグッと押しこむ。床がかすかに揺れたのがわかる。指を離すとタイルは元に戻った。
それを二番目の文字、三番目の文字、と繰り返した。しゃがんだまま、重心移動だけで手は届く。
看守がやってこないか聞き耳を立て、頻繁に視線を巡らせた。鼓動はどんどん
六番目のタイルを押しこんだとき、背後でカチリと音がした。
窓の下から離れて、反対側の壁に近づく。窓明かりに照らされた壁をそっと押すと、紋様が縦に割れて闇が現れた。回転式の隠し扉だ。
明かりが闇にそそぎこまれる。とたんに闇は目を開けた。小さな光点が無数にきらめき、ようこそと手招いている。
ようこそ。ひさしぶり。
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