8 よく頑張ったよ
「ハーバートさん、書いたものを見てもらってもいいですか?」
昼下がりの少し空いた時間に、書き取ったものや計算の確認をお願いします。
それにすぐ目を通してくれたハーバートさんでしたが、
「頑張ったな、エリ。だが、昨夜は遅くまで明かりをつけていたな。夜更かしすると、体調を崩しやすい。夜は早く寝て、昼間に勉強すること。少しくらい家のことが適当になったって構わないし、なにも、君1人で全てをする必要はない」
「はい。早く寝るようにします」
窘められてしまいました。
今まで、勉強はとても辛いものでした。
でも、今は楽しいです。
分からないことがたくさんですが、それでも、楽しいです。
だから、ついつい夜更かしもしてしまいます。
でも体調を崩してはいけないので気をつけようと、花マルをつけてもらったノートを眺めていると、
「エリ。明日、町の子供達に勉強を教えに行くが、エリも来ないか?」
「え、私ですか?」
思わぬお誘いを受けてしまいました。
「ああ。一緒に子供達と授業を受けて、俺を手伝ってほしい」
「私、自信が……私じゃ、ハーバートさんに恥をかかせてしまいます」
授業なんて、話の内容についていけるのか不安でした。
「今のエリなら、大丈夫だ。それに、俺も一緒にいるのだから、怖がらなくていいよ」
さらにダメ押しするように、
「子供達にお土産を持っていくのに、エリも一緒に持ってくれたら、俺も荷物が軽くなって嬉しい」
そう言われると、行くと、言わざるを得ませんでした。
そして、翌日です。
荷物持ちを手伝って欲しいと言っても、結局私が持ったのは、小さなバスケットだけです。
中身を作るのは張り切ってお手伝いしましたが……
ハーバートさんは、集会所を借りて、週に一度、町の子供達に読み書きを教えているそうです。
生徒さんは、10歳前後の子が、20人程いました。
その場に着くと、緊張は、していました。
自分よりも小さな子供達の前で失敗してしまわないかと。
ビクビクしながら、並べられた机と椅子の、一番後ろに座ります。
後ろから様子を見ていると、子供達は皆真剣に、ハーバートさんの話を聞いていました。
「じゃあ次は、あの美人なお姉さんがお手本で読んでくれるから、よく聞いて、その後にみんなで読むよ」
その時が訪れて、たくさんの視線が、私に向きます。
「エリ、頼む」
「は、はい」
教科書を持つ手は震えていましたが、ハーバートさんが何度も何度も読み聞かせてくださった内容を思い出しながら声に出せば、紙面上でわちゃわちゃと踊りだそうとする文字に翻弄されることなく、落ち着いて読むことができました。
ちゃんと、読むことができたのです。
読み終えると、子供たちがパチパチと拍手をしてくれました。
ほっと息を吐いて、席に座ります。
「ありがとう、エリ。はい、ではみんなで読むよ────」
そのままハーバートさんの授業に最後まで参加させてもらって、そこは終始、楽しげな雰囲気でした。
授業がすべて無事に終わると、子供達のお楽しみタイムになります。
「みんなよく頑張ったね。今日はこれで、おしまいだ。御褒美として、今日はお姉さんが作ってくれたタマゴサンドがあるよ」
子供達から歓声があがりました。
週に一度、ハーバートさんの持ってきてくれるお昼ご飯を楽しみにしているそうです。
私の失敗から生まれた甘いタマゴサンドを、子供達は“美味しい美味しい”と、わいわい言いながら食べてくれました。
賑やかなその光景は、見ていてとても楽しいものでした。
終わりに子供達と別れの挨拶をして、見送られて、誰の姿も見えなくなります。
帰り際に歩きながら、それを我慢することができませんでした。
今日、私は、人前でちゃんと本を読むことができました。
失敗せずに、文字に振り回されずに。
「わたし、少しだけ、自信がもてました」
空になった小さなバスケットを抱きしめて、ポタポタと、涙をこぼしながら、ハーバートさんに伝えていました。
「ああ。よく頑張った。エリは、よく頑張ったよ」
家に着くまでの帰り道、ハーバートさんは、その言葉をずっと繰り返し言ってくれていました。
私に訪れた幸せはこの日だけでは終わりませんでした。
朝ごはんを食べ終えて、片付けも終わったところで、ハーバートさんに声をかけられました。
そこに行くと、テーブルの上に広げられたものに視線が釘付けになりました。
色が一式そろった水彩絵の具が置いてありました。
それから、大きめのスケッチブックに、新しい鉛筆も。
筆もパレットも。
「これは全部、エリのものだ。自由に使っていいよ」
「これ、どうして……」
ハーバートさんの顔を見上げます。
「エリが頑張った御褒美だ」
思いもよらぬことに、ただただ驚くばかりです。
私に贈られたものは、当たり前のように向けてもらえる優しい笑顔だけでなく、どれも私がいつか手にしたいと願っていたものでした。
「ハーバートさんは、心が読める魔法が使えるのですか!?」
本当に驚いていたからそれを言ったのに、苦笑されてしまいました。
「いや、町の文具店の店主が、エリが熱心に見ていたと教えてくれてね。そう言えば、エリの絵には色がついたものがなかったなと」
そんなに物欲しげに見ていたのかと思えば、恥ずかしくもなりますが、今更ながらにお店の人に迷惑をかけていなかったのかと、心配になりました。
「それから、ここにお金を入れておくから、何か必要な時は遠慮なく使ってくれ」
私の心配をよそに、ハーバートさんは引き出しに袋を入れながら、それを伝えてくれました。
「あの、何もかもが嬉しくて、心遣いも、ありがとうございます。困った時は、お借りしたいと思います」
素直にお礼を伝えました。
目の前に広げられた宝物に、目も心も奪われます。
早速、絵の具を使いたいところですが、まずは、家のことを……
「エリ、別に家のことくらい後ででもいいし、明日でも構わないのだから、せっかくだから、絵の具を使ってみたらどうだ?」
「やっぱりハーバートさんは、私の心が読めるのではないですか?」
そうとしか思えませんが、また、笑われてしまいました。
「この場合は、分かりやすいからと言うべきか。ゆっくり描いておいで」
「では、お言葉に甘えて、外に行ってきます!素敵な物を、ありがとうございます!」
「後で見せてもらいに行くよ」
カゴに画材道具を入れて、満足気な様子のハーバートさんに送り出されて外に行きます。
そんなに時間をかけずにその場所に決めて、地面に腰を下ろして、瓶に入った絵の具を、パレットに出します。
上手く描けるかどうかは、心配しませんでした。
楽しみで仕方がなかったので、ちょっとくらい失敗してもいいやと、失敗した方が、次は上手く描けるかもしれないと、そんな思いでした。
最初に使いたい色は、すぐに決まりました。
青。
今日のよく晴れた空を描くつもりでしたが、意識していたのは、ハーバートさんの瞳の青でした。
あのいつも優しげな“青”を思い浮かべて、快晴の空よりも深い青を再現しようとして、手を止めました。
あれ?
何で、ハーバートさんの“青”を作ろうとしているのでしょうか。
せっかくだから、初めて使う色は、自分の好きな綺麗な色をと考えていました。
それが、“青”で、私が思い描く“青”は、いつも優しく見守るように、私を見てくれていて。
ハーバートさん……
自分の中の何かを確認するように心の中で名前を呼べば、
「エリ」
「ひゃっ」
返事をされたかのように今度は実際に自分の名を呼ばれて、ビクッと、地面にくっ付いていたお尻が一瞬浮き上がりました。
「すまない。驚かせたか?布が必要ではないかと思って持ってきた」
「あり、ありがとうございます」
平静を装って持ってきていただいた布を、震える手を隠しながら受け取りましたが、ドキドキと忙しなく騒ぐ胸は、しばらく鎮まることはありませんでした。
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