5 怖がらなくていい
ハーバートさんが出かけてから改めて家の周りを見渡すと、自然に囲まれたとても綺麗な場所でした。
野生している花や木々の色が、鮮やかに映ります。
小鳥の姿もすぐ近くに見ることができました。
描きたいものがいっぱいで、堪えきれなくて、少しだけと思いながらスケッチブックを片手に外に出ました。
可愛い小鳥は、低い場所にある枝に止まったまましばらくそこに居てくれます。
短くなった鉛筆を動かして、その姿を紙の上に残していきました。
何枚も何枚も、ページをめくって描いていました。
時間が過ぎるのも忘れていました。
「いい絵だな」
そう、声をかけられるまで、自分がいる場所のこともすっかり忘れていました。
声の方を向くと、いつの間にかハーバートさんが後ろに立っていて、
「すいません、描き出したら、つい夢中になってしまって、今戻ります」
飛び上がる勢いで、立ち上がります。
遊んでばかりいて、その間は、何一つ家のことをしていませんでした。
「いや、君には休息も必要だ。まだ足の傷も治っていないから、ゆっくり過ごすといい」
ハーバートさんの言葉はどこまでも穏やかで、促されて、その場にまた座りました。
私の隣にハーバートさんも腰を下ろすと、横に置いていたスケッチブックを手に取りました。
「こっちは、どれも部屋の中から外を描いたものなんだな」
「それは……公爵家の屋敷にいた時は、仕事が終わった夜にしか描く時間がありませんでした。だから、ずっと、窓から見える景色を描いていました。ここは描きたいものがたくさんあって、とても素敵な場所ですね。だから、すみません、つい……」
昨日と今日の様子で、ハーバートさんが理不尽なことで怒ったりはしない方なのは分かっていましたが、嘘をついてここにいる後ろめたさもあるし、まだ何の役にも立っていないうちから遊んでいたので、自然と俯いてしまいます。
「これをもらってもいいか?」
そんな私の自己嫌悪を知ってか知らずか、ハーバートさんは、つい今しがた描いたばかりの小鳥や花の絵を見ながら尋ねてきました。
「はい、そんなものでよければ……」
何に使われるのかは分かりませんが、私の落書きなど許可を得るほどの価値もないと思います。
それらが描かれているスケッチブックも、誰かが書き損じた紙を集めて、綺麗な裏側を利用した手作りのものなので……
「ありがとう。大事に扱うよ」
でも、ハーバートさんは、そんなものでも丁寧な手つきで家の中へ持っていかれました。
何に使ったのか分かるのは、それから数日後のことでした。
「エリ」
その時は、昼食のお片付けを終えて、箒を持って外へ出ようとしていたところでハーバートさんに呼び止められました。
そして差し出されたのが、
「これは、エリの本だ」
「私の、ですか?」
本と聞いて、緊張の為か体は強張り、手に汗をかいていました。
最後に本と、文字と向き合ったのは、入学試験を受けた時です。
父を失望させてしまった時です。
あの時の事を思い出すと、息苦しくなります。
手足が冷たくなります。
「エリ、大丈夫だ。怖がらなくていい。君が、本や文字に対して恐怖心を抱いているのは、見ていて分かる。だが、ここには字が読めないからといって、君を責めるものは誰もいない」
私を落ち着かせようとしてくれるハーバートさんの言葉を聞いて、深呼吸をしてからそれを受けとりました。
「俺が何度でも読むから、まずは耳で覚えて。それから、次にエリが声に出して読んでみるんだ」
「笑わ……」
「笑わない」
ハーバートさんは即答でした。
恐る恐る、受け取った本を開いてみました。
その内容は驚くことに、ハーバートさんが持って行った私の絵に、文字が添えられていました。
絵を台紙に貼って、そこに文字が書かれて、綺麗な表紙と背表紙がついて、紐で閉じられて、一冊の本になっていました。
文章は少し大きめの文字で書かれていて、行間が広くとられています。
これをわざわざハーバートさんが作ってくださったのかと思うと、どんな内容なのか、とても興味がもてました。
促されて椅子に座り、ハーバートさんも私の隣に座り、私の手元を見ながら、読んでくれました。
聞き心地の良い声で、それを読んでくれました。
心が穏やかになるような声で、素敵な詩を読んでくださいました。
私の絵に詩や物語が添えられて、可愛らしい絵本になっていました。
それから、私の読む番となりました。
どれだけ拙く、辿々しいものでも、ハーバートさんは笑わずに聞いてくれていました。
もちろん、間違えたからといって、叩かれることはありません。
失敗したからといって、食事が与えられないこともありません。
突然転がり込んできた私のために時間を割いて、丁寧に丁寧に、教授してくれました。
「読むこと、書くことを怖がらないで。できなくていい。分からなくていいんだ。君が悪いわけじゃない。努力が足りないわけじゃない。エリが自信をもてるまで、俺が手伝うよ」
最後にお礼を伝えると、そう言ってくださったことが、私の冷えた手足と心を温めてくれました。
その夜。
私の中では、また変化が起きていました。
字が読めなくても、ハーバートさんが作ってくれた本を眺めることなら、苦ではなくなっていたのです。
いつも文字達は、私を嘲笑うかのように、紙面上でクルクルと回っていました。
文字を追いかけようとすると、逃げ失せるかのように、渦巻いて、その姿を隠してしまっていました。
焦れば焦るほど、その文字の形を理解することが困難となっていました。
読もうとするほど、気持ち悪くなって、酷い頭痛に悩まされていました。
皆ができて当たり前のことが、私には出来なくて、苦しくて、苦しくて、消えてしまいたいと、何度も思いました。
今も、文字が読めないところがたくさんあります。
何が書かれているのか認識するのに、時間がかかります。
でも、ハーバートさんが読んでくださった内容を思い出し、指で辿れば、それはもう理解できない怖い存在ではなく、私の絵に添えられた優しい物語となっていました。
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