敬愛すべき(エディー)




「ハーバートさん!おかえりなさい!」




 そのまま立ち去るつもりだったのに、背後から姉様の弾んだ声が聞こえて、思わず振り向いていた。


 そこには、黒い髪に空のような青い瞳の男性が立ち、似た容姿をもつ幼子を抱き上げて、僕のことを見ていた。


 ハーバート。


 論文を出した教育学者と同じ名前だ。


 同一人物かは分からないけど、ハーバートと呼ばれた男性が、何かを見透かすように、僕のことを見つめていた。


「よければ、我が家で休憩していかないか。お茶くらいは出せる」


 その男性の言葉にどこか優しい含みがあるような気がしたのは、自分がそうと思っていたいだけなのか、


「お言葉に、甘えてもいいでしょうか……」


 帰るつもりだったのに、つい、そう答えてしまっていた。


 そして、未だかってないほどの緊張に晒されることになった。


 国王陛下と謁見した時でさえ、ここまでの緊張はなかったというのに。


「気が利かなくて、ごめんなさい。ハーバートさんが声をかけてくださって良かったです」


 姉様が、ニコニコしながら僕の前にお茶と、手作りと思われる焼き菓子を置いてくれた。


 招待された家には、温かみのあるたくさんの絵が飾られていた。


 その絵と同じくらい、この家も温もりのある家だった。


「遠方から来られたのなら、お疲れでしょうから、時間が許す限りゆっくりしていってください」


「歓迎、痛み入ります」


 向かいには姉様と旦那さんが座り、その対角に幼子が座って、両手で持ったコップのミルクらしきものを飲んでいた。


 親子で並ぶと、幸せそうな家族そのものだ。


 この場では、僕は明らかな他人で、疎外感はあった。


 だからなのか、あの決意はどこにいったのか、姉様と、口にしたい欲求で溢れていた。


「……僕は、せめて貴女の幸せを願ってもいいでしょうか」


 思わず口にしてしまい、


「はい?」


 姉様は、また、不思議そうな顔で僕を見て、そして旦那さんを見上げていた。


「彼は、エリの弟なのではないか?エリに会いに来てくれたのではないか?」


 ハーバートさんは、妻を安心させるかのように、穏やかに微笑んだままだ。


 その顔を見て、確信した。


 ハーバートさんは、僕の正体を知った上で、ここに招待してくれていたんだ。


「僕は、決して、貴女の幸せの邪魔をしません。でも、せめて、僕には、敬愛すべき姉がいたのだと、それを誇りに思うことを、この胸にとどめることを許してください」


「エディー?」


 姉様が、目を見開いて、僕の名前を呼んでくれた。


 泣きたいほどに、それが嬉しかった。


「だって、エディーは、こんなに小さかったのに」


 思い出の中の僕を、抱き上げてくれるかのような仕草を見せた。


「僕はもう、14歳です。それは、1,2歳の頃の僕ではないですか?」


 そうよねと、姉様が僕に微笑んでくれて、それがまた嬉しくて、息苦しくなっていた。


「貴方が会いに来てくれて、嬉しい。私は、自慢できるようないい姉ではなかったので」


 少しだけ哀しそうに話すその顔を見ると、僕も辛くなる。


「そんなことはありません!何度でも言います。貴女は、僕の敬愛すべき姉です。僕が、貴女のことを姉と呼ぶことが痴がましいのかもしれませんが……それでも、貴女は敬愛されるべき女性です」


 僕が言葉を重ねるたびに、姉様は、居心地が悪そうに苦笑している。


 何か間違った事を言ったのかと、不安になったのだけど、


「二人は、目がよく似ているからすぐに分かったよ。そして、性格の本質もよく似ているようだ。家族が家族を慕う気持ちに、多くの理由が必要なのか?」


 それは、まるで、大人が子供に、教師が生徒に、教え諭すような話し方だった。


「慕い合う姉弟が再会を素直に喜び合うことは、そんなに難しく考えなくていいことのはずだ」


「「はい。そうですね」」


 僕と姉様が同時に言ったものだから、思わず顔を見合わせて、そして笑い合っていた。


 それが打ち解けるきっかけになったのか、それから、姉様の手作りのお菓子をいただきながら、少しずつ、今までの事をお互いに話していった。


 居心地の良い空間で、その時間が過ぎるのはあっという間だった。


 姉様とハーバートさんとに、帰り際、それを伝えることだけは忘れなかった。


「姉様がここにいることは、誰にも言いません。姉様の静かな幸せを願っています」


 でも、僕の心配は、ハーバートさんがすぐに打ち消してくれる。


「大丈夫だ。エリがここに来た時とは状況が違うし、何よりも家族は俺が守るから心配しなくていい」


「はい。その……姉様のことをよろしくお願いします」


 丁寧に頭を下げて、そして上げたところで、また声をかけられた。


「エディー。君が公爵家を継いで、もし何かに困るようなことがあれば、いつでも力になりたい。その時は、俺を信じて、俺に相談してくれ」


「はい、心に留めておきます。ありがとうございます」


「それは、もう目前まで迫っていることではないのか?」


 ハーバートさんは、どこまでも僕の思いを見透かしているようだった。


「ハーバートさん、それは……エディー、お父様に何かあったの?」


 あんな人のために姉様の心が揺らされることが嫌だった。


 姉様が、不安そうに瞳を揺らしながら僕のことを見ている。


「父は、もう、長くはありません」


 それを告げると、姉様は思わずといった様子で口元に手をあてた。


「姉様を家から追い出すような仕打ちをした事を後悔していました。父は、姉様が生きていることは知りません。ここに僕が来たことは誰にも言っていません。父は勝手です。姉様に会いたいと願うことなど、自分自身が叶わなくしてしまったのですから。でも、それは僕の勝手な考えであって、決めるのは姉様で……」


「ハーバートさん……私、どうしたら……」


 姉様は明らかに動揺していた。


 でも、そんな姉様に、ハーバートさんは変わらない穏やかな微笑を向けていた。


「エリが後悔しないようにしてほしい」


「でも……ハーバートさんも、一緒に……」


「俺も一緒に行くから、不安に思わなくていい。そばにいる。思う通りにすればいい。自分の心のままに。エリが望むのなら、会いに行けばいいんだ。子供達と一緒に」


「はい」


 姉様の心が決まったことを確認すると、姉様達を出迎えるために僕は一度家に戻り、そして、すぐに再会の日は訪れることとなった。








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