コト 5

 3章から4章に入る時、酷く喉が渇いているのに気づいた。カーテンを閉め切って蛍光灯の明かりで読んでいると時間感覚が無くなっていくから、結構な時間が経ったのかも、と顔を上げた。あ、と呻く。背中の筋肉が固まっちゃってギギギと音がしそうに痛んだ。

「あー……」

 声を出して背中を伸ばす。本も手近な本の上に閉じて置き、腕も上げて伸びる。頭も回して首の凝りも逃す。よいしょ、と狭いスペースで立ち上がり、お尻を撫でた。ちょっと痺れていた。

 こりゃちょっと休憩しないとね、とコンビニの袋からお茶を取り出して飲む。温くなったお茶は喉に優しく染み込んで、胃にストレートに落ちていく感じが空腹感に変わっていく。


 スマホを見れば0:34。読み始めたのが夕方だったから、久しぶりに没頭したみたいだ。でも2冊目のミステリでつまずいて時間がかかっちゃったのが悔しい。ちょっと好みの合わない文体というか情景描写で、馴染むまでかみ砕くのが大変だったから。まぁ、4冊目ならなかなかイイペース。あれ、でも3日は持たなそうだなぁ。

 ぐぐぅ、とお腹が鳴った。んー、本当なら食べてから読む予定だったけどうっかり読み始めちゃったなぁ。

 ガサゴソ袋を開くと、コンビニの弁当は見た目より3割り増しで不味くなってそうだった。この部屋に電子レンジはない。もちろん冷蔵庫やヤカンもない。ガスコンロも置いてないのだ。

 あー、コンビニ行くか……でも寒いのやだなぁ。

 戸を開けて台所兼玄関に出ると、スゥーと冷たい空気が足元から書斎に入り込んだ。ストッキング越しの床は氷のように足をはね返して、あたしは一瞬で冷えた。だって起きてすぐここに来たから、考えてみれば今日は何も食べてない。そりゃ腹減るわ、とコートに袖を通す。財布から千円を抜き、ポケットに捻り込んだ。


 外に出ると、誰も生きてないんじゃないかってくらい静かだった。平日の深夜の住宅街って、なんでこんなに皆寝てるんだろ、って思う。あぁ、もしかして小さな明かりで本を読んでるんだろうか。遮光カーテンが仕事してるのかな。アパートと隣の家の庭木の隙間から、星が瞬いていた。オリオン座が見える。

 あたしはプライベート用のくたびれたスニーカーで歩き出してすぐに、コンクリに落ちる白い明かりに気づいた。

 トモの部屋の明かりが点いてる。

 そういえばお風呂を借りたいと思ってたんだっけ。あ、そっか、電子レンジを借りればいいのか。

 あたしは躊躇なく105の戸を叩いた。

 返事はない。

 あたしはトモのウチに勝手に上がり込んだ。鍵は開いてるし、台所だけじゃなくて部屋の電気も点いてたから。寝てるんだろうと戸を開けた。

 結局あとから、電子レンジもお風呂も勝手に使った。もちろん後で報告はした。


 ――そのときトモはぶっ倒れてた。

「あっちゃー! ちょっと! トモ!」

 強い酒気。周りに転がってる空き缶。そのほとんどは飲み干されて潰されてたけど、1つだけ缶が倒れて中身が畳に染み出していた。アル中! あたしは仰向けに寝てるトモに駆け寄って、体を揺すった。

「トモ、トモ!」

「ぅ……」

 意識はある。と、トモの口がむぐむぐと動き出した。ヤバい! 洗面器!

 あたしは洗面所に転がるように飛び込んでブルーの──すごく昭和な色──ゲロ専用をトモの口元に当てて、彼の体を出来るだけ横向きにした。

 ほとんど胃には液体しか入って無かった。あたしは何度もトイレと部屋を往復して彼の背中をさすったり、横向きにして噎せないように寝かせた。

 まさか今度はあたしが世話する番になるとは……。少し感慨深い。いや、あたしの方が絶対年上で、見ず知らずのトモにゲロの始末をさせるのはおかしな話なんだけどね。

 店の女の子は絶対に客の前では吐けない。そんなことしたら、ママがマジでキレる。客は言ってしまえば吐き放題だ。ゲロだって愚痴だって、性欲だって。そういう商売だから仕方ないけど、客はいいなぁなんて、トモの真っ白い顔を見てしみじみ思う。

「ぁ、ぅ……」

 吐いて意識はあるから、もう寝かせておくしかない。このまま死なないことを祈るしかない。


 あたしは書斎から他の荷物を持ってこようと腰を上げた。弁当はここで食べた方が良さそうだ。でもゲロ臭い部屋では嫌だな、と思い窓を開ける。

 カラカラ、と窓は小気味よい音を出す。あたしの部屋の窓は硬くて開けづらいのに、と一瞬不満がよぎったけど、ここからの景色はなかなか開けていて良かった。纏わり付いていた酒気と酸っぱい匂いが吹き飛ぶようだった。星がよく見えた。

 部屋はエアコンもストーブもなくて外を気温は変わらないように思えたけど、やっぱり窓からは冬の氷を含んだ空気が入ってきてゲロ臭い空気をかき混ぜた。

「おっと」

 アル中の人間は冷やしちゃ駄目だった、と部屋の隅に畳んである布団から毛布を引っ張り出して掛けてやった。そしてあたしは荷物と本を3冊、取って戻って来た。


 そして明け方、3冊目のイケメンでコミュ障な探偵が事件を解決する頃、トモは「ぁ……み、ず……」と意識を取り戻した。

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