真琴 8

 トモはトモなりにけじめをつけて、あたしにもごもご何か言って出て行った。あたしは何て言ったか全部聞こえてたけど、聞こえない振りをした。本を読んでる振りをした。


 初めてだった。ひとりで本を読み始めても全然集中できないのは。トモが玄関の戸を開けて入ってくる時点で音が聞こえていて、どんな顔をしていいか分からなかった。字を追っても追っても頭に入らなくて何度も同じ頁を見ていたから。本に逃げ込めなかった。

 そう、あたしはいつだって本の世界に逃げ込んだ。本を読んでいれば大抵は褒めてくれたし都合のいいことに読んでいる間は耳が聞こえなくなった。周囲もそれに気づけば諦めてくれた。

 本を読むことが周囲と距離を置くためのツールになったのは一体いつからだろう。別に勉強が嫌いなわけではなかった。進学できないわけではなかった。突き詰めればきっと学びたいこともあった。でもあまりいい環境に恵まれなかったから、あたしはただ本を読むことに逃げた。働けばいい、稼げることをして生きればいい、何も考えないでお金を得て、空いた時間は本を読んでいればそれでいい。


 何を偉そうに。「できないならできないって言えばいいのよ、辞めたいなら辞めたいって言えばいいし、やるならやるだけでしょ」よく言ったもんだ。最初からしようともしてない奴が。

 トモはやっぱり育ちがいい。謝りに来た。あたしなら逃げてる。実際ここに逃げ込んだ。

 あぁムシャクシャする。

 私はこの世界を守れればそれでいいのに。あの誠実さが頭にくる。それでいてあたしの世界を踏み荒らしていった。

 あたしはトモをあたしの書斎に上げてしまった。突き放して叩いてでも外へ追い出せば良かった。そうして守れば良かった。


***


 あたしは自宅に帰って久しぶりに自分のベッドで眠った。さすがに何日も雑魚寝で体は疲れてたらしい。すぐに入眠して起きたら翌日の昼過ぎだった。仕事の日と同じ時間に目覚めた。でも仕事は休みで書斎に行く気にもならない。自分の体温で最高の環境になっている布団の中から出たくなくてあたしはベッド下のバッグに手を伸ばした。1冊だけ持ち帰ってきたはず。

 苦しい、重たい、読み進められない。ミステリと書いてあったのに主軸は恋愛でトリックもクソもないすれ違いの話だった。広告詐欺か、とも思いながら読んだ。そうして時間を見ると20:54。最近の中では酷い相性だった。恋愛は特に苦手だから。

「あーぁ」

 本を読む気がなくなるなんて鬼の霍乱だな、と自分で言ってみる。

「……辞めようか、店」

 なんて弱気に響いたか。

 毎日知らん男に営業をかけて連絡をして気が向けばご飯を奢らせて店で飲んだくれて帰る。それだけの仕事で他のバイトやパートをするよりどんなに給料が高いか。慣れてしまえば全然難しくない仕事だ。むしろ金が浮く。奢らせることに鈍感になっていく。あたしは、この仕事でなければあの書斎を維持できない。学歴も資格もないんじゃ、続けるしかない。

 そうやって腰まで浸かった女の子は皆抜けられない。界隈で名のある人から好かれれば好かれる程足を洗うのも難しい。クラブからキャバ、スナックからパブ。若さで売れなくなったらこの道で生きると決めて店を持つか、どうするか。どうするの? 店を持つほど情熱がある? あるわけない。でもいつまでぬるま湯に浸かってられる? もう30過ぎて久しいよ。

 あぁ、そんなの分かってるのに。

 こんな気持ちになるのは、あのモラトリアムに守られた情けない奴のせいだ。今に見てろ。


 黒い服を着る。少しでもスリムに隙が無いように。目を囲む。一昔前のメイクでもいい。あたしの顔が消えてあたしでなくなるなら。髪は巻くのが面倒でそのまま流す。巻かないと随分長いな、と枝毛の目立つ髪を眺めた。

 外に出ると、吐く息が白くなる程寒い。ハッハッと白くなるのを何度も確認しながらあたしは夜の繁華街を歩いた。客引きが「今から?」とか「お疲れさまです」とか話し掛けてくる。できるだけ知り合いに会わないように路地から路地を渡って店に辿り着く。

 レンガ造りのシックな外観。黒い看板に筆記体で何か書いてある。それが店の名前だとは分かるけど読めやしない。

 少し重い木の扉を押す。狭い店だった。一枚板のカウンターにスツールが5つ。ボックスと呼べるのか小さな席が2つ。薄暗いけど壁の黒い飾り板にラインライトが走っており、山の端一面に暁の光の立つような演出が印象的だった。すっかり割れたという酒瓶も硝子棚に全て収まっているように見えた。

「いらっしゃいませ」

 裏からマスターが出て来た。「どうぞお好きなところへお掛けください」来る者拒まずとは本当らしい。あたしはカウンターの一番端に腰掛けた。そして裏から「いらっしゃいませ」とトモが出て来る。トモは私の顔を見るとビクリと身を硬くした。

 あたしは興味なさそうな顔をして、マスターに「ブランデーの香り甘めでお勧めをお願いします」と言った。トモがぎこちなくおしぼりを渡してくる。カウンターにはコースターを。「ありがと」と受け取ると、その他人行儀な声に彼はまたギクシャクとした。

 マスターは「かしこまりました」と流れるようにグラスを出し、ボウルアイスをグラスに入れ、水を入れて切って琥珀色の液体を注いだ。ここまで甘い香りがした。くるりとステアし混ぜてロックで寄越した。それがコースターに収まる。

「ポールジロー25年、ロックでお作りしました」

 あたしはペコ、と頭を下げてグラスを握った。グラスの彫りがきれいで、店の白ともオレンジともつかない照明を映して、中の琥珀色をゆらゆらと幻想的に見せた。

 甘い香り、強い酒気を鼻で吸い込んで、一口ごくり、と呑み込む。痛みのような刺激、強力なエタノール臭、喉の熱、最後鼻に抜ける香り。どうしてか残る甘さ。

 はぁ、とあたしは口の中の酒気を吐き出した。同時にカッと胃が燃えた。

「おいしい」

「ありがとうございます」

 呟きだったのにマスターがすかさずお礼を言う。あたしは首を僅かに傾げて応えた。空腹だったのでナッツを頼み、ゆっくり美味しい酒を味わう。こんな風にひとりで飲みに来たことはなかったけど、いいかも、と口の端で笑った。

 氷が溶けて加水された味もまた良かった。客はあたししかいないのでマスターは時々話し掛けてきて、あたしはそれなりに答える。トモはじっと動かない。そういう仕事なのだろう。用がなければ姿を見せない黒服みたいだ、と思った。

「おかわり如何ですか」

 ポリ、とピスタチオを囓っていた。あたしは「同じ物を」と言ってすぐに言葉を継いだ。

「そのバイトの子に作ってもらえませんか」

「……コト」

 マスターが何か言う前にトモが声を潜めてあたしを諫めた。

「だめですか」

「お知り合いですか、ウチのバイトと」

「はい。今月で辞めることも知ってます」

「コト!」

「トモ、お客様の前だ。止めなさい」

 トモは口を引き結んであたしへの文句を呑み込んだみたいだった。あたしは少し可笑しくて余裕を持てた。

「だって、トモ、練習してたんでしょ」

「は?」

 丸くなった目。途端、ウロウロし始める視線。

「バースプーン、台所にあったじゃない。ステアくらい出来るんじゃないの」

「バッ! ステアが一番難し」

「トモ。落ち着きなさい」

「……はい」

 トモは、もう顔を上げられないんじゃないかってくらい項垂れた。マスターと視線が合う。お互いを、じっと見た。

「……トモ、お客様のご要望だ、やってみなさい」

「え!?」

「ですがお客様、美味さは保障しかねます」

 マスターは大人の色気ムンムンで微笑んだ。

「さっき美味しいのを頂いたので大丈夫です」

 あたしも営業用のスマイルで返した。


 正直トモのステアはガタガタでマスターもちょっと目を細めるくらいの出来映えだった。赤くなってプルプルしてグラスを寄越したトモに、あたしは完全に溜飲を下げて、書斎に入り込んだ罪を許す気になった。

 そしてその美味しくない酒を飲んで、あたしは店を出た。楽しい気分だった。この界隈でこんなに気分良く酒を飲んだことがなかった。好きな酒を好きな分だけ。


「できないならできないって言えばいいのよ、辞めたいなら辞めたいって言えばいいし、やるならやるだけでしょ」


 さっきの自分の台詞が何度もリフレインする。トモの真っ赤になった顔も。

 町は週末だけあってそれなりに賑わっていた。もうすぐクリスマスで、イルミネーションがトナカイの形で、客引きの頭には赤くて白いボンボンの帽子が乗っかってる。きっと店の女の子はサンタコスでもしてるんだろう。そしてあたしも来週仕事に戻ったらその衣装を着て酒を飲むんだろう。

 見慣れた看板のビルが見えた。もう8年も通った道だ。ウチの店の客引きが「あれー休みじゃないのー」と馬鹿みたいな声を上げた。

 それに手を振って応えて、あたしは客と何度くぐったか分からない入り口をひとりでまたいだ。

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