友暁 7

 前半、女性に対する不適当な発言があります。

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 コトが怒って帰った。俺は本当に馬鹿だ。

 エアコンが風を吹き出す音だけが聞こえる。さっきまで全然気にならなかった生活音。コトは台所の戸を開けっ放しで出て行ったので、外気が部屋の隅まで入って来て俺はぶるっと震えた。


 まさかコトがあんな普通の書籍を読むなんて思わなかった。

 二日酔いで目が覚めた時、喉が痛いくらい渇いてるのに気づいた時、柔らかくてあったかい何かに看病されてるのは分かった。汗をかいて目が覚めたのに体が冷えていて、その何かに触れているところだけが心地よく感じた。あれはコトが抱き起こして水を飲ませてくれたんだ、と思うと死にそうに恥ずかしくて死にそうになる。

 そうして随分気分が良くなって目が覚めて、誰か女の人がいるのが分かった。咄嗟になんで、とまだアルコールの残る頭で考えた。寝ていてもぐるぐるとする脳内は全然冷静じゃなくて、俺は目を開けたり閉じたりして状況を考えた。

 あ、コトだ。

 そう思考が辿り着いた時、俺は完璧に納得してまた眠りに落ちた。コトは俺がじっと見たり身じろぎしても全然こっちに気づかなかった。

 コトは所謂股の緩いキャバ嬢だと思っていた。目を強調した化粧、緩く巻いた髪、甘い香水、軽い口調、男の部屋に堂々と上がり込んで好き勝手する感覚。うんざりしていた。酔っ払って吐いては泊まり込んで、勝手にウチの物を使ってさっさと帰って行く女。俺は清楚系が好きなんだ、あんな女、構うとつけ上がるから放っておこう。

 マスターにも相談して、営業かけてきたら追い出せ、と言われていたから。ずっと目をつぶっていつか彼女が出来たらギャフンと言わせてやる、と思っていた。


 でも、はっきりと目が覚めた時、朝の光に眩しいくらいに白く映った彼女の横顔は化粧っ気ひとつ無くて、ニッと笑った三日月みたいな目が優しかった。


 俺は一々動悸がする体を引き摺って──もう生涯飲み過ぎないと決めた──シャワーを浴びて服を着た。熱を出した後みたいにシャワーだけで疲れ果ててしまったけど、怒らせてしまった後悔で何とか。グズグズグズグズ話し掛けた俺が悪い。バイトを辞めたい気持ちがあるのに辞めるとはっきり言えない馬鹿なんだ。

 俺は開け放ったままの戸をくぐり、冷えた台所を抜けてスニーカーを履いた。そう言えばさっきはヒールの音がしなかった。

 まさか、自宅に帰ってしまっただろうか、まずい! と俺は勢いよく外へ出た。奥の102を見た。暗い? 俺は走った。それはほんの数歩だったけど、体力がヘロヘロの俺にはすごく長く走ったみたいに苦しくなった。

 台所の窓からはぼんやりとした明かりが見えたような気がしてバクバクと心臓を鳴らしっぱなしでドアノブに手を掛けた。開いた。

 不用心な、と思ったけど、コトはそういう奴だった。それにホッとしながら、そのまま上がり込む。台所にはバッグやビニル袋が投げ出されていて、彼女の苛立ちが見えるようだった。外を走った勢いのまま俺は戸を開けた。


 そこにコトがいた。胡乱な目をしてこちらを見上げていたのが分かったけど、そんなことより俺は息を呑んだ。

 視界を埋めるおびただしい数の、本。

 本、本、本……本……コトは本に埋もれるようだった。

 俺は彼女からここを『書斎』と聞いていたけど恐らくそう呼ぶには度を越えていた。本当に本しかなかった。驚きで、ず、と足をずらすと爪先が何かに当たって俺は顔を下げた。やはり本だった。通るべき道は細すぎる一本道しかなく、その行き止まりにはコトがいた。心底うっとうしそうな顔だった。

「勝手に入ってこないでよ」

「コトだっていつも勝手に入ってくるじゃないか」

「トモのウチとは違う。ここはあたしの書斎。1冊でも傷つけたり汚したら絶対に許さないから」

 もう苛立ちではない、怒りの表情。

「……すみませんでした」

 俺は頭を下げた。本調子ではない体がくらりとする。

「俺、本当に馬鹿でどうしようもなくて酒飲んで潰れてコトに助けてもらったのにグズグズ言って。本当にすみませんでした」

「……」

「それにバイトも辞めるってはっきり言えなくて情けないのは分かってる。話聞いてもらってあんなに言われたのに、マスターにはっきり言えなかったのは、俺」

「うん本当に情けないね。グズグズしてさ」

「う……」

「大学通って勉強できてるだけありがたいでしょ。頭悪いなんて誰に向かって言ってんの。あたしは高卒。履歴書も高卒から夜の店。馬鹿にするにも程があると思いなよ」

「す、すみま」

「それにねー、高校卒業してあんたもうひとりで暮らしてるんだから、金払ってる親以外に何言われようとどうでもいいでしょ。結局さ、周りの視線を気にしすぎなんだよ。バイトで疲れて大学行けないのを気にしてんのは自分、勉強できなくて罪悪感感じてるのも自分でしょ。単位落として留年するなら自己責任でやりな! 友達いない愚痴とか聞きたくもないわ。ただの僻みじゃん」

 俺は自分でも分かりきった結論を真っ直ぐ打ち込まれて少々前のめりに倒れたくなった。でも傷つけてはいけない本が足をずらすことさえさせてくれない。もし後退してこの部屋から一歩でも出れば、きっとコトは話を聞いてくれない、本の世界に入って耳も貸してくれなくなると思った。

「できないならできないって言えばいいのよ、辞めたいなら辞めたいって言えばいいし、やるならやるだけでしょ。あんたはまだそれが許されるとこにいるんだから、好きにすればいいの!」

「はい……」

 正論だった。俺は項垂れてそれを聞いた。「あんたのせいで全然本が読めない! いい加減出てってよ」と頭にコトの声が刺さる。俺はその姿勢のままコクリ、と肯いた。ゆっくり顔を上げてコトを見た。コトの顔はもう怒っているようには見えず、眉が下がって困っているようだった。尚悪い。

 俺は急いでスマホを取り出し、先程の着信から通話をタップした。耳に当てる。

「ちょっと! 誰に電話なんて」

「あ、マスターお疲れさまです」

 コトは眉をしかめた。低い声がお疲れ、と返した。どうした、といつもの調子で淡々と言う。さっきまでは得体の知れない相手のように思っていたのに、不思議と恐くなかった。でも緊張はしていて、コトの近くに積んであった緑の植物が茂っている本を見つめてしゃべった。

「はい、あの……すみません、さっき言い出せなくて。……俺、今月いっぱいで辞めていいですか」

 コトが身じろぎしたようだ。俺はゴクリと唾を呑んだ。一応理由聞くけどなんでだ、と予想していた返答。

「俺、こないだの、恐かったんです。本当はすぐ辞めたいと思ってました。……でも辞めたいって言えなくて、何でだか分かんなくてさっきは……すみません。多分、マスターの店で働くの好きだったんです」

 ちら、とコトを見た。コトは俯いて、手元の本をじっと見ているみたいだった。

「こんな風に辞めるの、逃げるみたいで嫌で。大学から逃げてバイトからも逃げたら何も残らないし……そんなの情けないし。でも、やっぱり……やっぱり単位も取らないと、って思って」

 ちょっとこのままだと卒業ヤバいんで、と恥ずかしさに小さく呟いた。だろうな、と短い返事。やっぱバレてたか、という苦い感情。ハハッと乾いた笑いが出たけど、気分は悪くなかった。


 馬鹿でどうしようもなく情けない。でもやっと、この時、俺は俺になった気がした。

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