トモ 2

 

 俺は馬鹿だ。高校ではそれなりに上位にいて、嫌々ながらも自分なりに努力した結果、志望大に合格した。けどそれだけの話だった。ちょっと好きだと思って理系を名乗ってきたけど他の奴からしたら俺は文系だった。いや、文系としてもF──不可だ。専攻の授業で必要な研究誌の英語を解読することも出来ないのだから。

 それに気づいた頃にはもう劣等感の塊になっていた。誰を見ても天才に見えるし、笑いかけてきても内心馬鹿にしてるんじゃないかって僻んだ。

 そう、自分で分かってる。それこそ馬鹿らしい。努力すればいいんだ。英語だって読んでりゃ読めるようになるって誰かが言ってた。課題だって図書館通ってやればいいんだ、受験の時みたいに。焦って。

 でもやっぱり俺は馬鹿だから逃げてる。

 このコミュニティの中では俺に勝ち目はない、無理だ。そうだ別のことはどうか。バイトをしよう。何か天職が見つかるかもしれない。

 近場の求人を検索した。徒歩8分の駅前。まだ酒は得意じゃないが、バーなんて格好いいじゃないか。

 労働を不勉強の理由にする。

 でもバイトはただの皿洗い。白シャツに黒いベストを着込んでも、バースプーン1つ握らせてもらえない。だって俺は別にバーテンを目指してない。ただの皿洗い要員。「へー。トモってバーで働いてんの? 飲み行っていい?」そう聞かれるのが怖くて俺はだんだんバイト先を誰にも言わなくなった。

 労働の疲労は蓄積する。朝起きられない。授業に出られない。起きても大学に行かなくなる。ただバイトのために生活し始める。たまに大学に出ても訳が分からなくて帰る。課題を出さなくなる。単位を落とす。バイトだけは毎日行く。

 そうやって俺は、どんどん自分の知ってる俺じゃなくなっていった。


 その頃──去年の秋か。コトが入り浸るようになったのは。

 薄くて広い窓を開け放つと、赤が部屋を染めようとする結構綺麗な夕方のことだった。

 俺はバイトで崩れた生活に自棄になって、昼間から缶ビールを飲んでいた。旨さを肯定できない苦さに缶の中はすぐに温まっていき、対して部屋は暗くなるにつれ冷たい風で冷えていく。ペコ、と手の中でアルミがふざけた音を出す。

 俺は窓を閉めるにも億劫で、押し入れの襖にもたれてぼんやりしていた。その時、脈絡なくガチャ、と部屋のドアが開き、コトが入って来た。

 さすがの俺も音には反応し、驚きで「は?」と声を出した。

「ただいま~って誰もいないかー。……誰?」

「いや、誰…………ですか」

 夕闇の迫った薄暗い部屋でも、コトの厚化粧は判別できた。目の縁を黒で囲い、偽物の睫毛で更に黒を乗せている。やけに高い鼻筋、形の整った眉。黒装束に白く浮かび上がる顔は正直不気味だった。それで思わず敬語になったのだろう。

 コトは酔っていた。

「あっちゃ~。隣の人? それとも隣の隣? あーごっめーん!」

「あ、このアパートの人……ですか」

 俺は間抜けにも力を抜いてついでに気の抜けた声を出した。コトはなぜか靴を脱ぎ出す。

「そだよ~。あー、あたしちょっと酔ったから、寝かせて~」

「え、いや」

 さすがに俺は腰を上げた。けど足が痺れてうまく立てない。

「じゃ、おやすみ」

 コトは畳に躊躇なくごろりと寝た。足を露出させて大の字になる。

「ちょ……」

 声を掛ける間もなく寝息を立てていた。コトの目は瞑っていても真っ黒で、部屋は気づけば暗闇に落ちていた。


 そうしてコトは週に1回のペースで部屋を間違え、2回になり、今では明らかに分かって入り込む。ウチの前で眠り込む。コトが俺の部屋に来るのは酔ってる時か二日酔いの時で、俺はしらふのコトを知らない。


 ***


「お風呂ありがとー」

「いや貸した覚えねぇわ。勝手に入んな」

 苛々と文句を継ごうとした俺はコトの姿にぐぅ、と黙った。ドキっとした。

 無防備にもタオル──勝手に出したらしい──を1枚巻いただけの格好で出て来たのだ。まぁ確かに狭い昭和のアパートに脱衣所なんてあるはずもなく、風呂とトイレが別なだけ気が利いてる訳だ。浴室を出ればすぐ部屋だから、その格好も仕方ない。

 俺は一瞬コトの上半身の凹凸をガン見し、焦げ茶色のタオルから伸びた白い太ももに視線を下げたところで我に返った。

「帰れよ」

 男であるからして確認すべきことは確認せずにはいられなかった。しかし興味のなさを装い、背を向けコンロの前に立った。とりあえずお湯を沸かす振りをする。ヤカンに水を入れ火に掛ける。さて振り向くぞ、と振り向いた。

 果たしてコトは全裸だった。

「おい!」

「ちょっとまってー。あれ、新しいパンツなくてさー」

 辛うじて背中を向けた姿勢だったことで丸見えではなかったが、細い背中に走る背骨の華奢な線やその行く先のまろみを目の当たりにして、俺は再びヤカンに向き直った。

「あー、あったあった。ごめん、今着替えて帰るわー」

「は、早く帰れ、よ」

「うん、分かってるー。ごめんねぇ、毎度」


 シュンシュン、とヤカンが唸り出す頃、コトは「あんま見ないでよ」と言いながら、スッピンのままウチから出て行った。黒で囲まれていない目が詐欺みたいに小さくて違和感しかなかったのに、コトも女だと俺はそのとき気づいた。

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