トモ 3

 土日は無為に過ごした。ノートを開こうとすると佐藤や他の奴らの正論が耳に響いて、俺は苛立って何度かそれを投げ出した。

 月曜早く起きたのはほとんど意地だった。俺だってやれるところを見せてやろうと思った。ガキみたいだ、と思いながら俺が教室に入ると、珍しい奴が来た、と視線を交わす奴さえいた。俺も珍しいと思ってるぜ、と群れから離れた場所に座った。

 けど土日のぐうたらのおかげか体は軽く、フルコマを乗り切れそうな予感にひとり浮かれた。


 雲行きが怪しくなったのは5コマの帰り際。同じ専攻の奴らが授業の前から忘年会がどーの、と話題にしているのは聞こえていた。

 今日もバイトだ帰ろうと、リュックを持ち上げた時だった。

「トモも忘年会来ないか?」

 佐藤が遠くの席から話を振ってきた。周囲の奴らがこちらに注目する。静まる教室と微妙な空気。

「……ごめん、バイトあるから」

 さすがに空気くらい読む。けど佐藤は何の気遣いか食い下がる。

「あ、じゃぁトモのバイト先が二次会ってどう?」

 勘弁してくれ、クソったれ。昼に食ったカレーが胃から込み上げて口の中が酸っぱい。吐き気すらしてくる。「え、芳田のバイトって飲み屋」「バーだって」「そうなんだー」一気に賑やかになった教室に、俺は舌打ちしかけた。繕えず、佐藤を睨む。

「うち、オーセンティックだから学生の集団は多分断わるし、高いよ。1杯千円くらいする」

 堅苦しい店の雰囲気がこれ程頼もしかったことはなかった。「そりゃ高すぎて二次会じゃ無理だ」「オーセンティックって何」と自由に話す奴らに、俺は雰囲気で肯いて「じゃ」と今度こそ教室から出た。逃げるように、そうだ俺は逃げてるんだ。

 動悸がひどい。喉がカラカラだ。何なら目の前も歪んでる気がするが、俺は懸命に足を速めた。煽られて授業なんて出るんじゃなかった。


 ***


 客足は遅かった。マスターと延々話すタイプの常連が22時頃から集まって静かな日になると思ったら、明らかに酔っ払ったイカツい2人連れがけたたましい笑い声を上げながら入って来た。俺は不快を顔に出さずそっとマスターの様子を窺ったけど、「いらっしゃいませ」といつも通りの発音に従った。

 その客は最終的にはマスターのカクテルに文句をつけて勘定を払わないと言い出した。「中で洗い物」と小さく指示したマスターに肯いて素早く裏に引っ込んだ。時々そういう輩はいるから、俺はそこまで心配せずに裏で洗い物を始めた。常連が揃って食べたチーズが皿にこびりついて取れなかったから、耳を澄ませたりしてなかった。

「馬鹿にしてんのかあぁ! 不味いっていってんだろぉがぁ!」

 ダァァァン! 突然、ガラの悪い声が響いた次の瞬間、店が揺れるほどの大きな音がした。俺はひとり跳び上がり、シンクに掴まって咄嗟に身を縮めた。

 瓶の雪崩れて大量に割れる音だ、と震えた。まるで降ってくるような。そして今も止まない、尋常じゃない怒鳴り声。くぐもった声。暴力の音。また瓶の割れる音。

 俺は背を向けてカーテン1枚隔てた安全地帯にいるにも関わらず、咄嗟に息を殺した。恐ろしさに目を剥く。目だけ忙しなく視界内を動き回るが、見えるのは銀色のシンクだけ。恐怖で後ろを振り返ることが出来ない。

 一瞬しん、と音が無くなったと思ったらまた客が怒鳴り散らし始めた。怒号。マスターの声は全く聞こえない。

 警察を呼んだ方がいいのか。マスターは無事なのか。怖い、怖い、怖い。突然カタカタ、と音がして何の音か分からず俺は怯えた。でもそれは俺が持っていた洗いかけの食器の鳴る音で、手がひとりでに震えていた。

 突然──俺にはそう聞こえた、店のベルが乱暴に鳴って、誰かが出て行ったのが分かった。そして再びの静寂。俺は暴漢たちが出て行った、と思い、ホッとしたか手に持っていた皿を取り落とした。さっきの百分の一くらいの大きさでガシャン、と音を立てた。

「……大丈夫か」

 カーテンがめくれて店の空気が入り込む気配。俺はその普段通りの空気の流れに堪えきれず涙が出た。恐る恐る振り返った。俺はまだ、震えていた。

「マ、スタ……」

「俺は無事だ。酒は無事じゃないから今日は閉めるぞ」

 と、ため息を吐いたマスターの額は血だらけだった。


 この辺のケツモチと対立してる奴らだろう。

 マスターはそれだけ言うと無事だったMaker'sMarkメーカーズマークをストレートで呷った。「ちっ、こんな安い酒ばっかり残りやがって」と毒づきながら。額の血が固まって凝りになっているからか、髪は崩さず杯を呷る。俺はマスターのすぐ横のカウンター席に座って、少し荒れた様子のマスターをぼんやり眺めていた。皿は洗い終えていた。

「……明日も開けられないな。酒の在庫を調べて仕入れて……1週間だろうな」

「休みですか」

「あぁ。今日ももう上がっていいぞ。くたびれただろ」

「いや、でもこんな状態で……何か手伝」

「お前は帰れ。明日も大学あるだろ」

「いやでも」

「いいんだよ。勝手の分かんねぇ奴がいても邪魔になるだけだ。また開ける時連絡するから、もう今日は上がってくれ」

 俺は何も言えず、のろのろと立ち上がった。カウンターの上は瓶やグラスの破片が飛び散っていて照明のオレンジをチカチカと反射させた。じゃり、とアパートの最後の段を登るような音がして、足元を見るとやはり破片が落ちていた。今すぐウチに帰りたくなった。

 俺は「お疲れさまでした」とその場で頭を下げた。

「うん。……トモ、お前」

 顔だけで振り返る。また目に入る硝子の反射。

「はい」

「もう来たくなかったら辞めていいぞ」

 ゴクリと唾を飲んだ。俺は答えられずに「はい」と言って店を出た。ひんやりと露出した肌に突き刺す空気。じわじわとコートとシャツの隙間から冷たさが入り込んでゾクゾクと背中を粟立てた。外はまだ日をまたがない時間帯で、少しの往来。ぶら、と歩く客より客引きの方が多い様子に、あぁ今日はこの通りは静かだったんだな、と他人事のように思った。路地を曲がり路地を曲がり、とうとう住宅街に抜けて誰もいない道路に立った途端、膝が笑い始めた。

 カクカクと阿呆みたいに力が入らず、俺はアスファルトに崩れ落ちて手をついた。

 怖かった。なんであんな奴らがいるんだ。怖かった。もう関わりたくない。連絡? 来たってもう行きたくない。あいつらがもう店に来ない確証なんて無いだろ。ヤクザって何だ。マスターも関わってるのか? 怖い。何であんなに荒らされて店を続けようとか思うんだ。馬鹿じゃないのか。おかしいんじゃないのか。

 俺は気づけば道路の真ん中で嗚咽しながら、嘔吐いた。酸っぱい。そう言えば夜飯を食べてない。なんで。あぁ板垣のせいだ。あいつが店に来るとか言いやがったから予定が狂ったんだ。酸っぱい。


 俺は吐き気が治まるまでそこで胃液をまき散らしてアパートに帰った。体中煙草臭くて目も口も体液で濡れていたけど、俺は布団にくるまってきつく目を瞑った。

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