コト 4

 ざわめき、あからさまな笑い声、グラスの鳴る音、氷の溶ける音、液体の混ざる音。煙草と香水のべたつく空気、カラカラに乾いた空調の風、時折頬にかかる酒臭い息。肩に触れる湿った不快な手、温まって不味いビール、好きじゃ無いワイン、太ももに掛かる手、払いのける面倒、引き攣ってくる表情筋。あたしの夜はそうして更ける。

 あぁ、それだけじゃなかった。

 度を越えて飲まされたり、営業のためにアフターに行って具合の悪くなった夜はトモのウチに行く。吐いてしまうと分かる時はそうすることにしている。体のいい洗面器。ううん、彼は洗面器よりは表情豊か。

 土曜の仕事明けは久しぶりに意識を飛ばしてしまった。それでもトモのウチに辿り着いたのは、帰巣本能が芽生えてきたのかな。

 そこまで考えて、あの部屋が巣、って言うのも笑える、と口を歪めた。

 トモは変な奴。酔っ払って上がり込むあたしを追い出さない。最初は本当に間違ったんだけど、悪い奴じゃなかったからからかってやろうと思って入り浸った。その内居心地が良くなって、部屋も近いしなし崩し的にお世話になってる。

 不機嫌に「帰れ」とは言うけど、本気の力尽くで追い出す訳じゃない。きっと育ちがいいんだろう。でも最近は言葉が冷たいのなんの。ま、ちょっと裸見せたら大人しくなってたけどさ。可愛いね。


 今週は仕事は休みにしてゆっくりする予定。来週からは忘年会で目の回るような忙しさだろうから。先に休んでおく。黒いボストンバッグをさすって感触を確かめる。うん、3日くらいなら持ちそうだな。

 あたしは102の鍵を開けた。トモのウチの隣の隣。今、トモは大学に行ってるみたい。物音がしなかった。かちゃ、と薄暗くて埃っぽい室内に入る。ドサッとバッグを上がり口に置く。ドアを開け放ったままなので中に光が差し込んで台所のフローリングに紗の絨毯が敷かれてるみたいに見えた。埃だけど。

 あたしはそのまま暗い部屋を突っ切って、カーテンを開けずに窓を開けた。さぁっと冷たい空気が首筋を通り抜けていった。今時古くさい、蛍光灯から垂らしてある紐を2度引っ張る。

 振り返って白い灯りに照らされた古い部屋を眺めた。ここはあたしの書斎。今通った一本道しか床が見えるところはない。並べられた本の表紙が色々で、まるでモザイクみたいに模様を作ってる。

 清々しい風に紙の匂いが動いて、わたしは深呼吸した。あぁ落ち着く。

 トイレと浴室に続く戸の隙間だけ空けて、テーブルも家具もないただの8畳を本棚で四方を囲っている。そしてその内側には床に積まれた本、本、本……。1年もしないで本棚は埋まって、床が抜けるのが怖くて本棚は置かなくなった。でも本自体の重みでそろそろ抜けてもおかしくないかな。一応高さを合わせてまんべんなく積んでるけど。

 なんで1階にしなかったんだろ。あぁ、湿気が気になって2階にしたんだっけ。

 棚を置くのは途中で諦めた。本当は小さな図書館みたいにしたかったんだけど、床に積んでいった方がたくさん入った。でも床が抜けないかが本当に心配。そう思っても休みの度に本は増える。


 生活している家は別にある。そこも昭和の木造アパートだけど、ここは鉄筋。この部屋のことは誰にも言ってない。

 トモのウチは本当にみっけもの。酔って吐いても甲斐甲斐しく世話をしてくれるし、シャワーを借りても小言で終わり。さすがに彼女が出来たなんて言うなら引っ込むけど。僥倖だったわ、と独り言ちる。

 この部屋では絶対に吐きたくない。本を汚してしまうのは嫌だ。シャワーもトイレもこの部屋では極力行かない。湿気でカビが生えてしまう。冬は閉めきっても窓を開けていても湿気る。エアコンをつけながら換気して過ごす。電気代は馬鹿にならないし、本が溢れてきて寝る場所も台所しかなくなってきた。でもこの本達は捨てられない。売りも出来ない。

 ここだけがあたしの居場所。

 あたしだけの世界。本を読んでいる間だけは、自分のことを忘れられる。自分でなくていい。

 あたしはその一本道途中の山を少々崩して座る場所を作ると、台所にバッグを取りに行った。中から文庫を出す。さっき中古本屋で10冊買ってきた。コンビニで食料も。トイレは仕方ない、ここで用を足そう。

 黒い表紙のいかにも怪奇物の文庫をめくる。パラ、と吸い付くような紙質が愛おしい。あたしは字を追い始めた。エアコンから乾いた風があたしに届いて、髪が煙草臭いのに気づく。

 シャワー……シャワーはトモが帰ってきたら借りればいい。そう思って、でも1頁めくったら忘れてしまった。

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