ブックツリーと星

micco

トモ  1

 薄暗い店内。所狭しと並ぶ酒瓶。ウィスキー、ブランデー、ラム、スピリッツ……大小様々な形のグラス。照明に反射するラベル、硝子、煙草の煙。煙草の匂い。白いシャツに黒のベスト。客やマスターから話し掛けられるまで動かない。じっと出番を待つ。朝が明けるまで氷を絶やさないようにすること。グラスを洗う、皿を洗う、グラスを拭く。聞き慣れてきた古いジャズの曲。マスターとしゃべり続けて結局2杯しか飲まない客、同伴で連れてこられた財布のための客、出勤時間まで人の金と時間を食い潰すための客、訳知り顔に酒を語る客、美味そうに静かに飲んで帰る客。

 それが俺の夜の全て。

「もう上がっていいよ」

 40絡みのマスターが最後の客を見送って、髪を崩しながら言った。店内唯一の時計は電話のディスプレイ。液晶には03:06と表示されていた。

「あ、洗い物まだ残ってるんでやっていきます」

「大丈夫だ。ボチボチやるさ。それよりレポートとかあるんだろ。単位取れないと困るだろ」

「まぁ」

「ほれ、いいからもう帰って寝ろ。んで明日は勉強しろよ」

「……はい」

 曖昧に肯いて店のドアに下がる。

「お疲れさまでした」

「また来週」マスターがこちらを見ずに煙草を持つ手を軽く上げた。


 まだ夜の気配の濃い繁華街を歩く。俺のウチは路地を曲がり路地を曲がり、ごみごみした空気が薄まった頃に見えてくる。元はクリーム色だったろうアパートだ。「昭和って感じ」と1年の時の同じ授業の奴に言われるくらいボロだ。

 錆びた階段を登る。少しずつ目線が上がって一番最初に見える茶色いドア、そこが俺のウチ。早く寝たい。煙草臭い自分に顔をしかめる。少しずつ上がる視界にドアノブが見えたとき、そのすぐ下に栗色の長い髪がもたれかかってるのが見えた。チカチカと消えかけた蛍光灯がその髪を栗色と錆色に交互に塗り替える。

 またか……

 最後のコンクリをじゃり、と踏んで2階に上がる。案の定、そいつは短いスカートの足を投げ出して座ったまま寝ていた。

「おい、起きろ、邪魔だ」

 バイト用の黒靴の爪先でその酔っ払いの腕の辺りを突く。砂がつこうが土がつこうが関係ない。人のウチの前で勝手に寝ている奴が悪い。

「おい、邪魔だ、コト」

「うぁ……は」

「は?」

「吐く……」

「ちょっ! 待て!」俺はコトの体を力尽くでドアの前から押しのけた。ドン、と彼女が手に持っていたバッグが音を立て、軟体動物のような上半身は完全に床に寝そべった状態になる。俺は慌てて部屋の鍵を開け、最早ゲロ専用になった洗面器を洗面所で引っ掴んだ、と同時に「うぁ」と嘔吐えずく声と形容しがたいアノ音が聞こえた。俺はその瞬間立っていられないほどの疲労を感じて、洗面器を苛立ち紛れに放った。


 ***


 アラーム。アラーム、スヌーズ、アラーム。アラームじゃない電子音。電子音。

 うるせぇ……

 俺は嫌々ながらショボショボ目を開け、後悔した。朝の白々しい明るさが目を潰しにかかるのは致し方ないけど、コトの半裸の体が視界の半分を塞いでいる。何で脱いでるんだ。汗臭い自分の頭の匂いにシャワー浴びなきゃ、と目を瞑って手だけでスマホを探す。

 断続的に何かの通知音がするが、コトのだろう。聞き覚えがない耳障りな音だ。

 8:56、まだショボつく目で映した数字を認識して、俺は飛び起きた。俺はカラスのごとくシャワーを浴びて比較的匂わなそうな服を急いで着る。

「ぅ……トモ、出掛けるの」

「関係ないだろ。お前さっさと服着て帰れ」

「今何時……」

「自分で見ろ。さっきから鳴ってるぞ」

「うるさくて眠れなかった」と顔も見ずに冷たくうそぶき、ブルゾンを羽織る。「いってらっしゃーい」と響いた白々しい声に、俺は何も返さず外へ出た。

 昨夜のゲロの跡が白く残っていた。


 寝起きで寝不足の体で走って大学へ向かう。今日は土曜だが同じ専攻の奴らと勉強会の予定だった。

 クソ! 遅刻したくなかった、と内心悪態をつきながら急いだ。学生会館──休日も解放されている──に駆け込むと、3つある丸テーブルを占領するように10人程慣れた顔が集まって楽しげにノートを広げていた。俺は気後れしながら、でも駆けたままその集団に近づく。「おはよう」と声を掛けた。

「おーおはよートモ来たんだ」「トモ君バイトだったの?」「めっちゃ眠そうじゃん」

「悪い、遅れた」

 俺は運動不足でか動悸が酷かったが、声を上げた奴らに出来るだけ手を挙げたり笑い返した。佐藤が少し呆れたように「無理しなくても良かったのに」と整った眉を下げた。

 必修授業で来週のテストがあるから勉強会に来ないか、と俺を誘ったのは佐藤だったはずだ。範囲すら分かっていない俺に断わる権利はないだろ、分かってるくせに。苛ついたが「いや出席ヤバいし」と苦笑してみせる。「まぁそうだな」と肩をすくめる姿から不自然に目を逸らしてどこの席に座ろうかと、集まった顔見知りを見回した。

 けど誰もが興味を失ったように目の前の相手としゃべるだけで、俺の存在を忘れてしまったような空気が漂っていた。俺は逡巡し、結局佐藤のテーブルに近寄ってそこに座った。


「え、じゃあこの数列、佐藤もう解いたってこと?」「すげぇ」「天才かよ」俺は佐藤のノートをミミズののたくったような字で書き写しながら適当に相づちを打つ。先週も今週も数える程しか授業に出ていない俺にとって、目の前のノートは持ち主への苛立ちに反比例して最高にありがたい代物だ。「いや皆解けるよ」なんて謙遜する佐藤に砂を吐きそうになりながら手だけを動かした。

 正直、皆が盛り上がる話題は俺の知らない友人のことだから話には交ざれず、先週の授業もほとんど出てないからノートも内容も今のところ全然分からない。暗号のような数列と式が俺を馬鹿にするように見上げてくるだけで、同じテーブルに座ってる奴らは俺に話を振ろうともしない。

 俺はノートを写し終えたらすぐにでも帰ろうと思い始めていた。けど話が一段落したのか佐藤が俺に話し掛けた。

「トモ、まぁテストは解ければ単位は確実だけど、来週は授業出ないとそろそろレポート課題出るぞ?」

 眉を寄せて佐藤が親切に言う。「そうだぞ」と周りも呼応する。何だよいきなり説教か。「あぁ分かってる」そんなこと。

「先輩が専門単位落としたら、全部取るのに4年までかかるって言ってたぜ」「トモ前期は全部取れたの?」

 俺は追い打ちをかけてくる奴らに視線を遣りながら再び胃液が上がってくるのを堪えた。再び何でもないように「分かってる」と笑い返した。

「バイト大事なのも良いけどさ、親とか成績表見るっしょ? バイト減らしてさ、いい加減真面目に授業来いよ」


 「昼飯行かねぇ?」と皆で食べに行く雰囲気になった。けど俺は「今日もバイトだから」と断わった。飯に行かないのは俺だけだ。脇目も振らずウチに帰った。

 クソ食らえ!


 馬鹿みたいなうるさいボイラーの音が聞こえて俺は苛立ちに階段を蹴った。

 まだいるのかよ……

 自分のウチにコトがいるようだった。古いボイラーはどこの部屋がお湯を沸かしているのか判別できるようになっていて、プライバシーもへったくれもない。俺は心底苛立たしくて鍵の掛かっていない薄っぺらいドアを乱暴に開けた。そしてわざと音を立てて閉める。

「トモー?」

 今時タイル張りの浴室から呑気な声が聞こえてくる。俺じゃなかったらどうするつもりなのか。一応女のくせに危機管理はどうなってるんだ。てか、なんでここでシャワー浴びてるんだ。自分の部屋で入れや。

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